WOLF・EYE

さくらとろん

一話

「えーっと、この問題は……」

 数学の授業。いつも難しい問題を生徒に出し、解けないとこっそり嘲笑う、質の悪い教師が、黒板に書かれた文章をチョークでトントンと叩く。みんなが、膝の上で手を合わせていた。俯き、どうか当たりませんように……と神様に祈っている。

「……塚田つかだ。お前、解けるか?」

 名前を呼び、ほっとするクラスメイトたちの安心する息が聞こえた。ひとみも胸をなでおろす。

「ほら、塚田。早くこっちにこい」

 イライラしたような口調。塚田は「はい」と立ち上がり、まっすぐ教師のとなりに行った。チョークを手に取り、一分もかからず解いてしまった。

「……これでいいと思います」

 あっという間もなく余裕で解いた塚田に、教師も目を丸くした。しかし「ゴホゴホ」と咳をすると、首を横に振った。

「よろしい。席に戻れ」

「はい」

 軽く頭を下げ、塚田は自分の席に座った。

 誰も解けそうにない、難しい問題。あんなふうにわかるなんて……。どきどきと心臓が跳ねる。

「かっこいい……」

 思わず、心の声が漏れていた。慌てて口を閉じ、周りに聞かれていないか焦る。

 本当に、本当に、かっこいい。塚田くん。優等生で、学級委員長で、文武両道。優しいし、穏やかだし、女の子たちの人気者だ。バレンタインデーや誕生日では、数えきれないほどプレゼントをもらっているし、ファンクラブだってある。女の子だけではなく、男子からも「かっこいいよな」「塚田みてえになりたいよな」と、憧れの眼差しを向けられているのだ。小学生から、もうそういう存在で、中学も高校もヒーローみたいに思われている。

 休み時間になると、塚田の机にクラスメイトたちが集まった。

「さっきの問題、よく解けたね」

「超難しかったのに」

「俺なんか、ぜってー解けねえよ」

「すげえよな。塚田の頭ほしい」

 ははは、と苦笑いしながら、塚田は答えた。

「ちゃんと授業受けてれば、わかるよ」

「わかんねえよ。いくら受けたって」

「あたしなんか、日本語? って感じだったよ」

「ああ、そうだよね。なんか呪文唱えてる? って思ってた」

「呪文か……。確かにあの先生、説明が下手だよね。回りくどいっていうか……」

「それなのに、塚田は解けたんだよな。マジですげえよ」

「今度、家に行っていいか? どうやって勉強してんのか見たい」

「別に、大したことしてないけどね」

 もう一度笑う。塚田の笑顔は、女子にも男子にも元気ややる気を与えてくれる。

 じーっと眺めていると、頬を指でツンツンされた。

「ひーとーみ。また熱い視線、送ってますなあ」

「み、美沙子みさこ……」

「そんなに好きなら、声かけてみれば? 告白はできなくても、話をするくらいなら大丈夫でしょ」

「む、無理だよ。塚田くん、私となんかおしゃべりしてくれるわけないもん」

「自信ないねえ。あたしが連れてこようか? 瞳と話してあげてって」

「やめてよ。勇気ないし……。余計なことしないで」

 はあ、と美沙子がため息を吐く。

「じゃあ、ずっと眺めてるだけ?」

「うん。それで満足だからね」

 ビシッと人差し指を差し出された。

「意気地なしはだめだよ。彼女は無理でも、友だちにはなりなさい」

「なりなさいって。難しいよ。さっきの問題よりも難問だよ」

 無意識に俯く。こうやって背中を押してくれるのはありがたいが、だめなものはだめなのだ。可愛くない自分を見られたくないし、共通の話題もない。おまけに緊張して舌を噛んで恥ずかしい思いもしたくない。

 大体、塚田を好きになるのだっておこがましい。相手は、言ってしまえば王子様なのだ。王子様はお姫様と結婚する。平民の瞳は、平民としか結婚できない。というか、まだ男子と手をつないだことがないのだ。小学生の頃、肝試しで手をつないだが、それ以外は触れ合った経験がない。つまり平民とも仲良くなれない。いきなり王子と会話など、絶対に不可能なのだ。

「ふうん。けど、あたしたちまだ高校二年生じゃない。これから人生は始まっていくんだよ。いつかは彼氏が現れて、結婚するかもしれないじゃん」

「美沙子は簡単に言うけど、私には死活問題。未来に何があるかわからないでしょ」

「わからないから、生きるのがワクワクするんでしょ。もしほんの少しでもわかったら、全然楽しくない」

「それは、そうだけど」

 休み時間終了のチャイムが鳴った。美沙子は自分の席に戻り、瞳も安心した。

 親友が幸せになるために、美沙子はしつこくアドバイスしてくる。アドバイスというか、ただのお節介とも言えるが、心配してくれているのは感じる。ありがたい気持ちと、いい加減やめてくれという複雑な思いが生まれる。塚田の顔が頭の中に浮かび、授業も上の空になる。恋に落ちると人は変わるというが、瞳の場合は力が抜けていくだけ。地に足がついていないというか、宙にフワフワ飛んでいる。しっかりしないと、そのまま空気と化してしまいそう。

 次の科目は、これまた瞳が苦手な英語だ。日本に住んでいるのに、なぜ英語を勉強しなくてはいけないのだろう。教師と目を合わせないよう教科書で顔を隠していたが、名前を呼ばれた。

朝倉あさくらさん。この英文を和訳してください」

「え? わ、私ですか?」

「はい。朝倉さんですよ」

 他のクラスメイトは、頑張れという眼差しを向けてくる。可哀想という小声も聞こえる。数学の教師ほどではないが、英語の教師も質が悪い。ダラダラと冷や汗が流れる。

「え、えっと……。こ、これは」

「これは? 何でしょうか?」

「こ、これ……は……。この……和訳は……」

 全く答えられない。全身が小刻みに震える。すると、誰かが手を挙げた。

「僕が答えます」

 塚田だった。あまりにも見てていたたまれなくなったのだろう。教師は「では、塚田くん。どうぞ」と返し、流暢な口調でスラスラと答えた。

「はい。そうですね。当たっていますよ」

「よかったです」

 ふう、と息を吐き、塚田は椅子に座った。

 昼休み、美沙子と弁当を食べながら塚田の素晴らしさを語った。

「超かっこいい。数学も英語も解けるなんて」

「ちゃんとお礼しておきなよ」

「お礼? なんで?」

「瞳が答えられなくて、代わりに塚田くんが答えたの。助けてくれたって意味。ありがとうって言わないと失礼だよ」

「あ、そっか……」

 途端に、食欲が失った。どんな顔で、どうやってお礼をしたらいいのか不安でいっぱいになった。

「ど、どうしよう。お礼したいけど、声をかけるタイミングなんかわからないよ。美沙子だったら、どうやってありがとうって伝える?」

「さあ? あたしに聞かれても。こればっかりはね」

 こういう大事なことにはアドバイスしてくれない。弁当を半分以上残して、蓋を閉めた。

 結局、そのあとも塚田に近づくことすらできず、帰りの時間になってしまった。

「塚田くん、バイバイ」

「また明日ね」

「今日、数学も英語もかっこよかったよ」

「ありがとう。気をつけて帰ってね」

 他の女の子たちは、あれほど安々と話ができるのに。情けなさすぎる自分が嫌いになった。

 トボトボと歩き、家に帰る。

「ただいまあー」

「あ、瞳。ちょうどいいところに。買い物行ってきてえ」

 母のあゆみがキッチンから困った声で叫んだ。

「なに買えばいいの?」

「牛乳と、お醤油。お願い」

「じゃあ、行ってくる」

 制服の状態で、ドアを閉めた。

「全く、ママってドジなんだから……」

 文句を言い、スーパーへ走った。頼まれていた二つをカゴに入れ、レジで買う。何の問題もなく、ビニール袋を持って走った。

「ありがとう。助かったわ。確かに買ったって思ってたのに」

「これからは、メモしてから買い物に行ったら? 私も学校生活で疲れてるんだよ」

「まあ、そうね。瞳の言う通りかもしれないね」

 苦笑いし、ビニール袋から商品を取り出した。

 十一時半に、父が帰ってきた。

「いやあ。昔の友だちと道でバッタリ会ってねえ。いろいろしゃべってたら、こんな時間になっちゃって」

「ビール飲みすぎよ。お酒って体に悪いの」

「たまにはいいじゃないか。ああー。楽しかった。やっぱり友だちって、たくさん作っておくべきだよな」

「はいはい。さっさとお風呂に入って。テーブルに水も置いておくから」

「おっ。ありがとさーん」

 下品に笑いながら、洗面所へ行った。居間でテレビを観ていた瞳に、そっと囁く。

「だめなパパよね。タコみたいに真っ赤になっちゃって」

「まあ、いいんじゃないの? 寝れば治るし」

「瞳はパパに甘いのねえ。もっと厳しくしないと、今度は道端で寝ちゃうかも」

 酔っ払いは嫌だが、瞳にとっては子供想いで優しい父だ。あまり責めたくはなかった。

 風呂からあがり、水を一気飲みしてベッドに寝てしまった。イビキがものすごい。歩はため息を吐いていたが、これもオジサンだから仕方ないと、瞳は割り切っていた。


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