最後の言葉
秋色
The Last Word
妻が家を出て行った。
テーブルの上に置かれたメモみたいな手紙は、
イタリア製のペーパーウエイトと指輪の箱で押さえられていた。紙は一枚きり。窓から入った風で、もう一枚は飛ばされてしまったのだろう。
どうして二枚目がある事が分かったかというと、一枚目の終わりにこう書いてあったからだ。「自分の必要な物は全て持っていきますが、もし私の残した物で処分に困る物があれば、二枚目に書いた連絡先に着払いで送ってください」と。
指輪の箱の中に肝心の指輪は入っていない。
手紙の二枚目は、意外な場所から発見された。飼い猫のマリンのお気に入りのクッションの下から。妻はマリンを可愛がり、マリンは妻の匂いを好んでいたので、手紙の一枚を拝借したとしても責められない。そしてその一枚の手紙を短い手足でクシャクシャにし、端の方を爪で引き裂いていたとしても。
妻の実家のある県の共同住宅の住所が書かれてある部分は、マリンの被害に遭っていなかった。この住所は、おそらく彼女の兄の家の近くなのだろう。ここ、自分の居住地からは遥かに遠い。
そして手紙の最後に
――指輪は持って行きます。これは私の物――
なんて言い草。こんなに欲が深かったっけ。
そうは言っても、この別れは、自分のいい加減さが引き起こしたものだし、問題の指輪はそれが存在するがために婚約指輪も購入しなかったという
*
その指輪を買ったのは、光あふれるヨーロッパの地。季節は初夏。結婚前、輸入雑貨の自営業をしていた僕とその妻になる人は、僕が仕事で訪れる事の多かったヨーロッパに一緒に旅行した。それが新婚旅行の代わりとなり、そこで運命的に見つけた指輪が婚約指輪の代わりとなった。後日、あらためて婚約指輪を買おうとしたが、彼女から断られた。「あの時もらった、この指輪だけでいいの」と。
あれはベネチアの店だった。落ち着いた店の中で輝くような一角があった。ダイヤモンドのような輝きではない。輝きをひたすら奥に秘めたようなブルーの指輪だった。彼女の眼も僕の眼も釘付けになった。
なぜならそれは前々日にアマルフィーの海岸で見た紺碧の海とそっくりの色だったから。
結構ちゃんとした歴史あるブランドで、とてつもない値段だと思っていた。でも確かにそれなりではあったが、手が出ない金額でもなく、お買い得という感じの値札が付いていた。
何より運命を感じた。アマルフィーの海岸で過ごした時間がかけがえのないもので、それを閉じ込めたようなジュエリーに出会えたんだから。
そこでは夕刻に地元の人達のする野外劇を観た。シェークスピアのロミオとジュリエットというスタンダードな演目で、台詞は全て詩みたいだった。舞台となっている地に近いせいか、または夕陽を背景に観ていたせいか、とても趣があった。ラストの主役二人が横たわっているシーンで、隣を見ると彼女は眼に涙をいっぱい溜めていた。
*
そんな事を思い出し、やはりあの指輪はここに置き去りにされなくて良かったと思った。彼女にずっと持っていてほしかったから。
猫のマリンがお腹が空いたというアピールをしに、側に寄ってくる。あるいは、出て行った僕の妻を探しているのだろうか? このマリンという名前も、彼の地で見た海の色から付けられたもの。
猫の首輪に何か紙切れがくっついているのを見つけ、指でそっと取った。
それは妻の手紙の二枚目の端のちぎれた部分だった。
「語」という字だけが書かれている。見慣れた丸っこい綺麗な字で。
僕は愕然とした。
そうか。手紙の最後、「指輪は持って行きます」の後は、「これは私の物」ではなかった。
正しくは、「これは私の物語」、そう書いてあったんだ。
〈Fin〉
最後の言葉 秋色 @autumn-hue
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