翌日。普段は十分前に着くように出勤するが、今日はいつもより三十分ほど早く出勤した。事件があった現場を改めて見ておきたかったからだ。控え室に荷物を置き、エプロンを着け終えると、そのままの足で地下書庫へ向かった。階段で地下に降り、地下一階のエレベーターホールに入る。そして、設置されている防犯カメラを確認した。天井から出ている棒で固定されているカメラは、一見なんの異常も見当たらない。なにかが細工された、そういう様子はなさそうで、地下二階のカメラも同様だった。

 事件現場に向かうと、電動書架の前にはトラテープと立ち入り禁止の看板が置かれていた。現場の前ではスマートフォンを操作している人影があり、利用者かと思ったが違った。職員の小野だ。

「小野さん。お疲れ様です」

 声を掛けると、小野は身体をビクつかせて、九重の方を見た。スマートフォンの操作を止めていう。

「あ、九重くん。お疲れ様」

 小野はK大学図書館の正規職員で、年齢は九重より三つか四つ上だったはずだ。年上だが、小柄で小動物を思わせる可愛らしい風貌は、大学生といわれても疑わない。

「どうしたんですか。こんなところで」

「うん、ちょっとね」小野はそういって、現場に目を向けた。そういえば、ダイイング・メッセージにはonoと入っていた。

「被害者からのメッセージですか」

「あ、九重くんも知ってるんだね。刑事さんから聞いたの?」

「そうです、写真を見せられて」

「私も刑事さんから見せられた。それで、被害者に心当たりはないか、11という数字になにか覚えは、とか色々訊かれた。でも、私にはなにもわからなくて」

 普段はカウンターの奥にある事務室で小野は働いている。表に出てくることがほとんどないので、どんな利用者がいるのか知らないのは無理もない。

「onoで、小野さんというのも安直な気がしますけど」

 九重の言葉に小野は頷いた。

「刑事さんもそういってた。被害者は犯人に消されることも考慮して、特定の人にしかわからないようにカモフラージュしてるかもしれないって」

 あれが本当に、ダイイング・メッセージなら、なにかしらの暗号である可能性はある。ただ、死の間際にそれほど複雑な暗号を思いついたとは思えない。

「あの日、九重くんはカウンターだったよね」

 九重は「はい」と頷く。

「私は残業中で事務室にいたんだけど、こんな事件が起きてるなんて気づかなかった。声とか聞こえなかったのか、なんて訊かれたけど、地下書庫から声が届くわけがないし」

 地下二階、しかも書庫の中となれば、一階に声は届かないだろう。

「他に書庫に入る為の職員用入り口とかないか、とかもいわれて、そんなのあるわけないし」

 小野は疲れた様子で息を吐いた。余程詰められたらしい。

「山本さんはなにかいってました?」

 事件の日、事務室には小野と山本がいた。山本は小野の上司で係長の役職についている。タバコとパチンコを愛する典型的な中年男性で、司書には向いてなさそうな人である。事件が発覚した時、死体を見つけた十条寺には小野がついて、警察や救急に連絡し、九重は山本と二人で死体を確認しにいった。

「山本さんはなにも。そもそも、事故があった時間に、席にいなかったの。外の喫煙所に行ってたから」

 山本がタバコ休憩で席を外すことはよくあるらしい。喫煙所は図書館の外にあり、徒歩五分くらいかかる場所に設置されている。

「山本さんも色々訊かれたみたいだけど、事故の時に図書館の中にいなかったから、あんまり追及されてないみたい。まぁ、そのせいで私が余計に疑われることになったんだけど」小野はうんざり、という表情だ。

「他に残ってる人はいなかったんですか?」

 事故があってから、十条寺が見つけるまで約一時間ある。その間に、誰かが帰宅していてもおかしくはない。

「いなかった。十九時まで残業してる方が稀だから。みんな定時から三十分もすれば、帰るよ」

 九重が閉館作業をしている時には、事務室の電気が消えていることが多いので、小野のいうことは嘘ではなさそうだ。

 山本が喫煙所ではなく、地下に向かった。そんなことも考えたが、事務室の前にも外に出る為の通用口と事務室の入り口を映す防犯カメラが設置されている。山本が疑われていないということは、通用口に向かう姿がカメラに残っていたのだろう。だが、同じ理由で小野が地下に行っていないことはカメラでわかるはずだ。小野が地下に向かうには、事務室前のカメラ、地下書庫のカメラ、二つを往復で映らないようにしなければならない。九重でも不可能だとわかる。

「大体ね、私たちを疑うのがおかしいと思う」

 小野は思い出したように怒りを露わにしながらいう。これから始まるのが愚痴なら、早めに切り上げないと、先に出勤している十条寺に怒られそうだ。

「事件の日にいたから、一応話を訊いた、とかじゃないですか?」

 宥めるように九重がいうが、小野は首を振る。

「だって、地下のカメラに被害者以外映っていないんだったら、少なくてもあの時間に誰も入っていないってことじゃない。だったら、前の日の記録を見た方が絶対いいと思う」

「前の日、ですか?」

「そう。犯人は、被害者を殺す為に、前日から地下書庫に隠れてたんだよ。書庫の中は薄暗いし、死角も多いから隠れようと思えば、いくらでも隠れられる。閉館作業の時に入退室のデータなんて、毎日確認しないでしょ?」

 書庫に入るには、職員証か学生証をゲートにかざす必要がある。図書館に入るときもそうだが、書庫も専用のゲートを設置しているのだ。そこでは、入退室のデータを記録しているが、小野のいう通り、毎日データをチェックなどはしない。閉館作業の時は、十条寺や他のアルバイトが目視で人が残っていないか見回るからだ。

「毎日は確認しないですけど、今回みたいに事件があったら記録でバレますよ」

 警察は当然、図書館の入退館と書庫の入退室のデータをそれぞれ確認しているはずだ。入室のデータがあって、退室のデータがない利用者がいれば、すぐにわかる。

「多分、カウンターの目を盗んで誰かの後に続いて入ったんだよ。それで、こっそり外に出た。事件の日は警察とか救急の人も地下に出たり入ってたりしてたし、どさくさに紛れて出れると思う。というより、カメラがある限り、それぐらいしか方法ないよ」

 小野の考えを聞いて、九重は小野がここまで事件について考えていたことに驚いた。

「考えましたね。警察に話したんですか、今の話」

 小野は頷いた。

「実は昨日、キツネ目の刑事さんが私のところに来たの。話したけど、はいはいってあしらう感じで、最悪だった」

 どうやら相模は小野にも会いに来ていたらしい。用事とは小野のことだったようだ。

「そういえば、前日になにしてたのか訊かれましたね」

「そうなの?私は訊かれなかった」

 九重だけ訊かれたのか、相模ならやりそうなことだ。

「小野さんの考え、検討はしてたみたいですね」

「でも、それならなんで九重くんにだけ訊いたんだろう」

 九重は言葉に詰まる。相模に疑われているなんて、下手なことはいえない。

「考えを語った本人がやるとは思わなかったんじゃないですか?」

「そうかなぁ」

 小野は顎に手を当てる。変に勘繰られたくない、そう思い、九重は質問する。

「そういえば、その時、刑事さんはなにを小野さんに訊いたんですか?」

「ボタンのことを訊かれた。知ってたかって」

 強制移動ボタンのことだろう。

「なんで今更、そんなこと」

「最初の事情聴取じゃ訊かれなかったし、念の為じゃないかな?」

 今頃、ボタンのことを訊いてきた。ということは、本当に事件の可能性が高いのかもしれない。


 話が一段落して、九重はカウンターに向かった。十条寺は朝シフトで、開館の九時から十三時までの勤務なので、既にカウンターに座っている。九重が来たことがわかると、開口一番でいう。

「遅いです」

「ごめん。ちょっと、小野さんと話してた」

「小野さん?あの人、付き合ってる人いますよ」

 なんの話だ。「人のプライベートをいいふらすな」

「悪い虫は近づけさせないようにしないと、と思いまして」

「誰が悪い虫だ」

 九重はいいながら、入退館を管理するモニタを見る。現在の入館者は二人、一人は奥の席で机に突っ伏して寝ている男だろう。もう一人の姿は見えないが、カウンター周りにはいなかった。

「もう一人は、地下書庫に行きましたよ。事件の日にいた女の子です」

 九重がモニタを見ただけで、なにを危惧しているか気づいたらしい。十条寺のこういう洞察力の鋭さは、素直に尊敬できる。

「よく覚えてるな」

 十条寺は当然、といった顔で頷く。

「だって、二人ですよ?あの日、地下書庫に入った人。もう一人は若いスーツ着た非常勤の先生」

「素晴らしい記憶力だな、ホームズ。ところで、仮説の件だが」

 九重は、小野が話していた犯人が前日から潜んでいたのでは、という説について話した。

「君が昨日話そうとした仮説はこれじゃないのかね?」

「九重さん、ワトスンに成りきるつもりなら、もっと口調とか調べてきてくださいよ」

 十条寺が冷めた顔をしている。じゃあ君は忠実なのか、といいたかったが長くなりそうなので止めた。

「悪かったよ。それで仮説の件は?」

「小野さんと同じです。先を越されてしまいましたね」

 先を越された、という割に十条寺はあまり残念そうではなかった。

「とはいえ、その説はないな、と思ってたんですけど」

 負け惜しみ、と思ったがどうやら違うらしく、十条寺はいう。

「ゴタゴタの中とはいえ、警察が不審者を見逃すはずがないですし、カメラは入念に確認しているはず。結局、犯人にとってカメラが最大の壁であることに変わりないんです」

「それは、そうだな」

 防犯カメラのデータを改ざん、というのもまず無理だろう。データを記録する媒体は事務室内にあるだろうから、開館時間中は職員がいるから不可。時間外は、扉の鍵とセキュリティシステムがかかっているから、侵入不可。仮に職員が防犯カメラのデータを別の日と書き換えたりしても、入退室を管理するデータがある。そのデータと比較すれば、映像とデータに齟齬が出て、改ざんはすぐに明らかになる。入退室のデータはカウンターのPCに保存されているので、九重らの目を盗んでも、館内の防犯カメラにその姿が映るはずだ。

 十条寺のいう通り、防犯カメラを逃れることが最大の難所だろう。死角もなければ、データの改竄も不可能。裏を返せば、カメラに映らずに犯行現場に行く方法があれば、あっさりと犯人は明らかになるのかもしれない。

「電動書架って遠隔で操作できないのかな」

 九重の言葉に十条寺はやれやれと海外風に手をあげる。

「前にもいったように、地下は電波が通じません。当然、電動書架もインターネットに接続されてませんから、ローカルな状態です。現場でボタンを押さないと動きませんよ」

「文系の割に詳しいな。十条寺くん」

「私、理系なんですけど。初対面の時、いいましたよね」

「忘れてた」

 十条寺は九重が忘れていたのが不満だったのか、ペンで腕を刺そうとしてくる。距離を取って、降伏の意を示すために両手をあげる。

「防犯カメラに映らず、電動書架の遠隔操作も無理、となると、どうやって犯人は書架を動かしたんだろうか」

 十条寺は器用にペンを回している。

「考えたんですけど、不可能犯罪なんですよね、これって。だから事故の方疑った方がいい気がしてきてます」

「でも、メーカー調査で事故はないって話だったんじゃないか?」

 十条寺が刑事から得た情報通りなら、そのはずだ。

「そうですけど、メーカーがウチの製品の不具合です、って正直にいいますかね。実は超低確率で発生する事故が懸念されていたけど、起こる可能性は低いし、放置していた。実際起こっても、再発の確率は天文学的な数字だから、惚けた。そう考えた方が、ありそうじゃないですか?」

 十条寺の考えは絶対にないとは言い切れなかった。専門知識のない九重には、そうであってもわからないからだ。もし、本当に事故で、それが証明できないなら、九重には都合が悪い。

「工学部なら、電動書架を調べて、事故の要因を見つけたりとかはできないの?」

「ただの学生にできるわけがないでしょう。授業でやる程度の工作ぐらいしかできませんよ」

「ホームズも機械の不具合じゃ太刀打ちできないか」

 十条寺はムッとした表情でいう。

「仕方ないでしょう。私はもう事件のことは忘れました。ほら、九重さんも早く仕事しましょう」

 十条寺は回していたペンをペン立てに戻すと、カウンターのパソコンに向かった。話し相手がいなくなったので、九重も諦めてパソコンに向かった。

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