【短編】青空と本屋と私と

サクラヒカリ

【短編】青空と本屋と私と

 紺碧の空を見上げながら、私は国道沿いの歩道を歩いていた。


 別に何か目的があるわけではなく、穏やかな日曜の午前に家にいるのがもったいなくて、散歩がてら財布だけ持って出かけた。

 理由はわからないけれど、気分が晴れない日。

 今日はそんな日だった。


 夏の気配を含んだ春の風は心地よく、呼吸をしても肌に触れても、優しさを感じられた。別に嬉しいことなんて何もないのに、自分のテンションを春に合わせたくて、お気に入りのスカートを履いた。

 排気ガスをたっぷりと吐き出す車が、前や後ろから絶え間なく流れる国道の車たちは、どこか他人行儀で、歩道から一メートル先はもう別世界に感じられた。


 この車一台一台が、それぞれ別の用事を抱えていて、目的地に向かおうとしている。

 そんな世界が、中学生の私には信じられない喧騒な世界だと思えた。


 私もいつかは運転をすることになるだろう。

 そのときは目的地を決めずに走る車になりたいと思った。

 それがドライブや旅と呼ばれるものだとしても、私は皆と同じになれる気がしなかった。

 ただ、日曜日に春の風を感じるだけの用事があってもいいじゃないか。

 それが許されない世界だとしたら、私は大人になることがとても怖い。




 歩く、歩く、歩く。


 私は隣町の本屋を目指して、財布だけを持って歩いた。

 隣町の本屋は私が生まれる前から商売をしていて、お父さんもお母さんもそこで本を買って育ったらしい。そのときの店主はおじいさんで、万引きを防ぐために立ち読みする客をしっかり見張って、いつも怖い目をしていたらしい。

 でも今は、そのおじいさんが亡くなり、その娘が店を継いでいた。


 その娘さんはおじいさんとは違った。

 客を怖い目でじっと見張るなんてことはせず、なんと一人一人に声をかける。


 本が好きな客には「いらっしゃい。新刊が入ったわよ」と声をかけ、連載中の漫画を買う客には「それ、来週新しい巻が出るわよ。予約しておく?」とにっこり話しかけ、カメラ初心者向けの本を探す客には「あら、カメラ始めるの? あそこに趣味の本のコーナーがあるから、風景写真の写真集が何冊か置いてあるわ。見ていってちょうだい。いい写真撮ったら見せてね!」と、客一人一人にとても親切に笑顔で話しかける。


 もちろん、手当たり次第に話しかけるわけではなく、話しかけられるのが苦手な人には、話しかけずにただ笑顔だけを見せるという節度を持っていた。そのセンサーは誰よりも正確だった。


 次第に、近所の客たちはネットで本を買うよりも、その本屋で本を買うようになった。たまにSNSでも「心地よい接客をする書店」として話題になったこともあった。

 それでも、その気さくな女店主は「ただ接客してるだけよ」と、謙遜して自ら前に出ることはなかった。


 私はそんな店主が好きで、つい学校帰りや、こうして何も用事がない日曜日に、まるで友達の家に遊びに行くかのように、ふらっと本屋を目指してしまう。


「あら、美鈴ちゃん。いらっしゃい。本屋大賞が決まったけど、見ていって」

 私が店に入ると、さっそく笑顔で話しかけてきた。

「本屋大賞? もう決まったんですか?」

 店主の笑顔につられて、私も必要以上の笑顔で答えた。

 以前、本屋大賞の受賞本を買おうかと、平積みされた本の前で帯のコメントをじっと眺めていたので、「本屋大賞に選ばれた本を読む人」として覚えられたらしい。

 実際に買ったのは2冊くらいだ。彼女のセンサーは今日も抜群に感度が良さそうだった。

「そうなのよ。今朝入荷したから、よかったら見ていって。あ、でも今回は暗い話かも……」

 私が買う本のジャンルは決まっておらず、ミステリーでも時代小説でもエッセイでも、ラブコメでもアクションでもなんでもござれ。けれど、たった一つだけルールがあった。

 それは明るい本ばかり選ぶ、ということだった。


 こんな暗い世の中で、小説でわざわざ暗い話を読む意味がわからなかった。

 だから、私はたぶん本当の意味で読書好きではないのかもしれない。

 毎日流れるつらいニュースや、頭の痛くなるような現実を忘れたくて、私は本を読む。

 そこには希望が詰め込まれているからだ。

 絶望の世界に産み落とされた私を救ってくれるのは、新しい絶望じゃない。

 私は、いつも希望を探していた。

 だから本を読んでいる。

 それがバッドエンドを望まない私の唯一の好きな本のジャンルだった。

 店主はそれを知っていたのだ。


「絵本は? なにかオススメあります?」

 私の言葉に店主は笑顔で「もちろん!」と言ってくるっと背を向けて案内してくれた。

 その背中は、働くことに喜びを感じているように見えた。

 少し羨ましいと思えた。

 喜びと楽しみをいつも胸に光らせることができる人だ。


 私はその背中を信用しようと思った。

 どんな絵本を勧められても、私の気持ちはもう半分以上買うつもりになっていた。

 そして、絵本のコーナーに着いて店主が差し出した本を見た。

 それは外国の絵本で、翻訳されていない本だった。


「これ、海外から輸入した絵本で、日本語版がないんだけど、絵本の中の英語はとても簡単で、絵だけでも話がわかるくらい単純な単語しか使ってないの。中学三年生の美鈴ちゃんにも全然読めると思うわよ。最初は、とても悲しいところから始まる話だけど、最後は絶対にハッピーエンドだから、安心してね。って、ネタバレしちゃってごめん」

 自分のおでこをピシッと叩きながら舌を出した店主は、女の私から見てもとても可愛かった。

 そもそもハッピーエンドの本を探している私にとって、ありがたいネタバレだったから、余計にそう感じたのかもしれない。

「これ、買います。英語の絵本、前からちょっと興味があったので……」

 私はそう言って、レジで1,580円を現金で支払った。


 その時、気分はすっかり晴れていた。

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