友人
宝飯霞
友人
小さいころから人見知りで、知らない人が来ると、母の後ろに隠れていたほどで、少女は内気な自分に呆れはてながら生きていた。少女の名前は相田美緒。十三歳。小顔であることだけが自慢で、あとはそれほど美しくない。大き目の眼鏡をかけ、強度の近視のために目が小さく見える。まるで何かの昆虫のようだ。美緒は人との衝突を避けるために、よく愛想笑いをした。その時、にやけた口元に並びの悪い歯がのぞく。美緒の家は貧乏で親は無知で、子供の歯を治すのにお金なんて払えないと思っている家庭だった。美緒もこの歯を気にし、矯正したいと思うのだが、個性だと言って親は譲らなかった。無駄に金を使うまいと財布のひもをしっかり縛っているのである。それだから、美緒は、この醜い歯並びと共に生きる選択をせねばらなかった。しかし、まだ純粋な子供であった美緒は、深く思い悩むほどではなかった。歯並びよりももっと苦に思っていたことがあった。それは、この人見知りの性格である。そのせいで友達が一人もいなかった。
誰も私のことなんて気にしていないんだ。
美緒は、休み時間になると一人でいる自分の画に耐えられれず、あまりに惨めだと思って、隠れるように学校の図書館に行くのだ。そこで適当に本を選んで、時間まで読む。
静かな図書館の雰囲気は美緒に優しかった。それに、本の登場人物たちは美緒に色々な解釈の仕方を教えてくれる。どんな人生だろうと一人で生き方を理解できるように。そういった話に触れると、美緒は楽しかった。物が良くわかった子供みたいに、未来に確かなる希望を抱いて。
誰かが廊下の窓ガラスを割った。犯人は伊藤義也という同級生で彼は腕を血みどろにして笑っていた。
「俺を怒らせるとどうなるか思い知らせてやった」義也はそう言ってぎょろぎょろした目で近くで縮こまっている、近藤政をじろりとみた。
「違うんですよ。僕ね、ただ、自慢していたんです。新しいシャープペンシルを。千円したんです。それを義也君がくれろというので嫌だって言ったら、怒ってああしたんです。キチガイですよ」
近藤政は、顔を真っ赤にしながら早口に言った。
「詳しいことは後で聞きます。今は先生、伊藤君を病院に連れて行きますから、次の時間は自習です。いいですね」
女先生は厳しい口調で言うと、伊藤義也をつれてさっさと行っていまた。
そんなことで、美緒のクラスは自習になった。しかし、真面目にこの時間を潰す人はほぼいなかった。めいめいおしゃべりをし出し、立ち上がって取っ組み合いをするのもあり、一気に騒がしくなった。美緒は図書館から借りた本を読みながらも、うるさいなと思って、いらいらした。自分だけはまじめにこの時間をやりすごすのだ。美緒は決意した。そうしたら、先生から後で褒められる。そういった思惑があってのことだ。こんな怠けた連中とは違うのだ。自分はよい生徒なのだ。
良い生徒。それが美緒を慰める。友達のいない彼女にとって先生こそただ一人の自分を愛してくれるかもしれない他人ではないか。
騒がしさに耳がつんぼにされる気がしながら、美緒は本に集中した。生徒たちの声はきちんと聞き取れる日本語ではなく、交じりに交じって低いうなり、高いうなり、絶叫となる。何が何だか分からなくなる。美緒がこのとき叫んでも誰も気づかなかったろう。
その時だ。誰かが靴下ボールでキャッチボールをしていて、その靴下を丸めたボールが美緒の背中に命中した。美緒は、はっとした。体が強張る。美緒は気づかないふりをした。痛かった? ごめん。いいの。そういった会話をすることさえ美緒は苦痛なのだ。美緒の引っ込みじあんが、そうさせるのだ。怖かった。人と触れ合うのが。それで、美緒は靴下が背中に当たったのに、当たってないふりをして、ふりむかずに本に集中しているふりをした。
「あれ、気づいていない? あはは」
キャッチボールをしていた犯人は、そういって、不思議そうにして、笑った。もう一人も笑って、靴下ボールを回収すると、またキャッチボールに励みだした。
美緒はこれでいいのだと思った。靴下が背中に当たったのは、汚いが、自分さえ黙っていれば、話が盛り上がり、自分が話の中心として担ぎ上げられることもないのだ。
一人っきり、静かに、孤独に、まるで狭い箱の中に入っているみたいに、美緒は息をひそめる。そうすることが、美緒をの心を荒立てずいいのだ。
しかし、急に大声で、学級委員長の大石隼人が言った。
「おい、いまぶつけたろ。相田さんにきちんと謝れよ」
「なんだよ」キャッチボールをしていた少年たちは手を休め、罪を認めながらも、それを隠したいような卑しい笑みを浮かべる。
「可哀そうだろ。謝れ」
隼人に言われると、悪いと思っていたので、彼らは素直に謝った。
「相田さん、ごめん」
「ごめんな。相田さん」
謝られて無視するわけにもいかず、美緒は振り返り、にこにこと弱気に笑って、こくんと頷いた。声は喉に引っかかってでなかった。ひどくどきまぎして、胸が騒がしく、この場から逃げ出したいような焦燥に襲われ、美緒は自分の顔が赤くなるのがわかった。
別に謝らなくてもいいのに、ほっといてくれればそれでいいのに。
どきどき胸が弾み、すっかり上がって、美緒はしばらくの間、落ち着かなかった。落ち着くころには自習時間も終わり、トイレ休憩の時間になった。
大石隼人は髪を坊っちゃんがりにした、痩せた眼鏡をかけた少年である。すでに声変りをしていて低い声だった。彼はことあるごとに、眼鏡拭きでメガネの曇りをこすり、綺麗な状態のレンズでものを見ていた。彼は学級委員長になるとクラスを平和にし、秩序正しくしようと使命に燃え、あれやこれやと注意することがよくあった。
「彼ちょっといやだね。命令してきてさ」
女子の間でもそういった声が聞かれることもあった。彼はあまり好かれているとは言えなかった。しかし、友達はいるようで、よく福田と倉内と一緒に話しているのが目に入る。
美緒は隼人にこの間守られたことを意識していた。自分みたいなやつにもキチンと目をかけてくれるのだ。やはり彼は学級委員長の器だ。美緒は、すっかり感心し、心の中でお礼を述べた。そうすることが美緒の限界だった。話しかけてお礼を言うのは、怖かった。誰かに話しかけるのは、ひっこみじあんの美緒にとって、勇気がいることだし、苦行なのだ。だからこうして、彼に好感をもち、尊敬するにとどめた。
ある日、国語の時間、作文を書くことになった。美緒は図書館通いのおかげで、文章にすっかり慣れていたので、こういった作文を書くことが得意であった。彼女は霊感を授かり、自分の手が文字をスラスラ操るのを見た。彼女は満足したように目を輝かせ、できた作文を先生に提出した。
それが思いもよらないことになった。
「素晴らしい作文を書いた生徒は先生が選んで、発表会で発表してもらいます」
先生はそういって、二人の生徒を選んだ。
その選ばれたのは、大石隼人と、なんとこともあろう、美緒だったのだ。
先生の目に留まった才能に、美緒は誇らしい気もしたが、みんなの前で発表しなくてはならないと聞いて、酷く憂鬱な気分になった。
恥ずかしいと、彼女は思った。美緒は自分の役目を放棄したかった。うまいものだと選ばれたのは嬉しいのだが、それを自分の口からみんなに作文を読み上げなくてはならないのだと思うと、どうしても嫌だった。そんな目立つことしたくない。自分の作品を貶されても良いから、誰かほかの人に自分の役目を変わってほしいと願いながらも、美緒は先生の期待に逆らえず、何か言われるとうんうん頷くばかり。
「放課後先生と発表の練習をしましょう。他のクラスからもそれぞれ男女一名ずつ出るのですよ。みんなで練習しましょう」
美緒は苦い顔をして笑った。
放課後になると、美緒は胸が破れんばかりにどきどきして、不安で目の前がグラグラ揺れる幻覚を見た。嫌で嫌でたまらない。美緒は勝手に帰ろうかなと考えた。しかし、そういったことをして、先生から悪い印象を持たれると困る。美緒は先生を尊敬していたし、好きなので嫌われうのは嫌だったのだ。
「相田さん、先生が体育館に集合だってさ。みんなそこで練習するらしいよ。行こう」
隼人が、ぼうと席に座っている美緒に言った。美緒はいきなりぴょこんと立ち上がると、顔を真っ赤にして彼の後を追った。
「私辞退します」
そんな言葉を言う妄想に美緒は取りつかれた。そう言ったら、発表会に出なくてもよくなるんじゃないか。美緒は言おう言おうと思っても、先生の悲しむ顔を見るかと思うと、どうしても言えやしなかった。
なんとかなるよ。美緒は自分に言い聞かす。みんなの前で紙をみながら、話せばいいのだ。簡単だ。きっとできる。
不安であったのに、優しいことばっかり言って自分を慰める。
体育館につくと、すでに他のクラスの選ばれた生徒が集まっていた。先生たちもいる。
「では、A組から作文の発表をしてもらいましょう。男子が先です。女子はそのあとです。A組が終わったら、B組ですよ」
みんなが順調にマイクを使って話している中、美緒は緊張で足が震え、涙すら浮かべていた。
いつの間にか美緒の番になり、マイクを受け取り、声を絞り出して朗読する。
「相田さん、声が小さいです。もっと張り上げて」
「はい」
大きな声を出そうとすると、美緒の声は喉にひっかかり、震えた。
「笑わないで。相田さん」
笑ってなどいないのだ。緊張と恐ろしさのあまり、声が震えるのだ。美緒はこうした恥ずかしい自分の声を出すのが怖くて、朗読を途中で止めてしまった。声は喉の奥でつっかえもう出てこなかった。かわりに鼻がつんとして、涙が両目いっぱいに溢れ、こぼれた。
「相田さん、先生は怒っていないんですよ」
先生、やっぱり私無理です。私じゃな人に代わってもらってください。頭の中では言葉が浮かぶのに、口に出そうとすると、胸がいっぱいになって、言えないのだ。自分の意見を言う、そんな大層な事できない。
美緒はブラウスの袖で涙を拭い、震える声で朗読をなんとか続けた。つっかえつっかえに、時々言葉につまり、間をおいて、必死に。
先生も呆れたように何も言わず見守り、そうして、美緒の朗読が終わると、次の生徒にマイクを渡し、美緒は舞台袖にひっこんだ。
美緒は青い顔をして、隅の方に立って涙をぬぐっている。
本番も自分はこんなダメな朗読をみんなのまえで言うのだろうか。そんなの赤っ恥だ。嫌だ嫌だ。どうして上手く話せないのだろう。
美緒は自分に腹が立った。他の人はうまく話せているのに、なぜ自分だけダメなのだろう。
本番の日は休んでしまおうか。病気になったふりをして。ついには逃げることばかり考える。
一人、落ち込んでいると、隼人がそばにやってきて、親切心から美緒を励ました。
「相田さん、そんなにしょげないことだよ。原稿をすっかり覚えて嫌になるほど暗唱したら、歌を歌うように、適当に言葉が勝手に出て、話せるもんさ。毎日うんと発表の練習をしてみな。呼吸するように言葉がでてきたらこっちのもんさ。それから人から聞いたんだけど、観客をじゃがいもだと思えば良いって。人だと思わないことだ。犬か猫だと思えばいい。犬か猫かじゃがいも。やってみてよ」
「あ、ありがとう。やってみるね」
練習は週二回行われ、美緒は家でも練習するように言われたが、家に帰ると、現実逃避に、美緒は作文を見もしなかった。発表しないのだ。当日は休むのだ。だからもういいのだ。作文なんて自分に必要ない。美緒はそう決めてしまい、本ばかり読んで本の登場人物の人生に夢を託す。
発表会の前日、隼人が教室にいた美緒の肩を叩き、言った。
「明日頑張ろうな。俺、相田さんの作文すごい良いと思う。だから自信もって励もうよ」
「うん。ありがとう」
美緒は沈んだ声で言う。
隼人の笑顔が眩しかった。
「相田さん、頑張りましょうね」先生も言う。
美緒は何だか罰せられた人のように惨めで、喉に棘がささるのを感じた。
ごめんなさい、私行きません。本当に行かないんです。
発表会当日、美緒は母に起こされた。
「美緒。あんた今日作文の発表会なんでしょ。早く支度して会場に行きなさい。いつまで寝ているの」
「だって今日はダメなの。私具合悪い」
「えー? 本当に?」
体温計で計って熱がないことがわかると、母は怖い顔をして言った。
「ずる休みしようって言うんでしょ。駄目よ行きなさい」
「でも」
「行きなさい」
美緒は母にこれ以上は逆らえなかった。なぜなら、美緒は気が弱いのだ。強く言われるとそうなのかなと思い、負けてしまう。
憂鬱が美緒の頭を支配している。今すぐ消えてなくなりたい。水に溶ける塩の結晶みたいに。
空は快晴だった。こんな日に死ねたらどんなにいいだろうなんて考えてみる。
弁当を携えて、発表会の会場にバスで向かう。不安に胸が激しく動悸し、顔は青ざめる。美緒はバスに揺られながら、いつまでもこうして、乗っていたい誘惑にかられた。しかし、まもなくバスは目的地に到着した。お金を払い、美緒はバスを降りる。ついに着いたと美緒の足は重い。学生が会場の外に整列していた。美緒が近づくと、先生が来て、
「相田さんはこっちよ。発表者は、こっちの列に」
美緒は言われるままに従った。
青い顔で美緒はきょろきょろとあたりを見渡す。どこかに、逃げ出す隙はないか。壁伝いにあの木の影を抜けたら誰にも見られず逃げられそうだ。だけど、自分が逃げたら大事になるだろうか。それとも英雄視されるだろうか。
色々考えているうちに、会場に入る時間になり、美緒たちは建物の中にはいった。舞台裏に美緒たち発表者は通される。薄暗いそこで、美緒は不安に目を見開き、瞬きを何度も繰り返す。隼人が、ぽんと美緒の肩を叩く。
「じゃがいもだよ。犬や猫。いいね?」
美緒の緊張に気付いて、隼人は気遣ったのだ。
彼の優しさに美緒は感動し、胸がぽっと温かくなった。
ええい、しかたない。言うのだ。怖かない。きっと面白い。じゃがいもだ。犬猫だ。怖かない。全然気にならない。話し出せばきっとなんともなくすっきり終わる。きっとそう。
「ほら、相田さんの番よ」
いつの間にか発表の順番が回ってきた。先生に背中を押され、美緒はステージに立つ。拍手で迎えられる。ああ、なんてことだ。人がいっぱいだ。みんなの黒い目がじっと美緒の身体に注がれている。怖い怖い。
美緒は全身がぶるぶると震え、手は汗でびっしょり濡れ、紙の原稿にシミをつくる。
大丈夫よ。美緒は自分に言い聞かせる。すんなり声は出るはずだから。
マイクに口を近づけ、美緒は原稿を読み始めた。しかし、その声はかすれ、震えていた。
ダメだ!
美緒は絶望した。張り上げた声は震え、まるで泣いているか笑っているようだ。みっともない。美緒はすぐ真っ赤になって、どもり出す。
早く終われ。こんな時間早く。
美緒は観客席に視線を投げた。すると、笑いをこらえている顔がちらほら。
ああ、バカにされている。変な声だもの。仕方ないけれど。悲しみのあまり、美緒は胸が張り裂けそうだった。死んじまいたい、そう思った。恥ずかしくて顔を覆って泣き出したかった。しかし、美緒は泣かずにやりとげた。終わると、逃げるように舞台裏に引っ込んだ。
そして、隅の方で一人、裏方の荷物に寄り掛かるようにして泣いた。
「大丈夫?」隼人がそっと美緒に近づく。「君、頑張ったぜ。凄いよ。最後まで言えたんだ。そりゃ声は震えていたさ。だけどそれがなんだっていうんだ。やりきったんだ。それでいいじゃないか。凄いよ。よく頑張った。泣くことなんて何もないだぜ」
美緒は涙を手の甲で拭い、睨むように隼人を見た。
「私のこと笑う人もいたの。それが悔しいの」
「それは、その笑った奴が悪いよ。相田さんは悪くない。何か成し遂げたほうが成し遂げなかった方より悪いってことはないんだって誰かが言ってた」
「でも、でも、でもね」
「大丈夫だ。気にするな。それほどみんな気にしていないさ。発表する人は君だけじゃない。クラスに二人ずつ。全部で十人だ。みんなだってそれぞれに恥ずかしい嫌な思いをしているさ。相田さんだけが恥ずかしい思いをしたわけじゃないよ。もし後で馬鹿にする人がいたら、俺がぶん殴ってやるから。だからあんまり気にするな」
美緒はハンカチを取り出すとそれを開き、顔をうずめ、へなへなと壁伝いに座り込む。そして、ハンカチに顔を埋めたままで言った。
「少し一人にして」
落ち込んでいる時こうして誰か傍にいられると、どうしても落ち着かない。だから、そう言った。
「うん。じゃあ。ごめん」
隼人がそっとその場を離れる。
しかし、あの恐ろしい発表は終わったのだ。厄災は通り過ぎた。
美緒はだんだん落ち着いてきた。
みんなだってそれほど気にしていないかもしれない。美緒だけが恥ずかしがっていても他の人にはどうでもいいことだ。
発表会は無事に終わり、美緒はお昼の空を見ながら一人弁当をつついていた。友達がいないので、こうして、人気のない端の方に一人レジャーシートを敷いて、水筒に入ったお茶と母がこしらえた弁当を食べている。母の弁当は他の誰かに見せてもいいくらいに手が込んでいて、可愛らしかったが、見せる人もないので、もったいない気がした。食事を終えると、美緒は遠くにいるクラスメイト達を眺める。何か、自分一人なのが恥ずかしく感じた。
お茶を飲み干すと、美緒はカバンに荷物をしまい、立ち上がり、その辺をうろつき始めた。雑草が生い茂った道を歩く。建物の陰に、段差があり、ちょうど一人座れそうなので、美緒はそこに腰掛け、空を見上げる。青い空に綿のような純白の雲が浮かんでいる。ひんやりとした地面を撫でながら、美緒は思い出していた。隼人のことである。あんなに自分に優しくしてくれたのだ。きっと好意があってのことだ。隼人は美緒を好きなのだろうか。恋しているのだろうか。美緒はぽっと頬を赤らめ、身もだえした。彼のことは恋愛として愛しているわけではなかったが、向こうが好きといのなら嫌な気もしない。美緒は目を細め、にこっと笑ってみる。それが美緒の心を表していた。
美緒はそろそろみんなの所に戻って先生の先導のもと、帰らなくてはと、立ち上がった。建物の角を曲がろうとしたとき、声が聞こえた
。それは聞き覚えのある声だった。
「福田、その五百円は先生に届けたほうがいいぞ。誰かが落としたのかもしれない。探しているかもしれない」
そっと顔をだすと、隼人と福田と倉内がいた。彼らは美緒に気付いていないようだった。
「嫌だよ。だって、五百円くらい、なんともないじゃないか。俺たちで山分けしようぜ」福田は弱弱しく言った。
「そんなの泥棒だよ」隼人はゆずらない。頑として言った。
「お前そんな良い子ぶるのやめろって。福田が拾ったんだから、福田のもんだ。落とし主はもうどこか他へいってしまったよ」倉内が脅すように言った。
隼人は首を横に振って、怒りを表す。
「俺の眼があるうちは泥棒は許さないぞ。先生に渡すんだ」
「隼人には関係ないだろ。これは俺のだ。行こうぜ。倉内」
「ああ」
倉内と福田が二人で隼人の傍を離れようとすると、隼人は意地わるく叫んだ。
「先生に言うぞ。いいのか」
「お前のその正義面、うんざりだ」福田はそう言うと、五百円玉を隼人に投げつけ、倉内と遠くへ走っていった。彼は先生に悪い子として見られることが耐えがたかったのだ。五百円は欲しかったが、不名誉をかぶるくらいなら隼人にくれてやった方がマシと思ったのだ。
隼人は五百円玉を拾うと、引率の先生に渡したのだった。
相変わらず嫌われることしているわ。と美緒は思った。しかし、美緒は感動に目が潤むのだった。大石隼人は人として優れているのだ。決して悪い考えを起こしたりしない。正義感が強く、優しい人。そんなありがたい人がそばにいると思うと、美緒は嬉しかった。そして、彼のような人に好意を抱いている自分が誇らしかった。他の人は気づかない自分だけが気づいている。
次の日は学校があった。美緒は発表会のスピーチの苦しみは終わったと思っているので、なんだか、心の重しが取れたようなすっきりした気持ちで向かった。
教室の中は騒がしかった。その騒がしさに腰を下ろし、美緒は本を開き、ホームルームまで静かに夢の世界に行く。
「昨日のまじウケたな」伊藤義也が声を張り上げた。
「わわたたししはは、ぶるぶる、ここのの……」
伊藤誠也の近くに座っていた生徒はぷっと吹き出し、笑いが起こった。
「やだあ、相田さんが可哀そうだよ」
自分の名前がでたので、美緒は耳をそばだてる。
義也と彼の周りの数人が昨日の美緒の真似をしてふざけていた。
美緒は凍り付いたような表情の硬い顔をして、青ざめ、下を向いたまま、顔を上げられない。
「震えて面白かったな」義也はにやにや笑ってそう言った。
「やめなよ、可哀そうだって」
「ぷるぷる、わわたたししは、そそうおおももいまましたた。こわいよーぶるぶる」
「あはは」
耳鳴りがして、美緒は目の前が白くなり、体の感覚がなくなる。自分は馬鹿にされている。恐ろしかった。恥ずかしかった。
灼熱に目を焦がすような怒り。そして、死んだように冷たい悲しみが喉を下り、胸を破る。他人の悪意を前に、本を持つ手が震えた。悪意じゃないのかもしれない。ただ面白がっているだけかもしれない。けれど、良い感情じゃない。きっと悪い方だ。
美緒は悔し涙がこみあげてくる。やめてともいえない。とてもそんな恐ろしいことできない。何か声を発しようものなら、声が震えて、また笑われるのだ。絶望が背中に重くのしかかる。強張った体は敏感に音を拾う。笑い声が美緒の心を踏みにじる。暗い憂鬱のベールに顔を覆っていると、すっと誰かの声が入った。
「やめろよ義也。お前最低だぞ。そんなおふざけ笑えないね。相田さんは頑張ったんだ。彼女に頭下げて謝れよ。ほら、今すぐだよ」
隼人だった。
「なんだよ。お前生意気だぞ。殺してやろうか」
「殺せないくせに」
「んだと」
義也は席を立ち、隼人の胸ぐらをつかみ、突き飛ばした。机を巻き込みながら倒れた隼人のズボンをつかむと義也は一気に引っこぬく。
下着もろともズボンが脱がされると、隼人は赤面し股間を隠す。白い臀部が露わになっている。
義也はズボンを遠くに投げた。それは美緒のすぐそばに落ちた。
「お前の好きな相田に見てもらえよ。その恥ずかしい恰好。きもちわりい」
起き上がり、ズボンを回収に行こうとした隼人の背中を義也は蹴り飛ばす。前のめりにつんのめって、隼人は床に倒れた。白い尻が冷たく輝く。もはや、隼人の顔は赤面をとおりこして、どす黒い赤紫色になっていた。この恥辱がどれほど彼を苦しめたろう。
美緒はズボンを拾って、こちらにやってきた隼人に渡した。下半身は見ないようにして。
「ごめん」隼人はそう言って、ズボンを受け取る。
ああ、彼は何とも惨めに服を着て自分の席に戻ったものだろうか。嘲笑のさざめきが、窓から入る風のようにクラス全体に広がる。しかし、笑い声が大きいだけで、ほとんどの人はこの仕打ちを疑問に思い、不安と哀れみに、心を微かに燃やし、非難の眼を加害者に送るのだった。周りがどんなに同情的だろうと、隼人の心が慰められることはなかった。彼は打ち萎れ、心を閉ざし、絡み合った黒いもじゃもじゃを胸に抱え、一人苦痛に喘いでいる。表面では何ともないように見えても、内面は黒い湖に首まで浸かっているのだ。深い傷がじくじくと痛んでいた。
美緒は隼人が気の毒でならない。美緒のために受けた仕打ちは決して許されるべきものじゃない。美緒はこう思う。自分だけ被害にあうのならいいが、自分のせいで関係ない人が被害にあうのは胸が痛む。だからこそ、美緒は隼人に同情し、義也を恨んだ。自然と義也を睨みつけている自分に気付いて、美緒ははっとして、目を伏せた。睨んだことで義也に因縁をつけられると思ったのだ。義也はこちらのことなど気にしていないようだった。おしゃべりに夢中である。義也が仲間だと思って話している相手の顔に、かすかに軽蔑をみいだし、美緒はなんだか義也の事も憐れに思えてきた。
その後すぐに先生がきてホームルームが始まった。さっきまでのあの事件が無いことにされたような、何事もなく穏やかに時間は進んだ。
自分のせいであんな目に遭ったのだ。美緒は隼人に慰めの言葉などかけた方がいいかな、などと考えた。しかし、例のことを思い出させると、彼が悲しみ恥ずかしいかと思うと、かけようと思った言葉が引っ込む。
けれど、美緒の心配をよそに、隼人は一時間目の数学が終わると、休憩時間に席を立ち、そのまま二時間目の理科の時間になっても帰ってこなかった。彼はその後ずっと姿を現さなかった。給食の時間になってもいなかった。これは何か、一大事が起こっている。美緒は隼人の気持ちの変化が気になった。あんな屈辱的な事をされたのだもの。きっと嫌になって家に帰ったんだ。みんなに合わす顔がないものね。
さて、おかしいのは、次の日になっても隼人は学校に来なかったのだ。そのまた次の日も来ない。
美緒はいよいよ不安になり、彼が不登校になったんだと、彼の心の傷は深いのだと考え、可哀そうで、自分のために申し訳なくて、そして再び義也に憤りを感じるのだった。それからどうやって、隼人の憂鬱な気持ちをほぐそうかなどと考え、途方もない空想に目を回すのだった。
隼人が不登校になり、一か月が経った。美緒はいよいよ大変だと気が急いた。彼は暗いところに引っ込んでしまった。誰かが外に引っ張り出さないと、彼はつぶれてしまい、永遠と元気な姿を見れなくなる気がした。私に何かできることはないか。
隼人と友達だった福田と倉内に相談してみるしかない。彼に一番近いのは彼らだ。
美緒は勇気を振り絞って、この二人の男子に話しかけた。
「あの、福田君、倉内君、大石君って最近学校に来ないよね。その、……し、心配でしょ」美緒は探るように言った。
「別に」福田はつまらなそうに薄く目を据えて言った。
「え、心配じゃないの? と、友達でしょ?」
「っていうかなあ」福田は嫌そうに顔を歪める。
「友達ってほどじゃないよ」倉内が付けたす。
「そうなんだ、あの、よくわからないけど……その、事情があるんだね。あのね、私大石君と話がしたくて。会いたいの。恩人だから」
「ああ、あいつ正義感強いからな。恩人ねえ」
「家知ってる?」
「知ってるけど」
「連れて行ってほしいの」
「俺は行きたくないんだけど。第一友達止めたから、もう会いたくないんだよね」
「じゃあ、家を教えてくれるだけで良いから。着いたらすぐ帰って良いから。案内してくれない」
福田と倉内は目くばせし合う。
「まあ、それなら……」
何という事だ。隼人は友達に恵まれていない。隼人は嫌われていると事を知っているだろうか。私だけは味方でいよう。彼が施してくれた恩に報いるように。
帰り道、福田と倉内に案内されて、隼人の家に着いた。到着してすぐ、福田と倉内はじゃあと言って帰ろうとして、それを美緒は引き止め、必死に、一人にならないように頼み込む。
「ねえ、この際……その、なんていうか、そう、仲直りしたら。……大石君だって仲直りしたら喜ぶはずだよ」
「そういうのいいから」
福田と倉内は苛立たし気に言うと、帰って行った。
落胆した美緒は一人残され、隼人の家に向き直る。緊張して足が震える。呼び鈴を押して、それから、彼に会って、そして、なんていえばいいの。何を話そう。学校に来るように言うの? でも学校に来たところで隼人にとってそれは辛いかもしれない。もう友達もいないのだし、恥辱を知っている人の前で澄ました顔をするのはしんどい……。しかし、美緒だけは彼の味方だという事を言おう。そうすれば、それが彼の救いになるのではないか。
美緒は恐る恐る呼び鈴を押した。
「はい」
年配らしい女の声がした。
「あ、あの、大石隼人君と同じクラスの者です」
がちゃり、と玄関の重いドアが開いた。
「あら、隼人の友達?」
「は、はい。彼に話がしたくて」
「ちょっと待ってね。隼人、隼人」母親らしき人は美緒を振り返り、「ずっと休んでたから気になったでしょ。あの子風邪でもないのに休むってきかなくて。ね、何かあったの? 学校で」
母親としての純粋な興味と不安に、彼女の声は興奮している。何かあったのが、美緒と関係していると疑うような目をして、美緒を見つめる。美緒は自分が悪いことをしたと疑われるのが嫌ですぐに言った。
「男子と喧嘩したんですよ」
「あらそうなの。嫌ね」
「私、心配で」
「ありがとう。隼人! どうしたのかしら、あの子。ちょっと待ってね」
隼人の母親は、玄関のドアを開け放しにして、二階に駆け上がり、何か隼人と話して、やっと隼人は降りてきた。
彼は美緒を見ると、意外そうに眼を見開いた。
「どうしたの。相田さん」
「あの、ずっと学校休んでいるから心配で……」
「ほっといてくれても良かったのに」
「だって……」
美緒は居心地悪さに赤面した。好意で来てやったのに、感謝されないとわかると、途端に逃げ出したくなる。
「私の事助けてくれたでしょう。あのとき、本当にありがとう。私嬉しかった。だから、大石君が学校に来ないと、私、申し訳なくて。私の責任かなって考えちゃって……」
「あんなの当然で我慢ならなかったから。相田さんが悩むことじゃないよ。俺とあいつの問題だから」
「でも……」
「俺がまた学校に行ってそれからどうなると思う?」
「どうもしないよ。単調な毎日があるだけ」
嘘っぽいことを言った美緒は一瞬頭に不安がよぎる。馬鹿にされからかわれる日々。義也がしでかしたあの日の事件は今だ美緒の頭に鮮明に焼き付いている。あんなに恥ずかしい滑稽な姿、忘れようがない。気の毒すぎて、心が痛い。意地悪な人はここぞとばかりに隼人をからかうだろう。
「単調な毎日じゃなかったら?」
そう言った隼人の黒い瞳が美緒の目をじっと見つめる。
美緒は恐ろしくて何も言えない。じっと隼人の目を見返す。
「……終わったと思ったんだ。もう」隼人は薄笑いを浮かべ引き攣るように笑った。「俺しくじった。だからさ、行きたくないんだよ」
「明日、学校に来て。私が証明するから。普通通りに時間は流れるの。みんな大して気にしてないよ」
もし、義也がまた悪さしたら、誰かが隼人をいじめたら、今度は絶対に守るから。見て見ぬ振りしないから。体を張って守るから。だから、いなくならないで。私に恩を返させて。
「俺、もう学校には行かないつもりだよ」
「駄目」
美緒はそっと両手で隼人の手を包みこむ。
「お願い来て。私が悲しいから」
美緒がそういうと、隼人の瞳は大きく揺れた。
「悲しいの?」
「そうだよ」
隼人は目を伏せ、沈黙した。美緒もあえてせかすようなことを言わず、黙っていた。
「そんなに、来てほしいなら行くよ」隼人はため息まじりに言った。
「本当?」
喜びに目を輝かせた美緒が彼の顔を覗き込むと、彼は優しく微笑んで頷く。
「うん」
感謝に目が潤む。美緒はぽっと胸が熱くなった。
彼を守るわ。絶対に。
決意というのがいかに簡単にくじかれるか。私たちはそれを知らねばならない。弱いものほどそのリスクは高まる。約束などあてにすべきじゃない。口先ばかりで行動は伴わないものだ。
自分の中でできると思ったことが、実際にやってみてできないことなど、頻繁にありすぎるから困る。
美緒は、出来ると思っていたのだ。自分が隼人を守る盾になろうと意気込んでいたのだ。
いざ、隼人が学校にやってくると、美緒は静かに彼を伺う。そして、近くまで行って何か話そうとしてやめる。もともと内気な美緒は、目的がなければ何を話せばいいのかわからず、言葉が浮かばない。
とりあえず、美緒は恥ずかしがりながら、おはようと挨拶した。続く言葉が出ないので、美緒は顔を赤らめて自分の席に戻った。
ふと、横を向くと、義也がじっと隼人を見ていることに気付いて、何か良からぬことを考えているのだと思い、美緒は自分の出番じゃないかとひやひやした。
おもむろに立ち上がった義也は、隼人の前に行くと、彼をどついた。
隼人はきっと義也を睨みつける。
「おし、福田、こいつのズボン脱がせ下着もだ。倉内、相田を連れてこい」
義也は福田と倉内が隼人と仲たがいしていると知っているらしい。二人を仲間にすることで、隼人を絶望させ追い込もうという魂胆だ。
「大石と相田がセックスするぜ。ほら、二人を裸に剥いてやろう」
「何言ってんだよ」福田は不満そうに言う。
「俺に逆らうとお前を標的にするぞ」義也は腕を振り上げる。
美緒を連れてくるように言われた倉内は自分の席に座ったまま動きもせず、ただ、うろたえていた。
「福田、脱がせ」
「やだよ、自分でやれよ」
福田も倉内もそんな犯罪まがいのことに巻き込まれたくなかった。
「おし」
義也はずんずん美緒の方にやってくる。美緒は恐怖に縮み上がり、目を大きく見開いて義也を見つめる。自分の身に何が起こるのか、固唾を飲んで見守る体制に出た。
「脱げ」
義也は美緒の胸ぐらをつかみ言った。
あまりの恐ろしさに美緒は、ぶるぶると震え、涙がこみあげてくる。
「やめろよ、犯罪だろ」福田が静止の声を上げる。
「そうだそうだ女に手を出すのは卑怯だ」周りにいた生徒たちも口々に叫ぶ。
義也は美緒から手を放す。分が悪いと思ったのだろう。
「つまんねえの」
そう言うと、義也は隼人の傍まで行き、彼の頭をめいっぱい殴る。隼人は頭に手を当て痛がる。
美緒は怯えて、自分の事ばかり考えて、隼人のことなど忘れてしまっていた。守ると決めたのに、そのことを忘れてしまった。恐怖がただ彼女の心を支配していた。
義也の鋭い目が、美緒を睨みつけるともう駄目だった。美緒は気がくじけ、席に座って机を見下ろす。そうやって固まって、身じろぎもできない。少しでも動けば、食われる。そんな気がして、ひっそりと呼吸する。
隼人のこと。そんな人のことは、頭から抜け落ちていた。ただだだ、自分可愛さに、身構え、自分を守る体制に出ていた。
休み時間になるたび、義也は隼人のところにいき、罵声を浴びせ、おちょくり、殴ったり突き飛ばしたりした。逃げようとした隼人のズボンをつかみ、半ケツにしたりした。
怖いのでみんなただ見守るしかない。義也が自分たちの方へ向かってこなければそれでいいと言いたげに、隼人と義也のことは黙認された。
美緒は隼人を守らなきゃと思うのに、義也に服を剥がれて裸にされるかと思うと、震えおののき、安全なところに立ってわざわざ危険を冒したくないのだった。
自分が虐げられているのでなければ他人の蛮行をみても耐えられるのだ。
卑怯者。
美緒は幾度となく自分を罵った。
それから、うそつき。
美緒は顔を覆った。何も見たくない聞きたくない。
義也の子分の意地の悪い生徒数人が、笑い声をあげた。
美緒がみると、義也が隼人の頭にボンドを塗っているのである。
「髪が駄目になったらスキンヘッドにするしかないな」義也は意地わるく笑って言った。「その方が似合うぜ」
隼人は、死んだように青い顔をして顔をこわばらせている。そのとき、隼人はおもむろに顔を上げ、美緒の方を見た。洞穴のようにどこまでも暗い色の目でじっと美緒の方を見て、さっと目をそらす。彼はこぶしを握り、震えたかに見えた。
怒っているのだわ。私が守らないから。無視しているから。
美緒は汚名を返上しなくてはと思う。
でも、怖い怖い怖い……。
言えない。私にはできない……。
美緒は泣き出したい衝動に駆られた。どうして、私はこんなに勇気がなのだろう。隼人は私を助けてくれたのに、それなのに、私は彼を見殺しにするのだろうか。
恐怖に鉛のように重く動かない自分の体が憎たらしい。しかし、こんな自分を愛しているがゆえに、身動きが取れないのだ。捨て身にならないといけないとわかっているのに、美緒の心は防御に打って出ていた。
決して隼人をどうでもいい人と思っているわけじゃない。美緒はただ、強くないのだ。人に食って掛かったせいで、万が一相手に負けて心を殺されるかもしれない、そんなリスクは冒せない。
休み時間のたびに暴行を受ける隼人を、美緒な図書館に逃げることなく、じっと見守った。同じ痛みを受けているみたいに苦しみながら、目を離すのは裏切りである気がして。じっと見つめた。全部を見守った。そうすれば、隼人の傷が小さく済むかのように。そして、あわよくば、自分の正義感が発揮されることがあったなら、いつでも隼人を助けに行けるように。けれども、美緒の正義感と勇気は心の奥底に閉じ込められ、背中を押すことなく、発揮されることはなかった。
バカ。
美緒は自分自身に裏切られる痛みを、どれほど強く感じたろうか。擦り傷だらけになったみたいに、全身にひりひりする痛みを感じる。
普段は弱いけれど、本当の自分は強い。そう思っていたのに、やはり美緒は弱いのだった。人一人助けられないぐらいに。愚かしく浅ましく、美緒は生にしがみつき、出来るだけ苦しくない方に進もうとする。精神的に辛くない方楽な方へ。たとえそれが、他人を犠牲にすることになっても、美緒は進むのだ。一人楽な方へ。馬鹿げた自分のエゴのために、自分に親切にしてくれた人を裏切るのだ。それでは良くないのに、良くないという事は考えないようにしてしまうのだ。無にして、馬鹿になるのだ。
帰り際こそは。美緒は思う。隼人を救わなければ。今日何もしなかったら私は噓吐きで裏切り者になってしまう。このままではいけない。そう思って、美緒は遠くから隼人を観察する。
一日の授業が終わり、隼人は我先に教室から引き揚げた。美緒は彼を見失わないように、急いで追いかけた。
ふと、誰かに付けられていると思ったのだろう。隼人は足を止め、後ろを振り返った。美緒は、慌てて建物の陰に隠れた。なんで隠れるのか自分でもわからなかった。そのまま声をかければいいのに。でも、まだ心の準備ができていなかったのだ。謝るにも気合がいる。もう少し時間をかけたいのだ。そんな言い訳を心で呟く。一笑に付してしまえる無意味な言い訳。不安にそわそわし、胸がどきどきする。美緒は後をつけるだけつけて、隼人の自宅まで来てしまった。隼人が玄関の鍵を開け、ドアを閉めるまでしっかり見守ると、美緒は自分に呆れ果てる。
ああ、どうしよう。声をかけたいのに、かけられない。怖かった。彼の恨み言にぶつかるんじゃないか。責められるんじゃないか。きつい言葉で嫌いだと言われるんじゃないか。しばらく美緒は隼人の家の前に立っていたが、窓からのぞかれるんじゃないかと思い、気づかれる前に退散した。
会いたくないと思う。
隼人に面と向かって会えば、自分はひどく傷つけられる。そんな気がして、躊躇した。
会いたくない。明日学校で会うのが苦痛である。自分の無情さを彼の静かな目つきで責められるところを想像し、苦痛でたまらなくて、体が震えてくる。
家に帰ると、美緒は冷たい水のシャワーを浴びた。そうして、風邪をひいてしまえばいいと思った。あわよくば、風邪をこじらせて死ねばいいと思った。懺悔するには死が適切だなどと大人びたことを考え、一人苦痛に震え、泣いた。美緒は絶望の面持ちで床に就いた。暗い部屋で目を閉じて、明日が来ないでくれと漠然とした神という存在に、必死にお願いする。
もし、明日が来ると言うのなら仕方ない。諦めよう。その代わり、何でもない日でありますように、隼人が虐められない、義也が乱暴しない、何も嫌な事の起こらない、普通の日でありますように。
美緒の頑丈な体は冷たい水を浴びたくらいでは病気にならなかった。健康体でぴんぴんした体で、美緒はベッドから起き上がった。一晩眠ったおかげで、昨日の憂鬱な気分は多少マシになっていた。それどころか、今日こそは、と希望を見出し、隼人を救う計画を一瞬のうちに建てて、ひどく意気込み、このきわめて優しい気持ちになったせいで、許されたとすら思えるのだった。
学校に到着して、教室に入り、もうすぐホームルームが始まると言うのに、隼人の姿が見えないので、美緒は不安になった。登校拒否。そんな言葉が頭をよぎる。あんなことされたんだ。来たくないよね。
やがて先生が教室に入ってきた。先生はいかめしい顔をして、青白い頬を痙攣させて言った。
「みなさんに残念なお知らせがあります。昨日の夜、大石隼人くんが亡くなりました」
教室がざわめく。
「自殺ですか」誰かが言った。
「いえ、まだ決まったわけではありません。先生も詳しいことは知らないのです。しかし、自殺じゃないと信じましょう」
自殺。
そんなことをするなんて嘘でしょう。
美緒は瞬間的に義也のほうを見る。あんたのせいだと言いたげに。この結果の代償を払わせようというかのように。義也はどうでもよさそうに、うつろな目で先生の方を見ていた。
自殺したんだ。急に死ぬなんて、そんなのありえないもの。事故というには、先生の言葉が不自然だ。先生はきっと何もかも知っているのだ。隼人がどうして死んだのか知っているのだ。
美緒は先生の方を見て、先生の顔から何かを読み取ろうと頑張った。そして、先生の顔を見ても読み取れないとわかると、美緒は義也の事を言いつけようかという気になった。復讐に胸を燃やし、手を上げようとした。しかし、美緒は手を挙げなかった。目立ち、注目を浴びるのが嫌だったのと、隼人を守るようなことを言っても、もう喜ぶ人は死んでしまい、遅すぎると思ったのだ。リスクを犯しても、隼人はいないし、義也に目を付けられて痛い思いをするだけで何もメリットがない。
お昼休憩のときに、近藤政が大ニュースだと言って騒ぎ出した。
「今、職員室に行ってきたんですけど、大石は自殺らしいですよ。首を吊ったって」
美緒は意識が遠くなるのを感じた。だが、ぶったおれるほどではなかった。気力で踏ん張り、一粒の涙が美緒の頬を滑り落ちた。
私のせいだ。私が学校に来るように無理を言って、そして助けすらしないで、放っておいたから。彼が苦しんでいたのに、黙ってみるだけで何もしなかったから。彼はどんなに辛かったろう。自分が悪いと、自分自身を責めていると、その気持ちをすり抜けるようにして、義也の悪事が思い出された。そもそも彼が悪いのだ。美緒は義也を恨んだ。憎くて憎くて睨みつけると、義也は平気そうにふんぞり返り薄笑いすら浮かべている。それがまた憎たらしかった。
アンタのせいで!
激しい怒りで、美緒は青白くなり、歯をがちがちと震わせた。
そして、急に気分が沈みこむ。わかったのだ。すべて。
義也一人が悪いわけじゃない。みんなに責任がある。あの時をなかったことにしたみんなに。
美緒は義也を責められるほど綺麗じゃない。姑息。それが美緒だ。
でも、彼が死んだ今、この罪を徹底的に問いただしたいと思う。
胸の激しい鼓動が収まらない。美緒は誰かに背を押されるようにして、下校時間、義也のあとをつけた。彼が一人になると、美緒は走り、近づく。怖かった。だが、それ以上に隼人に申し訳なくて辛かった。喉が詰まって、胸が破れそうだ。
言うんだ。言うんだ。
言わないと。言わないと。
隼人の苦しみをわからせなくちゃ。
「なんだよお前」
義也は振り返ると知った顔があったのでびっくりしたように言った。
美緒は声が喉の奥で張り付いて、顔を赤くした。
「なんなんだよ」義也は睨みつけながら言う。
「一緒に謝りに行こう大石君の家に」美緒は声を震わして弱弱しく言った。
「いやだね」
「でも」
「俺は悪くない」
「悪いよ。だから……」
「うるせえ」
義也は足を踏み鳴らし、中指を立てた。
「駄目だよ伊藤君。逃げないで。私も一緒に謝るから」
義也は背を向け帰ろうとする。謝ることは罪を認めることだ。そんな重大なことできないだろう。こんな子供の二人が罪を背負いながら生きるなどとても耐えられそうにない。
美緒は震え、悲嘆にくれ、わっとばかりに泣き出した。
背を向けて歩き出した義也は、一瞬振り返った。その顔にはありありと罪の気持ちが表れていた。弱弱しいその表情を見て、美緒は義也だって心で自分を責めているのだと気づいた。
しかし、だから何だと言うのだ。責めたくらいで自死した隼人の救いになるものか。
はっきりと隼人の家族に謝って、公然と償うべきだ。
心の中で悔いても、それが自分の救いになりはしても、相手には伝わらないのだ。相手はどん底に落ちたままだ。
一人泣いていると、通行人におかしい人だと思われる。いい加減、美緒は泣くのをやめ、しゃくりあげる胸を押さえ、もう遠くに歩いて行った義也を探すように首を伸ばすが、彼が見えないとわかると、すぐ諦め、帰路についた。
ああ、なぜこんなことが許されるのだろう。
次の日、美緒は学校に行くと、伊藤義也が亡くなったことを知らされた。かんかんと鳴り響く踏切に入って轢かれたそうだ。
美緒は胸が張り裂けそうだった。
罪の重しを一人で引き受け、美緒はどうしようと考える。次は自分の番だ。自分が死ぬ番だ。
息が出来なくて、美緒はめまいがする。まっすぐ歩くのもままならないほどに。
ふと気づくと、みおは隼人の家の前まで歩いてきていた。
謝らなきゃ。謝ることがけじめだ。
呼び鈴を押すと、隼人の母が出てきた。
「あら、この間きてくれた……えーと」
「相田美緒です」
「相田さん、ああ、あなたが」
隼人の母親は感動したように目を潤ませ微笑んだ。
「隼人の日記にあなたのこと書いてあったわ」
美緒はぎくりとした。何か悪いことでも書かれていなかったか。
不安そうに美緒が隼人の母の顔を見ていると、隼人の母は、嬉しそうに言った。
「こんなこと言うのも迷惑かもしれないけど、隼人ね、相田さんのこと好きだったみたい。あなたのこと良く書いていたわ。あの子が死んだ理由なんてわからないけれど、恋している間は幸せだったって信じているの」
ほうと美緒は息を吐いた。悲しくて口がへの字に曲がる。美緒は両手に顔を埋め泣いた。
友人 宝飯霞 @hoikasumi
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