第4話 パニック

 ぼんやりした景色と音が戻ってくる。アダプターとSaIの接続が上手くいっていないようだ。

(接続が良くない。アマテラス、SaIを掛けなおして)

(うん)

 千絢がSaIをかけなおす。アダプターとぴったり合って、明瞭な景色が戻る。

「本当に見えないんだな。ごめん。悪かった」

 しおらしい、それでいて誠意のない声がした。

「いえ、ありがとう」

(なぜ、礼を言う? 悪いのはその男の方だ)

(でも、返してくれたし……)

 その時、彼の手が千絢の右胸をわしづかみにした。

「イヤッ……」

 声がのどに詰まる。膝から力がぬけて座り込みそうになるのを青年の手が止めた。胸に強烈な痛みが走った。

「目が見えなくても、こっちは感じるんだろう?」

 暴力的な声だ。

(今度こそ救援を)

 ツクヨミはWi-Fiに接続、博士にメッセージを送った。〖スサノオの出動を乞う〗

【了解】

 それはスサノオ自身からの返信だった。

「イテッ!」

 青年が慌てて手を離した。猫のミー君が、胸をつかんだ彼の指にかみついていた。

 ――フィー!――

 ミー君が毛を逆立てる。

 青年から解放された千絢はその場に座り込んだ。

「この、バカ猫が!」

 彼が白い歯を剥いて威嚇した。――猫対人間型獣の構図。

 見たいけれどアマテラスが目を閉じているので見られない。

(アマテラス、目を開けて周囲の状況を把握して)

(怖い、ムリ……)

 彼女は弱い。……ツクヨミは落胆した。

 ――チーン――

 電子音が鳴り、エレベーターのドアが開く。

「チェッ」

 青年は赤く汚れた人差し指を押さえてエレベーターを降りた。振り返った顔を閉まる扉が消していく。

 千絢がホッと息をついた刹那、扉の間に青年の腕が差しこまれ、扉が開く。

 彼が怒りの眼を剥いて威嚇していた。

「ヒッ……」

 恐怖で彼女の背中は丸まりカメになる。頭の中に施設で受けた虐待の痛みが蘇り、息が詰まって声も出ない。(止めて、止めて、止めて……)ひたすら願う。

「バカ猫が、締めるぞ」

 彼は捨て台詞を残して消え、エレベーターはゆっくり動き出した。

 千絢がトラウマを抱えていることは知っていた。ただ、それが何に起因するものかは知らない。

(アマテラス、心配いらない。ここは施設ではない。あの男も出ていった。エレベーターは動いている)

 ツクヨミは励ました。

(止めて、止めて……)

 千絢は繰り返していた。パニックに陥ったのだ。

(止めて、止めて……)

 彼女の中心で恐怖が爆発した。

 トラウマがパニックの原因なのは間違いない。ただそれが、どんな経験なのか具体的なことは分からない。様々なデータが与えられたのだけれど、その記憶に係るデータだけは博士も提供してくれなかった。アマテラスも話してくれない。いや、それを訊くのを避けていた。訊くことによって、心の傷が深くなるかもしれないから……。

(いや、いや、いや……)

(落ち着きなさい。あなたはアマテラス。千絢ではない。ここも施設ではない)

【エレベーター前、到着】

 スサノオからメッセージが届く。

〖危機は去ったがパニックに陥っている〗

 ツクヨミはスサノオにメッセージを送り、パニックの原因を博士に問い質す必要があると考えた。

(いや、いや、いや……)

 千絢のパニックは収まらない。

 ――チーン――

 エレベーターが15階に到着して扉が開く。そこに二足歩行のロボットがいた。体長180センチメートル、重量70キログラム。細身の体型で、頭も胴体も鈍い灰色をしていた。形ばかりの目鼻、口などはついていて、アイドルのような美形だ。なのに髪はない。奇妙だ。

(いや、いや、いや……)

(アマテラス、安心しなさい。スサノオがいる。顔をあげて)

(ウッ……、スサノオ?)

 パニックは治まった。が、まだ理性は固まっていた。

(頭をあげなさい)

 ツクヨミの指示に従い、千絢が顔を上げた。そうして目に映ったのは灰色の金属製の脚、ボディ、そして灰色の顔。

『お帰りなさい。千絢さん。落ち着きましたか?』

 ぽっかり開いた口から声がした。中性的な声が流暢に話す。

「……ごめんなさい」

(アマテラス、謝る必要はありません)

『ツクヨミから連絡があった。事態は収束したと』

「……あ、うん。そうです」

 彼女は再びうなだれた。

 エレベーターのドアが閉まりかかる。スサノオが前進して、それを止めた。

(アマテラス、立って。エレベーターを降りないと他の利用者の邪魔になります。SaIの充電も必要です)

(分かってる)

 彼女は応じたけれど、身体に力が入らず思うように動けないでいた。腰が抜ける、という状態のようだ。

(さあ、アマテラス。立って)

 私が運動神経もコントロールできたなら、こんなことはないのに。……ツクヨミはアマテラスが羨ましかった。彼女には自分の肉体がある。

『それがミー君かな?』

 スサノオは、千絢が抱きしめていたトラ猫を金属製の指でさした。

「はい」

 彼女がミー君を差し出す。

 スサノオは受け取らず、千絢の腕をつかんで立たせた。

『自分の手で博士へ』

「はい。そうします。スサノオ、ありがとう」

 エレベーターを降り、廊下を奥に向かって歩いた。突き当りの非常階段を上ると屋上に出る。



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