第3話 入国

「空って何もないのですね……」

 美琴がつぶやいた。窓の外に広がるのは青い空と白い雲の絨毯だけだ。それ以外にあるのは時折雲に映る飛行機の歪んだ影だけだ。強烈な光を放つ太陽はツクヨミが消していた。それを直接送っては神経に良くない。

「緊張していないんだな」

 隣のシートで寺岡が言った。

(寺岡さんは分かってない)

 アマテラスが言った。その口調には失望の色があった。

 アマテラスは彼に理解されたいのだ。……ツクヨミはそう察して応じる。

(誰も他人のことは分からない)

 彼女の意識が寺岡に向く。

「私、緊張しています。スパイだなんて、私にできるはずがないもの」

「誰も映画のアクション俳優並みの活躍を期待してはいないよ」

「それでは何を?」

「前も言っただろう。障がい者の君になら誰もが油断する。東和の軍人にバンパイアがいるのかいないのか、それが聞き出せればいいんだよ。事実確認までできればベストだけどね」

「でも、小売業協会のイベントに軍の関係者が来るのですか?」

「軍人だって人間だよ。美味いものがあれば食べたくなるだろう」

(それでスサノオの出番というわけだ)

(ツクヨミ、どういうこと?)

(隣の好青年に訊いてみるといい)

「そのためにスサノオをお料理ロボットにしたのですか?」

「オッ、偉いね。それに気づいたか」

「え、なんとなくですけど……。スサノオの料理、そんなに美味しいですか?」

 尋ねると、彼がアハハと笑った。

「彼の料理は美味いよ。本場の東和料理だ。でも、大切なのは味じゃない。人型ロボットが器用に作ることなんだ。経営者ならスサノオを社員にしたいと思うだろう。軍人なら……」

(ああ、そういうことか)

 アマテラスのストレスが消えて唇が動く。

「兵隊にしたい……」

「そういうこと。……きっと彼らはスサノオのスペックを知りたくて、あれこれ聞いてくるだろう。そこで人間関係を作るんだ」

(私が?)

「千速さんも僕も、だよ……」

 その時、飛行機が高度を下げ始めた。間もなく着陸するというアナウンスがあった。

「……さあ、着陸だ。シートベルトを締めて」

「はい……」そう応じ、シートベルトを締める。

(ツクヨミ、寺岡さんって、本当に中央小売業協会の人ですか?)

(公安部の人間だと推測される。彼の名前も東和民主共和国専用かもしれない)

(公安部? なによ、それ?……やっぱり無理よ、私がスパイだなんて……)

(博士は、無理な仕事はさせないよ。少なくともこれまでは……)

「寺岡さんの名前も偽物の名前なのですか?」

 声を掛けると彼は目を細めた。

「いいや。僕の名前は元々のものです。卒業した学校など、調べられたらすぐに分かることだから。それに……」

 飛行機が滑走路に着地して小さく弾み、それから急激に減速した。身体が前に持っていかれ、(ひえ!)とアマテラスが悲鳴を上げた。

「それに、何ですか?」

 飛行機が駐機場に停まってから尋ねた。

「大人だからね、僕は。面倒なんだよ、大人は」

 彼は苦笑いを浮かべながら立ち上がった。美琴も立った。長い空の旅で足が痺れていた。


 空港には東和民主共和国の商工部のスタッフが多数、出迎えに出ていた。男性は黒いスーツ姿で女性はワンピース姿だ。壁面には龍珍民自党総裁の巨大な肖像画が飾られていた。つぶらな瞳は国民を監視しているようだ。

(70歳にしては、確かに若いわね)

 アマテラスが言った。

(あれは絵です。信用に足りません)

(あ、そっか)

 スパイ少女はだった。

 訪問団は団長と寺岡を先頭に彼らのもとに進んだ。

 美琴は最新式の白杖を手に最後尾を進む。それは出発前に神山からもらったもので、護身用の機能が備わっていた。ある意味、武器だ。彼女はそれを必要以上に強く握っていた。

(緊張するわ。スパイだって、ばれたりしないかしら?)

 脈拍が増えていた。

(アマテラス、80人もいるのです。自分が思うほど注目されていないと思います)

(でも、このメガネ姿だから)

(確かにSaIは目立つかもしれません)

(でしょ)

(それでもリラックスしましょう。本番は明日からです。それまでは情報収集など考えず、観光気分でいた方がいい)

(そうね。分かった。そうする)

 美琴は17歳の少女に戻り、80人の大人の中に埋没した。



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