S1 Ep2 2025年10月10日

「もう会議の時間だったか?」

 大蔵省通関局保安室。

 全国の税関を束ねる通関局の中でも、犯罪捜査を所掌する保安室の業務は単に捜査の指揮を執ることだけではない。予算の折衝、国会答弁の準備、複雑な法令の解釈、さらには他省庁との摩擦をはらんだ調整業務まで、あらゆる重圧と問題が日々降りかかる。庁舎に籠って机に座っていても、その中は火花が飛び交う戦場だ。

 主査の香田とその部下である岩﨑の二人は、今日も執務室で書類の山と戦っていた。香田の気の抜けた口調に、隣の岩﨑が呆れ顔で資料を手渡す。

「15分後から京浜の犯罪捜査第二課二課と打ち合わせですよ。」

 その表紙を見た香田は思わずため息をこぼした。

「京浜か…あいつがいるから嫌なんだよなあ。」

 "あいつ"とは彼の同期であり前任でもある鮎瀬のことだ。本省と地方支分部局という立場があっても、二人に上下関係というものはない。多忙を極める今でも時々飲みに行く仲だ。あくまでも時間ばあえば、の話だが。

「相変わらず仲良いですよね。」

 岩﨑は淡々とした口調で返した。感情の読めない表情、目の下に張り付いた隈、そしてややくたびれたスーツ…まさしく睡眠不足を体現したような存在といえる。有給休暇をとるときですら辞表を提出するかのような雰囲気でやってくる男だ。

 無機質な回答を聞いた香田は心の中で苦笑した。少しくらい“人間味”のあるお世辞を言ってくれないものか。彼は机の上で無造作に転がっていた栄養ドリンクを拾い上げ、一口飲みこんだ。

「事件の概要を教えてくれ。」


"Cloud9"

 その名が初めて登場したのは、ほんの半年前のことだった。

 アッパー系の密造薬物で、4回分の一包装がわずか2,000円程度で手に入る。そんなCloud9は都内の学生塾街を中心に広がりを見せていた。

 問題は、その添加物だった。特に安価なものには効果をかさ増しするために除光液やエンジンオイル、果てにはガソリンが含まれている。それは薬物というより、もはや毒物といっても差し支えない。

 幻覚、解離、多幸感といった効果に魅入られて乱用する者が後を絶たないが、その強い毒性は確実に体を蝕んでいく。過剰摂取による死亡例だけでなく、皮膚のびらんや腐食といった凄惨な副作用がCloud9の特徴だ。決して誇張しているわけではないが、症例写真をまともに見れば2か月は食べられなくなる。


 Cloud9と京浜税関の出会いは二週間前まで遡る。

 犯罪捜査第二課―京浜税関の中でも薬物や武器の密輸を扱うこの部署で、一係の上圷と空嶋、そして二係の鮎瀬と髙城がとある密輸事件の捜査にあたっていた。

 被疑者宅に踏み込んだ4人の目に飛び込んできたのは、見たこともない包装に包まれた小瓶だった。ラベルに文字の類は一切なく、いくつかの数字が書かれているだけで正体は皆目見当もつかない。

 その不気味な押収物はすぐさま大蔵省の関税政策総合研究所関総研に送られた。

 薬物担当分析官はまるで新しいおもちゃをもらった子どものようにはしゃぎながらこう言った。

「こんなわけのわからない代物を麻取より先に分析できるとは光栄ですよ。」

 数日後、彼らの下に詳細な分析結果がメールで届けられた。

 それによれば、押収物の正体はCloud9と呼ばれる既知の薬物であり完全な“新種”ではなかった。主に東欧圏で広まりつつある新興薬物と製法が酷似しており、その成分や構造には既知のパターンがあったという。そして製造に用いられるのは、すべて合法的に流通している市販品ばかりだった。

 報告書にはさらに、ネット上でこうした薬物のレシピが売買されている実態にも触れていた。今回の薬物も、その一つである可能性が高い、と。

「すぐさま流通経路を特定し、密輸の疑いがあれば検挙しろ。」

 犯罪捜査部長の事もなげな命令に、4人はとりあえずうなずくばかりだった。

 だが、捜査は意外なほど順調に進んだ。

 先の別件で逮捕された被疑者が、取り調べの中で“販売者”の情報を漏らしたのだ。そこからマイタグの行動履歴を分析し、販売者の拠点を割り出すまでさほど時間はかからなかった。

 準備は整っていた。

 後は踏み込むだけ―のはずだった。


「事件の概要は以上です。」

 鮎瀬の静かな声が、小さな会議室の空気を締めくくった。無骨な壁に囲まれた空間には不釣り合いなほど大きなモニターの向こう側では、京浜税関の4人が神妙な表情で座っていた。

 鮎瀬が画面共有を切ると、わずかな沈黙が場を支配した。

「了解です。この件については通関取締法で禁止する情報密輸に該当するという理解で大丈夫ですか?」

 岩﨑の問いかけに鮎瀬が重い口を開いた。

「その件ですが―」

 通関取締法第二十三条の二第一項では規制薬物製造に関する情報の輸入を禁止している。しかし、その「規制薬物」とは麻薬取締法や薬機法などといった法律で明確に禁止されている麻薬や指定薬物を指していた。

 今回の「Cloud9」は、まさにこの「法の適用」が問題だった。

 その主成分は鎮咳薬として広く普及しており、薬機法により処方箋がなくとも薬局などで購入できる「一般用医薬品」に指定されていた。つまり、この成分自体の所持や使用を理由にして捜査を進めることは、現行法の下では極めて難しい。そうなると通関取締法では取り締まることはできない。4人の捜査官たちは、この抜け穴とも言うべき“壁”の前に立ち尽くしていた。


「つまり通関取締法の適用範囲外ということですか?」

 岩﨑が念押しすると、4人は渋々うなずいた。

「はい。税関としては、通関取締法が適用できなければ動くことはできないと考えています。」

 その言葉に岩﨑が思わずため息を漏らす。ややあって香田が資料から顔を上げた。

「ちょうど、厚生省から先日連絡がありました。Cloud9と称される密造薬物の捜査について、厚生省が捜査をグリップしたいと。」

「げっ。」

 モニター越しに髙城が素っ頓狂な声を上げた。その声は驚きというより絶望に近い。

 厚生省医薬安全局薬物対策・流通監視課とその傘下機関である地方麻薬取締支局麻取―薬物事件捜査に関しては国内最強の実力を誇る法執行当局だ。捜査権限も情報網も、税関の比ではない。人事交流や共同捜査も行われているが、現場感覚では“格上”だ。実際、税関の動きは後手に回ることが多い。

「一応その動きはクリンチしていますが、理由を整理できなければこちらの立場としても苦しくなります。」

 そちらが適任だからお願いします、といえるほど霞が関は単純ではない。予算執行、次期選挙の戦略、大臣と他の議員の関係―各省には譲れないメンツがあり、日々の業務はいわばプライドのぶつかり合いともいえる。

 だが厄介事だけは別だ。問題が表面化したときに自分たちのせいでしたとは決して言えない。一秒でも早く相手に渡すためなら何十時間でも残業をおしまない。それが香田たち本省側の生き方であり流儀でもある。

「通関局では、税関の所掌範囲外ということであれば厚生省に事件を引き継いでもよいと考えます。」

 香田はそう言い切ったものの、内心では4人の返答を警戒していた。自分から提案したとはいえ、すぐに了承が得られるとは思っていなかったからだ。

「やむを得ないと思います。」

 上圷は意外なほどあっさりと口を開いた。その一言に、香田と岩﨑の目が見開かれる。

 続けて上圷は淡々と語った。

「こういったグレー案件は、うちが逮捕して終わる話ではありませんから。」

 逮捕というのは、あくまで始まりにすぎない。適用される法令の妥当性、解釈の統一、公判維持の可能性―複雑な要素のすべてが絡み合ってくる。場合によっては、全国の税関で統一的な運用方針を立てねばならず、法改正の議論が国会に上がることすらある。

 そして、もし裁判で有罪判決が得られなければ、そのときは立場が一転し、税関が“責任を問われる側”に回るのだ。

 政治と行政の間に立つ本省にとって、それはもはや単なる捜査機関としての問題ではなかった。

 どうやって、もっとも合理的な落としどころを見つけるか。

 霞が関で繰り広げられる戦いの本質は何十年も前から変わっていない。いつもその一点に尽きるのだ。

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Shoreline シモ @shimo_A

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