妖精王女
その日、木こりは森の怪に出会った。森の外れには居そうもない絶世の美女が木陰に佇み、こちらを眺めていた。服はシルクかなにかでできた薄物のネグリジェのように見えた。明らかに場所に不釣り合いだ。――妖怪だ。木こりはとっさに判断して無視に徹した。
しかし彼女はなおも彼を見つめていた。木こりは居心地が悪くなって声をかけた。……親方には妖怪に声をかけたらいかん、ときつく言われているにも関わらず。
「あの、さっきから僕のことを見ていらっしゃいますが……なにか?」
彼女はさっと頬を赤らめて木の後ろに隠れた。
「……わたくしが見えるのですか?」
おずおずと返ってきた声は質問だった。鈴を転がすようなソプラノボイスだった。
「ええ、見えますとも。なにか御用ですか?」
「その……わたくしはあなたのような森で働く人を見たことがないのです。珍しくて、眺めてしまいました」
彼女は木の後ろに隠れたまま答えた。木こりは顔に血が集まるのを感じた。
「では、僕の仕事をもっと見ていきますか?」
「はい!」
彼女は顔を輝かせて木の陰から出てきた。
それが、彼女との出会い。
木こりは、森の外れで仕事をし、彼女はそれを眺めていた。
彼女はいつも薄い衣ででてきた。春先のまだ冷たい風が吹く頃だったので、木こりはいつも心配していた。
「僕の上衣を着たら? 僕は動いていて暑いから」
「いいの、わたしは寒くないから」
彼女はどう見ても妖しのものだったが、木こりは特に気に留めていなかった。可愛らしい女の子だし、危害はくわえられないだろうと思ったからだ。
それでも、親方の目は誤魔化せなかった。
「フェオ、おまえ仕事中になにかに話しかけられてやしないか?」
「え?」
「これは俺の勘だが、よくないぞ、ソレは」
「……大丈夫ですよ」
「やめておけ、ソレはおまえの寿命を喰うぞ」
「気をつけます」
木こりは話半分に片付けようとした。親方は食い下がってきたが、さっさと仕事を片付けて家に帰った。
彼はもう、彼女のとりこだった。彼女は美しくて、優しくて、よく笑う。嫁にもらうならこんな子がいい、という理想のど真ん中を撃ち抜くような女の子だ。たとえ人でなくとも、一緒にいられる今がずっと続けばいいのにと思う。
「君は、どこから来るの?」
あるとき彼は、意を決して彼女に尋ねた。すなわち、何者なのかということを。
「わたしは……笑わない?」
「どうして君の発言を僕が笑うんだい?」
「そうよね……わたし、妖精なの。花の妖精」
彼女の素足の足元にはデイジーの花が風に揺れている。彼女の近くにいられることを喜ぶかのように。
なんとなくわかっていた木こりは、特に驚くこともしなかった。妖精がもしいるのなら、こんなだろうなと思い描いていたとおりの存在なのだ。
「妖精の国からわざわざ僕の仕事なんかを見に来るのかい?」
「ええ、そうよ。あなたに会えるのが最近でいちばん嬉しいことなの」
彼女いわく、妖精の世界は人間界にくらべて時間の流れが緩慢で、ゆったりと動く者たちばかりなので、木こりのようにせかせかと仕事をしていく人間を眺めているのは愉快なことなのだという。
「じゃあ、べつに僕の仕事じゃなくてもいいだろう? 僕の親方なんかはもっとてきぱきと仕事を片付けていくんだよ」
彼女は首を横に振った。
「あなたは……あなたがいいの」
「どうして?」
なにか言葉を呑み込んだ気がしたので、どうしても聞き出したくなった。彼女はややためらって、顔を赤くしながら小さな声で言った。
「あなたは……麗しいから」
木こりはぶわっと自分の顔が赤くなるのを感じた。麗しいなどと、麗しさの塊のような彼女から言われるとは思わなかった。自分の顔に特に頓着してこなかった木こりはそれはそれは驚いて、言葉を失くした。
「あなたのような人は妖精の国にはいないわ。わたしとともに国に来てほしいくらい」
それは、もう結婚の申し込みのように聞こえる言葉だった。木こりの耳の奥でその声は何度もリフレインして、彼はその感覚に酔いしれた。
「でも、僕はそっちへいけないよ……僕は、人間だもの」
ようやく正気に戻って口にした言葉は、まだ理性を保っていた。仕事がなければすぐにでも彼女に手をとられるまま妖精の国へ行っただろう。
「……君が、僕の側で生きてくれたら、それなら一緒にいられるんじゃないか?」
彼女はとても悲しげな顔で首を横に振った。
「わたしは人間の世界にずっととどまることはできないの」
「なぜ?」
「わたしは……あの国の王女だから」
木こりは面食らった。一国の王女をこんな人間風情が奪ったなどと妖精王に知られたら、自分の魂は破滅する。妖精は人間の魂をとらえてコレクションするという話を聞いたことがある。きっと自分の魂も捕らえられて、天国へ行けなくなる。
いま初めて親方の心配そうな顔を思い浮かべた。こういうことだったのかと妙に納得した。
しかしそれでも、彼らの恋心は冷めなかった。
「わたし、あなたと一緒にいられないくらいなら、人間になりたい」
「僕だって君と一緒にいるためなら、仕事がなければ一緒に行きたいよ」
彼らは抱き合ってはさめざめと泣き、種族の隔たりを嘆いた。
彼女は仕事のために一緒にきてくれない木こりを決して責めはしなかった。木こりにとってこの仕事は、金を稼ぐためというよりは、森の保全のための生業に近かった。彼が仕事を放棄し、親方ひとりにこの森全域の保全責任がかかれば、間違いなく森は荒れる。森が荒れれば妖精たちも困る。妖精が困れば、魔物が棲み付く。魔物が棲み付けばもっと森は荒れる。それがわかっているから、彼女は木こりを責めなかった。
ただ彼女は、木こりに恋をしたことを少し悔やんだ。わたしが彼に出会わなければ、わたしたちはこんな思いをしなくて済んだのに――。
ある日彼女が木こりのもとへ出かけようとしたとき、女王に見つかった。
「そなた、毎日どこへ出かけているのです?」
「はい母上。外の世界はどんなだろうと、あちこち探検しております」
彼女は内心動揺していた。妖精の女王、ティターニア。彼女の力は絶対的だ。この方に彼が見つかれば、彼は間違いなく破滅してしまう。
ティターニアは、ふうん……と彼女をなめまわすように見て、薄く微笑んだ。
「そなたをたぶらかす者がいたなら、その者はどんな目に遭うのでしょうね」
「はい、母上」
彼女の声は震えた。
「フェオ、もう会えないわ、母上に知られてしまった」
彼女は木こりのもとに駆け寄ってきて、震える手で彼の頬を包んだ。
「君の母上というと……女王か、それは、たいへんだ」
彼の声も震えた、心臓が縮みあがる思いだった。いつどこから妖精たちが木こりを見ているかと思うと、生きた心地がしなかった。
「ああ、フェオ、愛しい人。とこしえの別れを惜しむこの気持ち……どうしたらいいの」
彼女は涙を流した。木こりがその涙に触れようとしたとき、彼の周りにつむじ風が起こった。次の瞬間、妖精の王女は叫び声をあげた。
木こりは、生きたままずたずたに切り裂かれて絶命していた。
王女の耳に、ティターニアの抑えた笑い声が響いていた。
王女は、木こりの死を悼んで彼の持っていた短剣で喉を突いた。
彼女の亡骸は、美しいツツジの木に変化して、春風にそよいだ。
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