第3話

しばらくして、ぼんやりと霞んでいた思考が、ゆっくりと現実の輪郭を取り戻していく。


まずは――誰かが来る前に、ジルフィスの亡骸を隠さなければ。


一族すべてを弔うことは叶わないだろう。だとしても、せめてジルフィスだけは、この手で埋葬してやりたかった。


この異形のまま発見されれば、“調査”と称して晒し者にされかねない。

死してなお、そんな辱めを受けるなんて――あまりにも哀れすぎる。


辺りを見渡し、周囲を探ろうとしたそのとき。


腕の中、まだ温もりを残した遺体から、濁った羽音が響き、鼓膜を揺らした。


はっとして下を見る。


ジルフィスの腹部に、底知れぬ闇が蠢くようにして口を開けていた。

そこから黒く粒立ったものが、遺体を吸い込むように広がっていく。


咄嗟に抱き寄せた。

......腕にかかっていた重みは、徐々に消えてゆく。


やがて、ジルフィスの遺体は音もなく、闇に呑まれて消え失せてしまった。


何が起きたのか理解できず、俺はさっきまでそこにあった温もりだけを、ただ腕に抱える。


そのとき、入り口の扉から足音が響いた。


「隊長!」


駆け寄ってきたのはヘルガだった。俺の姿を見るなり、息を呑む。


「そんな、怪我を負っているじゃないですか! 大丈夫ですか?」


「あ、ああ……問題ない」


いつもの“レイバス”を演じることで、かろうじて崩れかけた心を繋ぎ止めた。


「あそこに倒れている死体。あれが賊の首領ですか」


肩を貸しながら、ヘルガが問いかける。


「ああ」


短く応じて、俺たちは部屋を後にした。


牢屋の錠はすでにダルムとノートンの手で解かれており、中にいた人々は外へ避難し終えている。


「後援部隊へは連絡済みです。今は輸送用の馬車を手配してもらっています」


事務的な口調の彼女に、俺はただ頷き、階段に足をかける。


正直、外に出るのは怖かった。

そこにはきっと――家族たちの屍が、残らず転がっているはずだから。


闇を抜け、最初に切り裂いた鉄扉の前にたどり着くと、先に出ていた二人が驚いたように声を上げる。


「うわ、どうしたの隊長。ケガしてるじゃん」


「これはいけない。すぐに治癒を」

 

ダルムが近づき、負傷箇所に指を添わせた。淡い白の光が灯り、傷口には薄皮が張っていく。


「応急処置ですが、ひとまずは」


そんな言葉が、水底から響くように遠くぼやけて聞こえた。


俺の意識は、目の前にあった。


視界の先。

十二人の屍が仰向けに並べられている。面はすべて剥がされ、無防備に晒された顔。


最初に目に入ったのはヘルガと切り伏せた、あの女――

彼女は、俺の母だった。


あのときの不自然な硬直。その理由を今、残酷なまでに理解する。

母は、俺の姿を見て――動揺したのだ。


実の息子の手で殺された時、一体何を思っただろう。


他にも、姉、叔父。かつて寝食を共にした家族達が、苦悶の表情で冷たくなっている。


「残った奴らも中々手ごわくてさ。でもまあ、総崩れになってたから、危なげなく仕留めきれたよ」


ノートンの軽口に、理由もなく拳が震えた。


ダルムとヘルガも会話に加わり、戦勝の余韻に浸っている。


たまらず、俺は三人の前に向き直った。


「……よくやった。流石だな、お前達は」


引きつる笑みを、傷の痛みのせいにして。


三人は穏やかに笑みを浮かべた。


「隊長も、なかなかの強敵と戦ったんでしょ? そんな姿、久しぶりに見たよ」


「我々の到着を待ってくれても良かったのでは?」


「本当です。一人で無茶をしないでください」


彼らの笑いと、俺の空っぽな笑いが混じり合う。


一つ息を吸って、俺は口を開いた。


「ほかにも囚われた人がいないか――少し、周囲を見てくる。

お前たちは救助者たちと先に下山して、後衛部隊を待っていてくれ」


唐突な提案に、ヘルガが訝しげな表情を向ける。


「……今から、ですか。なら、私も――」


「いい、大丈夫だ」


言葉を整える余裕もなく、強い調子で押し切ってしまった。

ヘルガの目がわずかに見開かれ「……そうですか」と小さく引き下がる。


「なに、どうしたの隊長?」


場を和ませるように、ノートンがおどけて笑う。

ダルムも、心配そうな眼差しをこちらへ向けていた。


「……少し、一人になりたいんだ。頼む。すぐに追いつくから」


俺の言葉に、三人は顔を見合わせる。

沈黙ののち、ダルムが静かに頷いた。


「……分かりました。くれぐれも、お気をつけて」


「早く済ませてきてよね」


軽く手を挙げ、無理に笑って返す。

だがヘルガだけは、最後まで不安そうな表情を崩さない。


「帰ってきますよね、隊長?」


その問いに、俺は顔を伏せたまま小さく答える。


「ああ。すぐ、追いかける」


そう言い残し、俺はひとり――

暗闇の山中へと、身を沈めていった。

胸の中で、ヘルガに嘘を吐いたことを詫びながら。



息ひとつ乱さず、憑かれたように俺は駆け抜けた。


散らかった思考の中で、暗記していた山の地図だけは、妙に鮮明に思い出せている。

アジトの付近。そこに確か、あの場所があったはずだ。


草木をかき分け、剝き出しの枝が皮膚を裂こうが構わず、石を踏み砕くようにしてひたすら走る。

やがて、くぐもった風の音が耳元へと迫ってきた。


足を止めたその先には――手を伸ばせば触れられそうなほど、真っ暗な闇が、底なしに広がっている。

俺が目指していたのは、この谷底。


息を整え、崖淵に足をかける。

不思議と、足は震えなかった。あるのはただ、奇妙な使命感だけ。

呼吸は既に落ち着いていた。あと一歩踏み出せば、それで終わる。


体の中で唯一、煮崩れるほど熱を持った頭の中で――

今の行動を正当化する言葉だけが、跳ねるように暴れていた。


仲間のこと。家族のこと。ジルフィスのこと。

己に架せられていた使命のこと。

それらすべてに決着をつけるには、これしかない――

そう頷いた俺に、夜風が吹いた。


――そうやって、また逃げるのか。


まるで冷たく、嗤うように。


ああ、そうさ。虚無の中で、俺は呟く。

この先を生き抜く勇気なんて、持ち合わせていない。

今日を乗り越えようなんて、欠片も思えなかった。


最後に、俺は振り返って頭上を見上げる。


美しい月も、輝く星も、何もない。

卑怯者はお似合いの夜空に、満足している自分がいた。


ふと、あの時に聞いた「ありがとう」の意味を考える。


弟はどうしてあんなにも、美しかったのか。


目を瞑り、その問いだけを胸に乗せて――

俺は、奈落へ答えを求めた。



朝の水汲みは、本当に億劫。

春とはいえ、早朝はまだ寒い。もう少し厚めの肩掛けを羽織ってくるべきだった。


「エリス。早く始めてくれ」


兄さんが口を尖らせながら急かす。

私の気持ちなんて、お構いなしだ。


おばあちゃんに教えられた事を脳内で思い返しながら、精神を集中させる。


ええと確か、そばにいる“精霊”を感じながら、言葉でお願いするんだよね。


「雫よ。我が元に集めて来れ」


そうして流れるせせらぎへと両手をかざすと、薄く澄んだ水色の明かりが指先に灯り出す。

ゆっくりと川の水が糸状になりながら私の元へと近づき、それを兄が持ってきた桶まで移動させてゆく。


これが本当に辛い。自分で汲み出すよりは早く終わるが、しっかりと冷たさは感じるし集中力は削られて、終わった後は気怠さで頭が重くなるからだ。


練習を重ねれば慣れるとおばあちゃんは言っていたけど、そんな日は本当に来るのだろうか。


「おーい。集めるの遅いぞ」


あくび混じりにそう言う兄さんに苛立ちながら、私はぎゅっと、指先へ力を込めた。

水の糸が太くなる。すると、何か後ろ髪を引かれる様な感覚を覚え、私の集中が途切れる。

操っていた水流が止まり、地面に落ちた飛沫が足元に飛び散った


「おい、何してんだ」


私の元へため息をつきながら近づく兄さん。


「いや、なんか......誰かに呼ばれてつきがして」


違和感のある方角へ体を向け、導かれるように歩みを進める。


「おいエリス」


呆れたように、私の後ろをついてくる兄さん。

しばらく歩いた先で、岩陰に何かが引っかかっているのを見つけた。


「あれ、なんだろう……」


私は指を差しながら、兄に尋ねる。


「流木……じゃないか?」


「でも、それにしては……なんか変じゃない?」


近づくたびに、流木に見えた影から、どこか冷たい気配が滲み出す。

目を凝らしたその瞬間――なんとそれは、人だった。


私たちは慌てて駆け寄る。


「岩の礫よ。我が手と変われ」


兄さんの呪文と共に、地面の砂利が集まり、大きな手の形をとる。

その“手”が人影を掴み、そのまま岸へと引き寄せて、そっと地面へと寝かせた。


「おい、大丈夫か、あんた!」


頬を軽く叩きながら、兄が呼びかける。

やがて、長い睫毛がかすかに揺れ、ゆっくりと金色の瞳がこちらを覗いた。


咳き込みながら上体を起こす男性。

細く長い、しかし筋張った指先で金色の髪をかき分けながら、ぼんやりと辺りを見渡している。


「……ここは……」


誰に問うともなく、呟くその声に、私たちは答えた。


「ここはヨック村っていう、小さな農村の近くなんだけど……分かる?」


男は小さく首を振った。

兄が自分の肩掛けをそっとかけながら、尋ねる。


「名前は? あんた、自分の名前は覚えてるか?」


「名前……俺の名前は……すまない、思い出せない……」


顔を見合わせる私たち。


「とりあえず、私たちの家に案内しようか」


「ああ、そうだな。怪我もしてるようだし」


私たちの申し出に、男は驚いたように目を見開いた。


「そんな……迷惑になってしまう」


「遠慮すんなって。こんな状況で見捨てるほど、俺らは薄情じゃないんでね」


兄が肩を貸して彼を立ち上がらせると、その体に――何か鋭いもので切り裂かれたような傷跡が、無数に走っているのが目に入った。

ここまで流れ着く間に、岩肌か何かにぶつかったのだろうか。


「すまない……本当に、すまない」


何度も謝る彼に、私たちは笑って「大丈夫」と答えながら、ゆっくり村へと歩みを進めて行った。



「おかえり……って、あら? その人、どうしたの?」


玄関で出迎えたおばあちゃんが、目を丸くして問いかけてくる。


「リヴァル川で流れ着いてたの。怪我もしてて……手当してあげたいんだけど」


私が簡潔にそう伝えると、おばあちゃんはすぐに「わかったわ」と頷き、台所の薬棚へと向かった。


私たちは、かつておじいちゃんの部屋だった客間に彼を通し、簡易ベッドに寝かせる。そのまま兄さんと二人で、手当の準備に取りかかった。


やがて処置を終え、おばあちゃんがお粥を差し出すと、彼は深々と頭を下げる。


「すみません……何とお礼を言えばよいか……」


「いいのよ、気にしないで」


おばあちゃんが優しく微笑む。私と兄さんも、それにつられて軽く頷いた。


そのとき、カチャリとドアノブが回る音がして、父さんが部屋に入ってきた。


「ああ、だいぶ顔色が良くなりましたね。よかった」


そう言いながら彼に近づき、おばあちゃんの隣に腰を下ろす。


「具合はどうですか?」


「はい、おかげさまで。もうすっかり……ここまでしていただいて、本当に申し訳ありません」


再び頭を下げようとする彼を、父さんはそっと手で制した。


「いいんですよ。そんなに気を遣わないでください」


そう言って、椅子に座り直し、背筋を伸ばす。


「せっかくですし、少しだけ自己紹介を。私はこの村の村長、グレイスと申します。こちらが母のルシアナ、あちらにいるのが息子のマシューと娘のエリスです。妻は今、台所に。去年、父を亡くしまして……今はこの五人で、細々と暮らしております」


言い終えると、父さんは少し身を乗り出し、彼の目をじっと見据えた。


「記憶がない、と聞きましたが……今も、まだ何も?」


「……はい」


彼は悲痛な表情で俯く。その気持ちを想像するだけで、こちらまで胸が締めつけられた。


「無理に思い出さなくても構いません。これも、神が引き合わせた何かのご縁でしょう。傷が癒えるまで、どうかここでお過ごしください」


「いえ、そんな……そこまでしていただくわけには……」


ベッドの端に手をついた彼が、肋骨に響いたのか、顔をしかめて小さく呻いた。


「そんな状態では、外へ出てもまた倒れてしまうでしょう。どうか遠慮せずに。旅人をもてなすのも、村長の役目ですから」


「それにご覧の通り、小さな村です。人が増えるのは、皆大歓迎なんですよ」


そう言って、父さんは優しく微笑みながら両手を広げた。

すぐに人を懐へ招き入れてしまうその性格には、少しどうかと思うけど。

でも、それが父さんの“らしさ”でもあるのだ。


私は小さくため息をつきながら、まぁ仕方ないかと割り切る。


父さんの笑顔に引かれたのか、彼はうつむきがちに頭を下げ、小さく「お世話になります」と呟いた。


「喜んで。でも、名前が呼べないのは不便ですね。何か、とりあえず呼んでほしい名などは?」


「いえ……お好きに呼んでくださって構いません」


そう言われても、さすがに困ってしまう。動物の名づけとは訳が違う。


「リヴァル川で見つかったのだから、それにちなんで“リヴァエル”とかでいいんじゃないかしら?」


おばあちゃんが、あっさりとした調子でそう言った。

いくらなんでも単純すぎる、と私達は笑ったが。


「……それで、構いません」


彼がそう頷いたので、そのままとりあえずの仮名が決まった。


「では、改めて。よろしく、リヴァエル」


そう言って手を差し出した父さんの手を、彼は両手で丁寧に握る。


――この日から、私たちとリヴァエルの生活が始まったのだった。

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唄われる者たちへ 横浜 べこ @yokomozi-310

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