短編小説「「不条理な歯磨き粉の魔法 ――消えた日常と、戻りたくなかった世界」
@wasabi_writing
1
ある男がいた。
平日は毎朝7時に起き、歯を磨く。飼い猫に餌をやり、トーストにジャムを塗って食べる。
9時から18時まで働き、仕事を終えるとスーパーで買い物をして帰宅する。
1LDKのマンションに住み、夜は酒を片手に映画を観る。
休日は10時まで眠り、猫が顔を舐めてきたら起きる。歯を磨き、好きな音楽をかけながらゆっくり朝食を作る。
天気がよければ散歩に出かけ、小説の構想を練る。気が乗らなければギターを弾く。月に2度、馴染みのバーに行き、店主と他愛ない話をするのがささやかな楽しみだった。
便利で快適で、変化は少なかったが、それが男には心地よかった。
あの生活が、これ以上ない理想だと思っていた。穏やかな日々が続くことに、何の不満もなかった。
ある水曜日の朝。昨日の天気予報では晴れだったが、カーテンを開けると雨が降っていた。
「まあ、よくあることか」と呟いて、男はいつものように歯を磨く。
口をすすぎ、顔を上げた瞬間――
鏡の向こうはもうなかった。
赤土がむき出しの地面。頭上には容赦のない太陽。周囲には、色とりどりの布をまとった浅黒い肌の人々が、当たり前のように歩いている。建物は石や木で粗く組まれた簡素なもので、空気には土と果実のにおいが混じっていた。汗をかいた子どもたちが走り回り、どこかの市場のような喧騒が辺りに広がっていた。
状況が理解できず、男はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
そこへ、15歳ほどの少年が近づいてきた。
「おじさん、見かけない人だけど、飛ばされてきたの?」
――言葉はまるで知らない言語のはずなのに、なぜか意味が分かった。
耳に届いた音とは違う“訳文”が、脳の奥に直接届いたような感覚。奇妙な翻訳機が頭の中にあるようだった。
男は戸惑いながらも、うなずいた。
少年は少し笑って言った。「うん、そうだと思った。よくあるんだよ、ここでは。別の世界から急に人が来るの」
この地域では、まれに“異なる土地”から人が突然現れるらしい。
彼らは「飛ばされた」と言う。帰れた者は、いない。
男は膝をついた。
「……ああ、人生が台無しだ」
築き上げた静かな日常が、なんの前触れもなく奪われた。
理由も、意味も、理屈もなく。
それは、あまりに不条理だった。
•
日々は過ぎた。
最初は相手の言葉が全く理解できなかった。音の羅列にしか聞こえず、ジェスチャーと表情でなんとか意思疎通していた。
だが、数日が経つと、聞き取れる単語が出てきた。ある日ふと気づくと、意味も知らなかった言葉が、頭の中に映像のように“浮かぶ”ようになっていた。
少年が言った——「君たちのような“飛ばされた者”は、みんなそうなるんだよ。こっちに来ると、だんだん言葉がわかるようになる。不思議だけど、当たり前のことなんだ」
この土地の人々は不思議なほど親切だった。見知らぬ男にも臆することなく話しかけ、食事を分け与え、寝床を整えてくれた。
彼らの世界には、時間を刻む時計も、規則に縛られた職業もなかった。
日が昇れば起き、食べたくなれば食べる。雨が降れば休み、夜になれば火を囲んで語らう。
男は最初こそ戸惑ったが、やがてこのリズムに身を委ねるようになった。
「飛ばされた」者は、男のほかにも何人かいた。
現代的なスーツ姿の者もいれば、見たことのない服を着た者もいた。
彼らはかつての暮らしを語り合い、そして最後には決まってこう言った。
「あっちは便利だったけど……変化がなかった。
ずっと同じ景色、同じ音、同じ毎日で、
生きてはいたけど、気づかないうちにゆっくりと死に向かってる感じがしてた」
男も、気がつけば頷いていた。
ここには、便利な道具も、静かな夜もないが、人の声があり、体を使う労働があり、土の匂いがあった。
働いた日は心地よい疲労が残り、何気ない会話が心に残った。
元の生活を思い出すこともあったが、次第に記憶は輪郭を失っていった。
•
ある日、晴れ渡った空の下。
男は川で顔を洗ったついでに、手製の歯ブラシで歯を磨いていた。
顔をかがめ、口をすすいだその瞬間——
ふたたび、白い世界が弾けた。
目を開けると、そこは、自宅の洗面所だった。
鏡には自分が映っている。背後には、見慣れたリビング。猫の鳴き声。白い天井。いつもの歯ブラシ。
携帯を手に取る。日付は、「飛ばされた」あの日から、一日たりとも進んでいなかった。
まるで、すべてが夢だったかのように。
だが、男は気づいた。
冷蔵庫の中の野菜が、ほんのわずかに萎びている。
花瓶の中の花が、あの日よりも乾いている。
まったく同じ日では、なかった。
**
男は口元を拭き、鏡を見つめた。
猫がまた、餌をねだって鳴いた。
「……なんてことをしてくれたんだ。人生が、台無しだ」
そう呟いて、男は歯磨き粉の味を吐き出した。
短編小説「「不条理な歯磨き粉の魔法 ――消えた日常と、戻りたくなかった世界」 @wasabi_writing
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます