ダンジョンタウン

京海堂

序章~太陽を攫われた地、アルテト~

 風はいていた。


 花、開くところ。草木、芽吹くところ。獣、駆けるところ。魚、潜るところ。鳥、舞うところ。虫、這うところ。人、生きるところ。


 あまねくところを訪れた風は哭いていた。


 初夏が足を運ぶはずのこよみにありながら壮麗そうれいたる樹木はその力強さを失って久しく、太い枝から伸びる青葉は色を失い、力無く地へと落ちる。


 落ちた先の大地にはかつて緑の絨毯じゅうたんを敷き詰めていたような草原が広がっていたのに、今やその片鱗へんりんも無く、薄く灰掛かった土は掘り返されたあとを誰も整地する余裕はなく、そのままの状態で捨て置かれていた。


 何年も昔に獣が掘り返して必死に虫を、草を食べ尽くした跡地は、既に腐れ落ちた彼らの死骸しがいが転がる。


 黄金おうごんの丘とまで呼ばれた黄金色こがねいろ葡萄畑ぶどうばたけは今や多くが枯れ果て、僅かばかりに残った一画に農夫の意地と誇りが垣間見えるが、それもあとどれほどの命だろう。


 人が住まうところに目を向ければ、多くの人々が死を運ぶ風に震え、ウールのショールや毛布で身体を包み、この寒気に精一杯の抵抗をし続けている。しかし家を温める暖炉だんろにくべる薪は尽きかけている。


 山の方へ目を向ければ、かつては樹木の海とも言えるほどにあった青の山間はしかし、この十数年で極端な伐採ばっさいが続いたために土地が禿げあがっている。もはやかつての自然は見る影もない。


 まさしく死の大地。


 黒い雲は太陽を攫い、暖かな日差しと春風はこの地を訪れることを忘れてしまった。冷たい、死を運ぶ風だけがこの地を横切る。


 大地に、美しい乙女が一筋の涙を落とした。


 銀の涙は、暖かな熱情を秘めた深紅ルビー色の瞳から流れ落ちる。その輝きは宝石を埋め込んでいるかと思うほどに輝かしく、この暗黒の地においてもなお力強さを主張する。


 涙を伝う肌は処女雪よりもなお白く清らかで、けがれの無い純白。清らかさを纏ったその色香は、妖精か、はたまた芸術の神がこしらえたようではないか。


 死の風にあおられながらも黄金色の長い髪は、この地にあって太陽を閉じ込めたような高貴な色合いを放ち、決して陰ることはない。蒼い薔薇ばらのコサージュは彼女の髪に留められて、不毛の地の中にあってなお誇らしく咲く。


質素な白いリネンのドレスの上に獣革のローブを羽織っただけの、みすぼらしささえ覚えるような出で立ちでありながら、彼女の高貴な魂を隠すことさえあたわない。


 ピンと伸びた耳はこの国を生きるエルフ特有の物だ。そのなだらかで鋭角的なラインでさえ麗しく、同じエルフ人であるならば誰もが見惚みとれよう。整然とした高い鼻立ちと、ぷっくりと膨れる紅い唇が一層彼女の美貌びぼうを華やかにいろどる。


 真珠のように眩く清らかな涙を流した乙女の美しい相貌そうぼうが悔しさに歪むほどに歯を噛みしめ、己の無力さを恥じていた乙女は、伏していた顔を上げた。


 眼下に広がる光景は既に十年以上、太陽を奪われて極貧に喘ぐ領民たちの住まう街々。レンガと木造りの家々は、かつてはその肥沃ひよくの土地に囲まれて、誇りを以て仕事にのぞむ農夫に木こり、織物を作る女たち、組合ギルドの許可を得て販売に勤しむ商売人たちで溢れていた。


 森に向かえば狩人たちが獲物を狩って街に持ち帰り、買い取った肉屋が捌いて売り出し、獣の皮を引き取った職人はそれを衣服や絨毯などに加工していた。そうしたものを仕入れた商人は、時に城に、時に他国へと売り歩いていたのだ。


 他国へ向かう商人はワインを持っていく。このアルテトの街はワインの名産地だ。黄金の丘で捕れた葡萄はワインに加工されて、多くの人が買い取った。それは他の領地や国外でも大層高い評価を得て、遠くから足を運んで飲みに来るものがいれば、多少質が落ちてもいいからと商人に買い付けさせる者もいた。そういった手合いに、商人が売り歩くのだ。


 だがそれも全て、全てこの黒雲が奪った。


 冷たい風が木々を殺し、大地を殺し、川を殺し、生き物を殺した。


 十年以上という長い年月の間、この地は暗黒に閉ざされてしまった。これは神のいたずらか。はたまた裁きか。裁きであるのなら、何の罪であるというのか。


 乙女は憤慨ふんがいする。懸命に生きるこの地の人々の幸せを奪い、罪の無い人々や動物たちを苦しめるこの現状と、悪しき雲を憎む。


 女の美貌の中に、少しばかりの少女のあどけなさの色を残した乙女は今、大人になろうとしている。無謀なことを考えている。それを乗り越える術がないかを考え始めている。


 子供のような夢物語を描きながら、現実的な手段をいくら講じても変わることのなかったこの国を大人の視線で見下ろしながら、大人と子供の狭間にある乙女は自らに取れる行動を夢想して、それを実現できるかを考える。


“願いの塔”と言われるところがある。


 塔の頂に登った者はどんな願いさえ叶えられる聖なるかんむりを手に入れられるという。


 ならばあるいは、この地獄を作りたもうたのが神であるならば、この地獄を振り払うも神の如き力が必要なのではないか。


「“塔”に登れば……この国を救えるかもしれない」


 紅い唇を震わせながら零した言葉の恐ろしさに、ぶるりと、身体が震えた。


 そこは万夫不当の英雄たちですら還ること叶わぬ地。


 そこは竜をも屠る勇者たちですら命果てる場所。


 そこは信心深き信仰者ですら恐ろしさに逃げ出す場所。


 一介の乙女が踏み込むには、あまりにも力及ばぬ場所。


「アロド……」

 

 彼女が零した言の葉は清らかな風を呼び、それまで影も形も無かった白馬がどこからともなく現れ、心配そうに乙女に寄り添って鼻先を頬に当てた。


 白銀の月を糸にして編んだのではないかと見紛うほどに美しすぎる銀の体毛。山のような黄金を重ねても届き得ないほどに眩い金のたてがみに、純白の尾。


 乙女の友である白馬——アロドは、乙女の胸中を汲み取り、その身を案じている。それが乙女の心にも伝わって、温かい気持ちにさせた。かつての春のような、温かく、優しい気持ち。


 今、この国の人たちはこの気持ちをうしなっている。かつては優しい心に溢れていた人たちは、今や己が生きることさえ怪しい毎日に心が折れかけている。苦しんでいる。


 ならば、変えなければならない。誰かが変えてくれると待っていては、永遠にあの日の輝きは戻って来ない。


 立ち上がるべき時は今。


 進むべき時は今。


 あの豊穣ほうじょうの土地を取り戻し、この地に春の風を吹かせ、黄金の日差しを大地に与え、清廉せいれんなる川を流し、花と緑を取り戻さねばならぬのだ。


「お願い、アロド。私をゆるして」


 乙女は純白の手が赤く染まるほどに強く、強く、拳を握る。


 例え二度とこの地に帰ることが出来なくなったとしても、己の勇気とほまれを民に見せつけなければならぬ。アルテトの誇りは依然、変わることなく、輝いていると証明せねばならぬ。明日を生きる勇気を忘れさせてはならぬ。


 乙女は決意する。


 必ずこの地に聖冠グランド・クラウンを持ち帰り、この国を救うという願いを叶えて見せる、と。


 黒雲渦巻く果てにある、かつてそこにあった黄金の輝きを取り戻すと、乙女は剣を抜き、この地を生きる血と誇りに誓った。

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