ゼロになろうゼロってなんだ?

 コンコン。ガチャ。「せんせーしつもーん!」


 ノックの音と、扉が開く音と、女生徒の声。

 これらがノータイムで響くのは魔法教師であるエルフのグラッド師の研究室である。


 当然そこには部屋の主人であるグラッド師がいる。


 無作法に鳴って開いた扉と、その元凶を見たグラッド師の視線は想像に難くない。

 美しいエルフの険のこもった視線は普通の生徒であれば震え上がって回れ右するだろう。そして実際その通りでこの研究室に近づく生徒はほぼ皆無といっても差し支えない。グラッド師もそれを狙ってやっている節がある。

 グラッド師がこの学院にいるのは目的があるからだ。

 その目的を邪魔するのは誰であろうただの邪魔者であった。


 当然。

 現在進行形で邪魔をしているリズはシンプルに邪魔者である。グラッドはリズへと汚物を見るような視線を投げかけた後に、何も言う事なく、それをまた本へと戻した。


「ちょー、せんせー、そんな目で乙女を見ちゃダメだってー」


 しかしそんな視線に怯むギャル聖女ではない。

 嫌悪の視線を入室の許可とあえて曲解し、ズカズカと研究室に踏み込んで、グラッド師の机の前まで歩を進め、その視線へと抗議する。矛盾をはらみながらも説得力を同時に持っているのは聖女の言葉だからだろうか。


「なんですか? 私は忙しいのです。ご自分を乙女と言うのであれば、乙女が一人で男性の研究室に来る事も推奨されません。私はアルバートに剣では敵いませんのでお帰りください」


 本から目線を離す事なくそう言ってのける。

 暗にお前と絡むとアルバートがキレるから来んなと言っているのだ。


「えー、せんせーエルフっしょー? だいじょぶだいじょぶー」


 何が大丈夫なのかわからない。

 エルフであろうと何であろうと聖女に関する事になるとあの王子は狂犬になる。迷惑以外の何物でもない。しかしそれを言った所で、目の前の聖女には帰る意思がなさそうだと察したグラッド。


 はあ、と大きくため息をつく。


 聖女の婚約者であるアルバートも、方向性は違うが似た感じだったなと、グラッド師は思い出す。

 彼曰く。

 自分が聖女を守るのだ。聖女を守るためには先生の魔法が必要なのだ。先生の研究も聖女を守るのに絶対に役立つ。先生だってその研究の成果を試したいのでしょう? 私がその実験台になると言っているのです。

 だから先生の全てを私に教えて下さい!

 変わり者で有名な王子は、こう言っては頑として譲らず、結果しばらくこの部屋に通い詰める事になった。

 あの時は本当に迷惑だった。

 だが相手は第一王子、効率を考えるとさっさと魔法を教えて、研究を共有して、ここを立ち去ってもらうのが得策と考えて、己の全てを教えた。驚くことに彼は努力家で天才だった。ものの一年で魔法の腕がエルフである自分に比肩するほどになった。

 そこで免許皆伝を告げるとやっと研究室に訪れる頻度が下がった。

 一抹の寂しさとともに訪れた平穏に、グラッドの胸は少しだけ空いた。


 そこからしばらくは平和だった。研究も捗るかと思ったが、そこに関してはそうでもなかった。それでも日常が取り戻せたのはグラッドにとっては良い事だった。たまに用もないのにアルバートがやってくるのは仕方なく許容している。それ位なら許せるようになっていた。


 しかし。

 嵐はやってきた。


 もう一度。

 グラッド師はため息をついてから口を開いた。


「用があるならば早く言いなさい。そして早く帰りなさい」


「つれねーせんせーつれないよー! もー乙女傷つくけどー。でもまーいいや、聞いて聞いて。ね、せんせーって魔法詳しいっしょ? そこでさ、魔法で質問なんだけどね、あーしってどうにも魔力から魔法に変換するのが苦手でさ、なんかコツある? あったら教えて? なくても教えて? ね?」


 言葉尻に添えるようにして、にへ、と崩れた笑顔をその美しい顔に讃える。

 リズはグラッド師の机の前に座り込み、その机の縁に両腕をのせると、それをクッションにするようにして顎をそこに乗せ、グラッド師に教えを請うた。

 アルバートがこんな態度でお願いされたら即座にノックダウンされて、リズの全ての要望を叶えようとするだろうが、さすが長命なエルフのグラッド師はそんなものに惑わされない。


「コツ、ですか? ないですよ。そもそもそこってそんなに詰まる所ですか?」


「えー! まじでー!? だってなんもないとこから水とか火を出すんだよー? むずくなーい? ゼロからイチを生み出すのが一番むずいって誰かが言ってたんだけどー、そんな簡単なのー? せんせーが天才なだけじゃなくてー?」


 ゼロからイチ。

 リズの何気ない発言へと、グラッド師の意識が向いた。

 ふっと本から視線が上がり、リズと視線がぶつかった。


「すみません、ゼロとはなんですか?」


「へ? ゼロはゼロじゃない?」


 ギャル時代の常識である。いまさらゼロが何かと聞かれればゼロはゼロ、そんな返答になるのは仕方ないが、グラッド師はそんな返答では納得しない。この世界ではまだゼロという概念はないのだから。


「それがわからないから聞いています。ゼロとはなんでしょうか?」


 グラッド師の言葉はそっけないがそこにネガティブな感情はない。

 普通の人間であればリズの返答は相手を馬鹿にしているととらえられても仕方ないのだけれど、それを受けたグラッド師の声に怒りはのらない。グラッド師の性格上、誰かに教えを請う事を厭わない。逆に自分に知らない事があるという事を喜ぶ節まである。


「ごめ、ゼロってこの世界だとないんか……えっとねーあーしもギャルだから詳しくないんだけどさ……ゼロってのは何もない事だよ。すっからかんの無だよ、ムー」


 むー、と言いながら、口をとがらせてみる。

 確かに公爵令嬢の記憶としてはゼロという概念はなかったな、とリズは思い至って、己のわかる限りの説明を尽くすが、それでも言葉が足りているとは言い難い。

 普通の人間なら理解できないだろう。

 しかしグラッド師は天才エルフ。イチを聞いてジュウを知る。


「無、ですか……ふむ、そうですか……それがゼロ……理解しました。なるほど、そういう考え方で魔法を行使しているのなら、貴女の魔法が失敗する理由がわかります」


「え! マッジ? せんせー天才すぎん?」


「天才ではありませんね。これは基本的な話ですから。貴女は魔法というものを間違って認識しているのです。まず魔法というのは何もない所から何かを生み出すものではありません」


「え! マジで? でも水魔法とかってなんもないとこからドジャーって水出てくんじゃん!? 違う?」


 自分の根本的な勘違いに驚いて、机の縁に置いてあった腕をいっぱいに広げ、どじゃどじゃと水が溢れてくる様を表現すると、その指先がグラッド師の鼻先を掠める。グラッド師は少し驚いて軽く瞬きをして鼻を少しだけ不愉快そうにすぼめてから、リズの言葉に応える。


「ええ、違いますね。水は汎用素子を水に書き換えているだけです」


「はんよーそし? かきかえる?」


 机の縁にある頭がこてんと傾げられる。

 ギャル時代にも似たような概念はあったけれど、高校生で聖女に転生してしまったため、前世の原子やら量子やらとこの世界の汎用素子が繋がる事はない。


「ふむ、理解できませんか。そうですね、簡単に言ってしまえばこのりんご……」


 そう言ってグラッド師は机の上のリンゴを手に取る。


「お、うまそ」


 こっちならばリズにもわかる。

 ギャル時代も聖女時代もりんごはうまい。


「ええ、エルフの好物です。このリンゴ赤いですね?」


 エルフもりんごは好きらしい。

 少しだけグラッド師の表情が緩んだ。


「うん、赤いねー。せんせーもりんご好きなんだねー、あーしも好きだよー」


「まあ、黙って見ていてください」


 話の腰を折ってくるリズを強制的に黙らせてから、グラッド師は己の人差し指を薄い唇へと軽く当て、そのまま小さい声でエルフの言葉をつぶやいてから、その指を唇から離し、そのままリンゴの一点へと移す。


 その動作はとても優雅で。

 まるでひらひらと蝶が舞うようだった。


「ほえーせんせーきれーねー」


「そういうのは不要です。ここ、私が触れたこの部分からりんごの色が変わります、よく見てください」


「へーへー。りんごの色がねー。色なんて変わるわけないじゃー……って変わってくー! え、なになに! まじすげー! ハンドパワーじゃーん! せんせーってマリックー?」


 グラッド師の言葉通り、初めは触れた一点が緑に。それはだんだんと範囲を増し、あっという間に赤かったリンゴが緑色に変わっていき、全ての色が緑に変わった所でグラッド師が口を開いた。


「ハンドパワーもマリックも知りませんが、私はグラッドです。そしてその私が魔法でリンゴの色を書き換えました。このように、魔法とはつまり、世界に存在するものの情報を書き換える事です。水魔法で水を生み出すのも世界の情報を水に書き換えているだけで水を産んでいるわけではないのですよ」


 世界を書き換える。

 これが魔法の肝要だった。


「へーそっかーじゃああれだー! 空気を水に変えてるって感じだー。なんかわかった気がするー。あんがと、せんせー。家帰って試してみるわー」


 リズは完全に魔法を勘違いしていた。

 ギャル時代の記憶に引きずられていた。魔法とは無から有を生み出す方法ではなく、世界を書き換える方法だったのだった。それを理解したリズは魔法というものが一気にわかった気がした。


「はい。参考になって良かったです。だから早くお帰りください」


 言葉は丁寧だが、しっしと手を振る。

 リズもリズで早く教わった事を試したい気持ちが逸って挨拶もそこそこに部屋から出ていった。


 来た時同様に騒がしく無作法な退出だったが、不思議とグラッド師に不快感はなかった。

 グラッドは聖女が出ていき、少しだけ開いた扉を迷惑そうに眺めながら、小さくつぶやいた。


「ゼロから、イチを生む、か。おかしな聖女のバカ話だと思いましたが。面白いかもしれませんね。ゼロ、つまりは無か……この世界にはなかった概念だ。これはもしかしたら歪みの仕組みに関係するかもしれませんね」


 新たな知識を得たグラッド師の研究は続く。

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