第8話 ちゃんと覚えてよね?

 廊下にでると少し息苦しさが解消されたものの、廊下は廊下で、別の違和感がついて離れなかった。


 活気。

 言ってしまえば、それなのだろう。


 廊下が活気に満ち溢れている。

 若者特有の熱気というのだろうか、バイタリティであふれかえっている。


 いや、廊下だけじゃない。


 学校中が、活気に満ちていた。


 こうして見ると、僕は今まで、その言葉を誤解して生きてきたような気がする。


 小学校、中学校と経験してきたあの活気は、純粋なものではなく、少し濁っていた。楽しい雰囲気だからそれに合わせようという空気が少し混じっていた。ほんとはこういう空気嫌いなんだよね、という感じが微かに存在した。


 それを含めて、僕はあの活気が好きだったのに。

 今の活気は、混じりっけない活気だった。


「…………」


 甘く重い空気ですくむ足を前に出し、トイレに向かう。


 その前から。

「あ、生苦楽くん」

 と、声がした。


 それから。

「おはよう」

 と挨拶が来る。


「……ああ。おはよう、日借」


 言ってから、気が付いた。向こうも少し頬を膨らませている。


「それ、前の名前でしょ。今の名前はユリア。ちゃんと覚えてよね?」


「ごめん」

 謝ると、彼女は破顔した。


 アニメで見るような、完璧な笑みだった。

 苦しさのかけらもない、自然な笑顔だった。


「いいよ……わたしのほうこそごめんね。生苦楽くんが前の人格のこと覚えてる優しい人ってだけなのにさ」


 言いながら、肩から落ちそうになったカバンをかけなおす。


 その手に傘は、ない。


 何度先生に注意されても、いつも教室まで持ってきていた真っ赤な傘は、『エゴ・リセット・プログラム』のあとからは全く見なくなった。


 もちろん僕はもらっていない。

 だとすると、本当に捨てられてしまったのだろうか。


「生苦楽くん」


「……ん?」


「腕、見せてくれる?」


 腕?

 意味がわからず、右腕を前に出す。それをまじまじと見た彼女は、寂しそうに溜息を吐いた。


「やっぱり」


「なにが?」


「腕時計、つけてないでしょ」


 腕時計?

「……ああ」


 この前の誕生日に日借がくれたものか。


 確かに、今の僕の腕にはなにもつけていない。


「時間を見るだけなら携帯があるし、いいかなって」


「もったいない。せっかくあげたんだから、明日からつけてきてよね」


 口をとがらせる彼女を見ながら、愛想笑いを返す。頷きも否定もせず、曖昧に返事をする。


「……そういえば、誕生日プレゼントに腕時計を贈ったこと、なんで知ってんだ?」


「ん?」


 日借は『エゴ・リセット・プログラム』を受けた。


 だったら、記憶は全部消えるはずだ。

 誕生日になにをプレゼントしたかなんて、覚えているはずがない。


「だって、書いてあったから」

「書いてあった?」


「わたしのメモ書きに」


 メモ書き、というのがよくわからないが。

 おそらく、新しい自分に向けた引継ぎ事項が書いてある紙のことだろう。


「楽鬼がちゃんと腕時計つけてるか、確認してくれって」


「………………へー」


 続けて僕が口を開きかけると、後ろから「ユリア」と名前を呼ぶ声がした。


 クラスメイトの女子が三人、僕の後ろから飛び出てくると、日借を囲むように集まる。


 きゃいきゃいと、女子高生らしく振舞う彼女たちを見ながら、僕は廊下を進んだ。


 進んでも進んでも、違和感が消えなかった。


 僕が異物になったような気がした。

 僕が異質になったような気がした。

 僕が異常になったような気がした。

 

 みんな同じ顔の、別人になった。


 いいクラスになった。


 人を貶さない、貶めない、欺かない、蹴落とさない、差別しない、区別しない、いい人になった。


 楽しい日々になった。


『エゴ・リセット・プログラム』を受けなかった僕でもちゃんと受け入れてくれた。


 だからこそ。


 自然と気を使って、気を配って、壁を作らず気味悪がらず、それを当たり前にしてくれるクラスだからこそ。


 僕は、あのクラスに居場所がなかった。

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