第7話 マユと繭。

 翌日。今日は2限から、大学で哲学の講義があった。……まあ、2限からというか、2限が終わったら帰るけれど。


 しかし、小説執筆のための時間を確保するために入った大学ではあるが、案外興味深い講義もあるものだと、2年生の春、ようやく今頃になってわたしはそう思い始めていた。


 特に今日の講義に出てきたテセウスの船という思考実験。


 某所にて『テセウスの船』という老朽化した船があり、部品の修理、交換を繰り返していた。そんなある日、いつものように修理を行っていると、今のテセウスの船は元の『テセウスの船』の部品が全て交換し尽くされ、一つも残っていないということに気づく。今のテセウスの船は、全てが新しい部品で構成されていた。


 すると、元々の『テセウスの船』の部品が一つもない、今のテセウスの船は果たして『テセウスの船』と呼べるのか? なんてパラドックスが生まれる、というものだ。


 なるほど、現代で言うところの元のメンバーが全員卒業してしまったA〇B48みたいなものか、とわたしは一人納得した。


 とはいえ、元の部品が全て交換されたテセウスの船も、AK〇48だって、わたしはそう呼べるものではないと思う。いや、名前が同じでも本質が違う、同一ではないといった方が正しいか。


 わたしも過去、高校以前は小説家になろうとなんて思っていない自分だった。そんな過去のわたしは徐々に、今のわたしからは完璧に淘汰されていったわけだが。

 今思えば過去のわたしは、わたしではなかったのだな、と思う。


 小説家になる、という絶対的な軸を持つ今の『天宮マユ』と、ただ惰性で生きていただけの愚かな『天宮繭』とでは、趣味思考も考え方も、全てが違う。


 だったらそれは別人だ。名前が一緒でも、存在が地続きでも。中身が別物なら、『天宮マユ』と『天宮繭』は同一ではない。


 加えて言うなら、胡桃の世界に映る『天宮まゆ』だって、『天宮マユ』の本質とは全くの別物なのだ。


 だからわたしは、『テセウスの船』はテセウスの船であっても、『テセウスの船』ではないと、そう思う。


「……」


 と、長々と語ってしまったが、要は哲学を勉強、小説のモチーフに起用して、物語のフックにできたなら、それは面白いことが出来そうだ、これは使えるぞと、そう考えていただけなのだけど。


 やがて講義が終わり、生徒たちもぱらぱらと教室から捌け始めた。

 わたしも机に散らかしていた筆記用具やスマホを片付け、教室の外へ出る。


「あ、まゆ。昨日ぶり」

「胡桃」


 教室の廊下の壁にもたれかかっていたらしい胡桃は、わたしを見つけると犬みたいにわたしのもとへ駆け寄ってきた。


「哲学の講義だっけ」

「ん。意外とおもしろい」

「へぇ~。私も取ればよかったなぁ。言ってくれれば、私も履修登録したのに」

「ごめん。この講義を取ろうって決めたの、履修の締め切りギリギリだったから」


 ちなみに、わたしと胡桃の時間割はほとんど同じだが、火曜2限――つまり先ほどの時間だけは、わたしたちはそれぞれ別の講義を受けている。


 胡桃と一緒に講義を受ければ、課題やらテスト対策やらが比較的安易になることは事実であるが、わたしは基本的には一人の時間が好きで、一人でいる方が気楽でいられる人間だ。一週間のうちの一コマくらい、息抜きの時間があったっていいだろう。


「そういえばまゆ。今から学食行かない? 確か限定のオムハヤシが今日からスタートだったよ」

「えっ? ほんと?」

「ほんとだよ~。嘘なんて吐かないし」

「……そっか。今日から、だったっけ」

「なんでしょぼくれてんの?」


 小首をかしげる胡桃は数舜後、合点がいったようにポンと手を打った。


「ってあ、なるほど。まゆってば、今日これからバイトだったっけ」

「……ん」


 そう。わたしは今日、12時半からバイトのシフトが入っている。そして今は12時きっかり。ただちに帰宅し身支度を整えなければならない。……オムハヤシ。


「まあまあ。そんなに落ち込まないでよ。今日からスタートってだけだし。また明日……は講義ないか。明後日来ればいいよ」

「ん。そうしよう。ぜったい」


 わたしはおもわず胡桃の手を取り、がしっと掴んでそう宣言する。

 対する胡桃は急速に顔を赤らめ、


「……うへっ? あ、そ、そうしようそうしよう! 明後日ならまゆのバイトも休みだしね!!」

「……」


 ……休みって。さっきからなんでそんなことを知っている。


「……」

「……まゆ? な、なに? じーっとみつめてきて」


 ところで、胡桃は良い奴である。優しいし、気配りが出来るし、頭もいい。


 一緒に飲食店に行けば、必ずわたしの分の水を汲んできてくれるし、この前なんかは街でご老人を助けていたらしいことを人づてで聞いた。


 けれど火曜のこの講義終わり、胡桃はいつも外でわたしを出待ちしていたり、何故かわたしよりもわたしのバイトのシフトに詳しいことなど。


 そういったところ、彼女は少し気持ち悪い。なんていうか、ストーカー気質がある。


 顔と声が可愛く産まれることが出来てよかったねと、わたしは思うわけだ。

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