S1 Ep1 2050年10月23日
週末の夕暮れ、ネオンが街を染める頃。繁華街の雑踏をかき分けるように4人の税関職員がとある雑居ビルを目指していた。
人波の中を歩きながら、髙城が
「マイタグの情報では、被疑者は建物から出ていないようです。」
その声には、わずかに緊張が感じられた。
マイタグ─国家が国民に付与する社会保障番号のことだ。これに対応する電子機器を所持している限り、人々の行動は記録され、追跡が可能になる。
導入当初こそ「万能な身分証」として売り込まれたこのシステムも、その意気込みとは裏腹に浸透には時間を要した。だが納税、公共交通、買い物、あらゆる日常がマイタグと結びつくようになると、国民の9割がこれを受け入れた。
行政機関は業務に応じてマイタグのデータベースへアクセスできる。中でも治安機関の捜査官は、ほぼすべての情報に目を通すことが許されている。
「週末とはいえ、ずいぶん人が多いですね。」
すれ違う人々が次々に居酒屋へ吸い込まれていくのを、空嶋はどこか羨ましそうに見つめていた。飲み歩きにはちょうどいい夜だ。だが被疑者を逮捕すればそのまま検察送致に向けた怒涛の書類仕事が待ち構えている。今夜は飲めそうにない。
「この辺りは飲食店が集中しているからな。第三者に被害が及ぶようなことだけは絶対に避けてくれ。」
そう答えた鮎瀬の声はいかにも人混みに対する鬱陶しさを感じさせるものだった。
「
上圷も続いて口を開く。彼もまた鮎瀬と同じ関税監視官だ。警察に例えるならば警部の立場にあり、現場捜査を指揮しながら全体を統括する重責を担っている。
それに対して髙城と空嶋は関税取締官を務めている。警察でいえば巡査あるいは巡査部長に相当する。捜査の実働部隊であり、現場で最も汗をかく立場だ。
繁華街の雑踏を抜けると、ようやく目指す建物が現れた。いよいよ始まる―上圷は覚悟を決めたかのようにこう告げた。
「予定通り着手します。」
4人は作業着と呼ばれるジャケットの袖に腕を通した。税関で犯罪捜査にあたる職員にとってそれは単なる制服ではない。それは己の身分を示す証であり、何よりも味方同士での誤射を防ぐための重要な目印だった。
作業着を羽織った4人の背には、大きく「京浜税関」の4文字が浮かび上がっていた。蛍光塗料で塗られたたその文字が非常灯にぼんやりと照らされ、薄暗い廊下に光る。
「もし、被疑者が武器を持って暴れ出したら?」
着手直前、不意な鮎瀬の問いかけに対して髙城と空嶋は呪文のように答えた。
「説得第一、実力行使は二の次です。」
第三者の保護は事件解決以上に気を配る。捜査機関に限らず、余計な追求と責任問題を避ける姿勢は公務員に植え付けられた習性と言えるかもしれない。
「いい心がけだ。」
鮎瀬はそう言いながら呼び鈴に手を伸ばした。
この扉の先に、彼らの任務が待っている。
――
「大蔵省です!これより、家宅捜索令状を執行します!」
上圷の一声が繁華街の外れに響く。その宣言を合図に4人の捜査官が部屋になだれ込んだ。目的は薬物密造に関する情報を密輸した被疑者の逮捕と証拠物品の押収だ。
2045年の法改正以降、情報密輸の摘発件数は増加する一方だ。単に税関の捜査技術が向上しただけではない。ドラッグや爆薬といった社会悪物品は、今やその製造方法さえ手に入れば自宅の一室でさえ工場になり得る時代だ。世界的な情報技術の発展により、密輸の対象は「物」から「知識」へ変遷を遂げた。しかもそれは「商品」として売り買いされるだけではなく、思想や報復の名の下に無償でばら撒かれることも珍しくない。
突入した部屋のど真ん中、ひときわくたびれたソファに男が横たわっていた。虚ろな目は天井を彷徨い、こちらの姿に気づいた様子はない。
「生きている…よな?」
髙城の視線が男の足元に転がる小瓶に吸い寄せられた。特徴的な赤いラベルに粗雑な意匠─それは何度となく捜査資料で見てきたCloud9と呼ばれる新型ドラッグだった。
「アッパー系ドラッグを摂取しているようです。」
鮎瀬は令状を静かに掲げた。気怠そうな眼をしているが、左手は警棒にかけたままだ。いつ暴れだすかわからない状況で無防備というわけにはいかない。
「薬物密造に関する情報を国外から密輸した容疑で家宅捜索を行います。」
その瞬間、男の目に微かな焦点が戻った。怒り、混乱、そして恐怖が入り混じったその表情に、全員が次の瞬間を予感した。
―くるか?
部屋全体が緊張に包まれる。特別司法警察職員とはいえ、日々こんな修羅場を経験しているわけではない。所詮は地味なデスクワークに明け暮れる、しがない公務員だ。
しかし、その予想はあっさりと裏切られた。
4人が身構えた隙を突くように、男はソファから飛び起きて窓際へ駆け出すと、何の躊躇もせずベランダから地上5階の上空に躍り出た。
「っ…!」
あまりに唐突な行動に、誰もすぐには動けなかった。ベランダから身を乗り出して下を覗き込むと、男は隣のバラックを伝って地上へと逃げていた。
このまま逃がせば第三者に危害が及ぶ。上圷と鮎瀬はそれぞれの部下に追跡を指示するとともに、こう付け加えた。
「関税監視官権限で低致死性武器の使用を許可する。」
指示を受けた2人の関税取締官は軽く頷くと部屋を飛び出した。
「監視部にドローンを要請しますか?」
鮎瀬が尋ねる。静寂が訪れた部屋にはまだ緊張感が残っていた。
「ここは羽田の飛行制限空域下ですから…航空局がうるさいでしょうね。」
苦い口調で上圷が答えた。税関に配備されている高性能無人航空機もあくまで海上監視用として導入されたもので、地上での運用は依然として省庁間の壁に阻まれている。
「結局は足で追うのが早いのか…」
鮎瀬の視線は外の喧騒に向けられたままだった。
――
人影まばらな路地裏。ネオンの届かない一角には、わずかな街灯が不規則に揺れながら、濁った光を地面に落としていた。本来なら若者たちが夜遊びに繰り出し、笑い声を響かせる時間帯。しかし今そこにいるのは髙城と、ナイフを握りしめた男の2人だけだった。
「しつこいんだよ…!」
怒声が闇を裂く。
男の呼吸は荒く、肩を上下させながら睨みつけてくる。だがそれが逃走の疲労によるものか、あるいは薬物による過剰な興奮かは判断がつかなかった。
「マイタグで位置がわかりますから。」
髙城は冷静に、むしろ事務的とも言える口調で応じた。
手元の官携帯が男の所在を正確に示している。マイタグ―国民の大半が所持する個人識別タグは、電子機器と連携することで逃走者の追跡すら容易にする。デジタル機器と共に育った世代にとって、身一つで逃げるというのはもはや幻想に過ぎなかった。
「お前を殺してでも逃げ切ってやる。」
男が握るナイフの刃が、街灯に濁った光を返す。
税関に捜査部門が設置されて以降、関税監視官や取締官が職務中に命を落とした例はなかった。もっとも、過労死した一人と長期療養中の三人を統計から除けば、の話だが。
―寝言は寝て言え。
心の中で吐き捨てながら、髙城の右手がそっとホルスターへと伸びる。
そこに収められているのはPガンと呼ばれる低致死性武器だ。ガス圧で催涙弾を撃ち出し、吸い込めば咳と激痛でまともに動けなくなる。実銃に比べて使用のハードルは格段に低く、関税取締官は関税監視官の許可さえ得れば現場判断で使用できる。ホルスターはマイタグと連動しており、認証されなければロックは解けない。
相手に悟られないよう、髙城はゆっくりとホルスターの安全装置に指をかけて次の一瞬に備えた。
「そんなバターナイフでどうしようってんだ?」
武器を捨てるよう説得するつもりが、代わりに髙城の口から飛び出たのは虚勢混じりの挑発だった。おまけに言い終えてから耐刃防護衣を着ていないことに気がついた。
男が本気で刃を向けたその瞬間、鈍い打撃音が路地に響いた。
「遅いぞ。」
物影から現れたのは空嶋だった。使う機会がほとんどないはずの警棒を慣れた手つきでケースに戻す姿は、まるで通常業務の延長に過ぎないかのようだ。
「道に迷っちゃってね。」
「よく言うよ。」
息の合った軽口を交わす2人は、同期入省の付き合いだ。普段はふざけ合いながらも、いざというときは背中を任せ合える仲である。
「安心してください。連行したら医務室に連れて行きますから。」
ご愁傷様という言葉しか思い浮かばないが、警棒が直撃した痛みはドラッグの作用で誤魔化せるほど優しくはない。髙城はやれやれといった表情で男からナイフを取り上げると、古びた手錠をその手首にかけた。
「19時45分、公務執行妨害の現行犯で逮捕します。」
突入からちょうど15分が経過していた。
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