ファイアーバック

@ryogi_q

第1話:灰色のペン先

――線はまだ残っていた。でも、それは誰のものだったのか。


灰崎湊(はいざき・みなと)は、ペン先に手を添えたまま動けずにいた。

線を引く――それだけの動作が、こんなにも遠いものになるとは思わなかった。


かつては、朝起きて、指先が勝手にキャラの頬を描き始めていた。

昼には背景ラフを出力して、夜には塗り作業を進めながらコーヒーを飲む。

そんな当たり前が、いまでは遠い記憶になっている。


手が止まってから、どれくらい経っただろう。

半年か。一年か。

いや、もしかすると、“止まっている”ことすら、自覚するのが遅すぎたのかもしれない。


窓の外からは、子供たちの笑い声が聞こえる。

持っているのは“描かせるアプリ”。

AIと共同作業して、一瞬でキャラクターが生成される。

目を輝かせて「できた!」と叫ぶ声が、彼には呪詛のように聞こえた。


「できた」のに、「誰も描いてない」世界。


それがこの社会だ。


「どうせ描けるんでしょ、AIなら」

「もう線なんて、学習すれば誰のでも引ける」

「でも、結局“個性”って幻だったんじゃない?」


ネットでそんな言葉を目にするたび、湊は指を折りたくなる衝動を抱えた。

だけど、それは届かない怒りだった。

自分の中にしか燃えていない、**“測られなかった炎”**だった。


一度だけ、抗議の手紙を書いたことがある。


「あなたの会社のAIモデルに、私の作品が無断で学習されています。

 その線は、私が魂を込めて描いたものです。取り下げてください」


返ってきたのは、定型文だった。


「弊社のモデルは公的に収集可能な画像のみを用いて構築されております。

個別の著作権には対応しておりません。」


魂を込めた線も、パラメータに溶けたら“誰のものでもなくなる”。

それがAI時代の倫理。

それが、湊が“人間をやめさせられた日”だった。


机の引き出しには、過去の原画が入っている。

雑誌に載った仕事、SNSでバズったキャラ、自分で描いたはずの誰か。


だが、もう誰にも“おかえり”とは言われない。

描くことをやめた者に、社会は二度と視線を返さない。


「……なあ、あの線、まだ残ってると思うか?」


独り言だった。

ペンは応えない。

けれど、床の片隅に転がっていた一枚の紙が、風にめくれた。


それは、かつて彼が描いた“無名のキャラクター”だった。

名前も与えられず、設定資料にも載らなかった脇役。

だが、不思議なことに――その瞳の奥には、今の湊よりも、まだ“生きている何か”があった。


湊は立ち上がり、壁に貼られたチラシを見た。


《AI × アニメーション展 ― 未来の作画へ》


その下に並ぶロゴのひとつに、懐かしい名があった。


SYOアニメーション。


かつて彼が、2ヶ月だけ所属していた会社。

名前も与えられず、キャラデザ案も不採用になった日々。

あの場所が今、“未来の作画”と銘打って、AIで再起している。


湊は笑った。


「じゃあ、俺は“過去の作画”ってわけだな」


鞄の中には、準備してあった金属缶がある。

成分は、問題なく揃っている。

火をつけることは、技術じゃない。意志だ。


ただ、それを“語り”に変える覚悟が、まだ胸の中で燃え切らない。


彼はまだ――語りたかったのかもしれない。


だが、もう絵は描けない。

だから、火で描く。

語られなかった線を、語られなかったまま、世界に投げ返す。


それが、湊の“ファイアーバック”だった。

――それは俺の線だ。でも、もう誰のものでもなかった。


SNSをもう一度開くのに、湊は指先に力を込めた。

アカウントは捨てた。炎上して、名前を嘲笑され、絵を晒されて、終わった。


けれど、見るだけなら誰でもできる。

見るだけなら、傷はつかない。

――そう思っていた。


「すげえ、今度のAIマジで進化してる」

「手のライン完璧じゃん。もう人間いらんって」

「このポーズ、昔の商業イラストに似てるよな。誰だっけ? なんとか湊?」

「懐かし〜。いたなそんな絵師(笑)」

「けどAIのが全然うまくね?」


胸が締めつけられる。

けど、そこにいた“なんとか湊”は、たしかに昔の自分の線を背負っていた。


違う。

違わない。

これは俺の線だ。


ペン入れの細さ、頬の陰の入り方、指の折れ方、靴のアウトライン。

意識せず描いていた“癖”が、まるで癖じゃなかったように再構成されている。


俺の癖を、誰かが再定義して、俺以外の誰かのものにしていた。


そして、決定的な一枚が湊の視界に飛び込んだ。


それは、少女が描いた絵だった。

どこかで見た――いや、彼女の“描き方”を、知っていた。


もう名前は思い出せない。

ただ、かつてファンレターを送り続けてきた少女。

「あなたの絵を見て、絵を描くようになりました」

そう言って、小さな紙に描かれた模写とともに届いた手紙。


デジタルじゃない。アナログだった。

震えた線。薄すぎる下描き。

でも、たしかにその中には、**彼の線をなぞろうとした小さな“憧れ”**があった。


そしてその彼女が――今、そのAIの絵の学習元のひとつになっていた。


絵の端に、こう書かれていた。


「この作品は、SYNIMAGE社の学習モデルにより生成された絵に、多大な影響を与えました」


湊は、頭を殴られたような気分だった。


俺じゃない。

あの子が、俺の“代わり”に、AIの中に組み込まれている。


彼女の名前が思い出せないことが、湊をさらに苦しめた。

誰かの“心”を、たしかに動かしたはずなのに、

それを受け止めていなかったのは、他でもない、自分自身だったのかもしれない。


でも今さら、語り合うことはできない。

彼女は死んだ。

数年前、ネットにだけ小さく出た記事――「自殺した元絵師志望の女子高生」

年齢と地域が一致していた。投稿は止まり、アカウントは削除されていた。


語られなかった者は、声にならない。

語られなかった絵は、データになる。

魂も、意志も、憧れも、最終的には「パラメータ」と呼ばれる。


そして、それを使って描かれた線が――

「人間より上手い」と言われている。


湊は震える指で、その画像を印刷した。

一枚一枚、壁に貼っていく。


自分の線が、誰かの線になり、誰でもない線になっていく様子を、

目に見える形にするために。


そして彼は、火を思い出す。


この線は、消せない。

だが、燃やすことはできる。

そして燃やした後に、誰かがそれを語るかもしれない。


それだけが、

描けなかった者に残された“描くこと”だった。

壁に、印刷した画像を並べていく。

手が震える。怒りではない。後悔でもない。

これは、葬送だった。


貼られた一枚一枚のAIイラストは、美しかった。

正確だった。整っていた。破綻がなかった。

“完璧な劣化コピー”としてではなく、

“誰かの断片を呑み込んだ怪物”として並んでいた。


一番左に貼ったのは、自分が描いた少女の模写。

それにそっくりなAIの出力が、中央に配置された。


その右側に――少女の、最後の絵。

SNSに上がった、彼女の投稿のスクリーンショット。


「うまく描けなくてごめんなさい。

だけど、誰かの線に触れられて、嬉しかったんです。」


いいね:12

コメント:0


湊は机に座り、両手で顔を覆った。


俺は、

「よく描けてるな」って、

たった一言、

書けばよかっただけなんだ。


あの頃、メッセージは届いていた。

「あなたの線に救われました」

「私も描いてみたい」

「私の線、いつか見てほしいです」


そのすべてに、「返信しない」という選択を続けていた。

理由は簡単だった。

「忙しかったから」「怖かったから」「大人だったから」


でも、今思えば――

それは“魂の贈与”を、受け取る資格がないと思っていたからだった。


少女は、湊の線を受け取った。

そして、自分の線を返そうとした。

だが、それは投げ返されなかった。


その線は、サーバーに送られ、モデルに学習され、

やがて**「誰のものでもない線」として美術館に飾られる**。


湊は気づいていた。

彼女が死んだ理由を。

社会ではない。時代でもない。AIでもない。


「見てほしい」と描いた線が、“見られなかった”からだ。


絵とは、祈りだ。

だから見られなければ、

祈りは呪いに変わる。


そして呪いは、

やがて火になる。


湊は、棚の奥からスケッチブックを引っ張り出した。

もう何年も開いていなかった。

中には、彼女の絵が一枚だけ挟まれていた。


「あなたの線に、私は救われました。

でも、この線が届かなかったら、私はきっといなくなります」


日付は、

彼女が命を絶った、三日前だった。


火は、罪ではない。

火は、拒絶された者の言葉だ。

湊にとって、**描くことができなかった魂たちへの“返信”**だった。


描けなかった者。

描かれなかった者。

誰にも認識されなかった線たち。

アルゴリズムに呑まれて消えた祈り。


彼は今、その祈りを燃やすことで――

“語られなかった者たち”を、語ろうとしている。


祈りとしての火。

その名は――ファイアーバック。

SYOアニメーションのロビーは、静かに光っていた。

天井から下がる無数のパネルディスプレイに、AIが生成した美少女キャラたちが笑っている。


どの子も“可愛い”。

どの子も“上手い”。

でも――誰も、“誰かじゃない”。


「ようこそ、未来の作画へ」

受付のロボットボイスが、乾いた敬礼を送る。


湊は首をすくめ、鞄を抱えて展示会の奥へ進む。

警備はない。AIセキュリティが導入されている。

でも、“異常な感情”は検知されない。


なぜなら湊にはもう、

“感情を記録するだけの希望”すら残っていなかったからだ。


展示の中心には、「AIメモリアル・ラインズ」というコーナーがあった。

生成モデルに強く影響を与えた“過去作”がリスペクトとしてパネルに紹介されている。


そこに、彼女の線があった。


「旧SNSアカウント“komayu_dayo”により2019年投稿。

AI学習モデルGEN-5Aに影響を与えたファンアートのひとつ。」


少女の名前は、ない。

作品名も、ない。

あるのは、IDと日付と、「貢献した」という抽象的な評価だけ。


湊は、笑った。


「墓じゃねえか、これ」


描いた人間はもういない。

絵も名前も、記憶も、称賛もない。

あるのは、“AIを育てた素材”という名の骨だけだ。


それを囲むように、何人かの若者たちがスマホを向けていた。

「へ〜これってなんか昔の絵師のやつだよね?」

「うちの教授これ学習元の一つって言ってた」

「線ガタガタだけど逆にエモくね?」

「いやAIのが修正してくれるし。まあ供養ってことで(笑)」


供養、だと?


湊の右手が、無意識に鞄に触れた。

だが、まだ早い。

彼は、語り残されたものをすべて見なければならなかった。


会場の最奥に、「AI共創原画」のコーナーがあった。


そこに、**“自分の線を真似て作られたAIキャラ”**が、アニメの設定資料として展示されていた。

名前は違う。髪型も色も違う。

でもその立ちポーズ、手の形、口角の歪み方――


それはまさに、湊が10年前に捨てた“主人公案”だった。


「――ああ、いたな。

 俺の描いた“最初で最後の主役”。

 けど、あの子はどこにも行けなかったんだ。

 それをお前らが、AIの名前で連れ出してくれたんだな。

 ありがとうよ。……クソが。」


湊は、ゆっくりと会場を出る。

ガソリンの入った鞄を、握りしめながら。


夜の風が、彼の背中を撫でる。


「これが俺の“描けなかった遺書”だ。


この線は、誰のものでもない。


だから、燃えて消えてくれ。」


彼は、建物に戻る。

非常階段から上がり、給排気口からフロアに侵入する。

鞄を開け、静かに液体を撒く。


何も叫ばない。

何も書き残さない。

誰にも気づかれず、最も静かに、最も確かに“言葉にならなかった祈り”が仕込まれていく。


火は、まだ点いていない。

だが、すでにこの物語の“意味”には火がついていた。


灰崎湊は、炎の「絵」を描いていた。


展示会の平面図。

排煙口と給気口の位置。

消防設備の配置。

来場予定者の導線。


すべてが、彼にとっての“構図”だった。


過去、彼がアニメの1カットに込めた精密な構図が、

「わかりにくい」「引きが弱い」とボツにされたのを思い出す。


今回の“構図”には、誰も口を出さない。

誰も彼にダメ出しをしない。

それだけが、絵を描くことの“自由”だとしたら――皮肉なものだ。


彼は床に這いつくばりながら、ガソリンの通り道を細かく線状に撒いた。


線は、かつての自分の得意な武器だった。

語る前に、語っていた。

声を持たない少女たちが、線に命を託していた。


今この瞬間、彼は、

その“線”を――火の導火線として再び引いている。


なぜ描けなくなったのか。


思えば、あれは“描いても誰にも見られなくなった”と感じたときだった。


SNSは“拡散”であって、“理解”じゃない。

トレンド入りしても、次の日には忘れられる。

誰かの心を、確かに変えた、という実感が得られないまま、

彼の線は、“描く意味”を失っていった。


「なら、これが最後の原画だ」


彼は、ライターを取り出す。

だが、火はまだつけない。

この“絵”を完成させるには、あと一線、足りないものがあった。


展示室の奥に、一枚の絵が貼られていた。


AI生成モデルに学習された中で、唯一“作者不明”とされている作品。

それは、あの少女の線だった。


彼は震えながらその前に立った。


名札はない。

でも、その震えたラフ線。下描きの修正跡。光源の読み間違い。

それは、紛れもなく――

「俺に向けて描かれた“はじめての贈り物”」だった。


「ありがとう。


……ごめん。


……でも、見たよ。」


湊は静かに、その絵を額ごと取り外し、

自分のコートの中にしまった。


火に包むことはしない。

燃やすのは、“語られなかった社会”そのものだ。


火は準備できた。

だが彼の顔は、どこか晴れていた。


「これは罠じゃない。


……いや、そうか。

これは“線”だった。


火という“線”で描く、

お前らへの“メッセージ”だ。」


彼は、ライターに火を灯した。


線に火が走る。

まるで誰かの絵に沿うように、炎が部屋をなぞっていく。


火災報知器は作動する。

AIによる非常通報が上がる。

警備ロボットが音声で指示を出す。


だが、湊は動かない。


これは、彼の“原画”なのだ。


動く理由がなかった。

描き終えた絵は、もうどこにも行かない。


その瞬間、

ガラスに映る自分の顔が、笑っているのが見えた。


はじめて、絵が完成した気がした。

ニュースは、彼の名前を三文字に略して報道した。


「元アニメーターの灰崎湊容疑者(38)、

 展示会場に侵入し放火。14名死亡、31名重軽傷。

 展示されていた作品の多くが焼失。

 “生成AIを用いたアートに強い嫌悪感”と供述。」


SNSでは、すぐに彼の過去が発掘される。

十年前の炎上発言。

女性ファンへの無視。

同人即売会での軽率な発言。

そして、描かれたキャラの「時代遅れな顔」。


すべてが「AI時代に適応できなかった古い人間」の証拠として糾弾された。


「また反AIかよ」

「“魂”とか言ってた世代ね」

「全焼で草」

「アニメ業界にいたことあるの?ほんとに?」

「“負け犬の最期の咆哮”ってタグに入れたった」


テレビのコメンテーターは、

「テクノロジーに適応できない者が社会にどう向き合うか、教育が必要ですね」と語った。

犯罪心理学者は、

「典型的なサイコパス傾向。孤立と妄想のコンボです」と断じた。

国会では、AI展示施設の警備強化が可決された。


だれも、“なぜ彼は描けなかったのか”を語らなかった。


そして、ある一人の少女の絵が報道された。

焼け残ったスケッチの断片。

彼が火を放つ前に、コートに包んだ、

少女が湊に向けて描いた“最初の絵”だった。


誰かがそれを拾い、SNSに投稿した。


「この線、私があの人の絵を見て描いたのと似てる」

「あの子、昔この人のファンだったんじゃない?」

「ってかこのキャラ、ちょっと前のAIモデルの元ネタだよな」

「なのに作者不明扱いだったの……?」


コメント欄は、すぐに炎上した。

「いや、だからって人殺しはダメでしょ」

「加害者を美化するな」

「絵で救われたとかいう詩人多すぎ」

「燃やされたくなかったらちゃんと描いとけよ」


少女の名前も、線も、絵も、

再び“誰でもないもの”として消えていった。


語られなかった者は、今も語られない。

描かれなかった絵は、今も“見なかったこと”にされる。


炎のなかで、

湊が残した最後の独白は、ニュースに一切報じられなかった。


それは、

**「誰かの線に“ありがとう”と言えなかった男の、贖罪の原画」**だった。


だが、ひとりだけ、その言葉を記憶していた者がいる。


病院に搬送された湊の火傷処置にあたった看護師が、

彼の意識が薄れる中で、ふとつぶやいた言葉を聞いたという。


「俺は、あの子の“ありがとう”を見なかった。


だから、火で描くしかなかったんだ。


……お前らが見てくれるといいな、この線だけは。」

私がそこにいたのは、ただの偶然だった。


展示会のチケットは、フォロー&リツイートキャンペーンで当たった。

AIイラストに特別興味があったわけでもない。

でも、“未来の作画”って言葉には、ちょっと胸が騒いだ。


中学のとき、絵を描いていた。

ネットで見た誰かのイラストに、ただ、憧れただけだった。

でも上手くなれなかった。

だから高校に入ってからは、描かなくなった。


展示会の最後の方、煙が上がったとき、

真っ先に私が思ったのは――「AIの演出か?」だった。


でもすぐに、匂いが違うとわかった。

燃えていたのは、木でもプラスチックでもなかった。


それは、何か“もっと大事なもの”の匂いがした。


非常口に向かって走る途中、

壁に貼られていた一枚の絵が、ふと目に入った。


古くて、震えた線。

背景もなくて、正直、上手くはなかった。

でも、その瞳だけが――今まで見たどんな絵よりも、“見ていた”。


炎が近づいてきても、私はその絵から目を離せなかった。


「私を見て」って言われてる気がした。


逃げたあと、あの絵は燃えたと聞いた。

その絵が誰のものだったのか、ネットでは議論されていた。

けど誰も「この絵に救われた」とは言わなかった。

「作者不詳」「未熟」「燃えたのがちょうどよかった」

そんな言葉ばかりが並んでいた。


私は夜、ノートに線を引いた。

中学のときに使っていた、硬めの鉛筆。

それを握るのは、何年ぶりだっただろう。


上手くなんて描けなかった。

でも、あの絵に出会った瞬間だけは、

“線に心が宿る”ってことを、信じてみたくなった。


私は知らない。

火をつけた人のことも、死んだ人たちの名前も。

でも、たしかに誰かが「何かを描こうとした」ことだけは、覚えている。


だから、私は描く。

誰にも見せなくていい。

名前も要らない。

でも、もし誰かがこの線を見て――

「そこに誰かがいた」と思ってくれるなら、それでいい。


火は、語りだった。


たった一度でも“描けなかった者”のために。

たった一人でも、“語られなかった者”のために。

火が線になり、線が誰かの“導火線”になるなら――


私は、この線を引こう。


カチリ、と音が鳴った。


あまりにも小さな音だった。

でもその音は、世界の記録の中で最も雄弁な一秒だった。


湊の右手の中で、ライターの火が、

薄く揺れているガソリンの導火線に触れた。


シュウ……という音とともに、

オレンジの線が床を走った。


それは、炎ではなかった。

描線だった。


ガソリンは、床を這い、壁を這い、作品を這った。

そして空間全体が一枚のキャンバスになる。


誰も彼を止めなかった。

誰も彼を見ていなかった。

彼の絵は、最初から“見られない”前提で描かれたものだった。


火災報知器が悲鳴のような音を上げる。

だが、誰の名も呼ばない。

ただ、「火事です」とだけ、無機質に繰り返す。


彼の瞳には、絵が見えていた。


燃える展示台。

崩れ落ちる液晶パネル。

壁を照らす赤い反射。


そこに、かつて描かれなかったすべての“誰か”が立っていた。


売れなかったイラストレーター


描くことを諦めた少女


アカウントを消した絵師


魂を学習されて消えた線


“俺”が火を点けたのではない。

“彼ら”が、俺の手を通して、この絵を描いたんだ。


炎が天井に達し、

ガラスが砕け、

展示されていたAIキャラクターたちの顔が、

燃えて崩れ落ちる。


だが湊には、それが祈るように目を閉じた顔に見えた。


「これで……いいんだろ」


誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。

でもその声は、たしかに、

燃え盛る炎の奥で誰かがうなずいたような気がした。


足元に落ちていた、一枚の絵。

焼け焦げの中に、かすかに残るラフ線。


それは――

少女が、彼に宛てて描いた、最後のファンアートだった。


湊はそれを手に取った。

紙は黒く変色し、炭のように脆かった。


それでも、

その線だけは、

まだ震えながらも生きていた。


火が、彼の服に移る。

肩から、腕へ。

皮膚が焼ける匂い。

だが、痛みはなかった。


「描くって、こういうことだったよな……」


最後に見た光景は、

“描かれなかった者たち”が、火の中に微笑んでいる幻だった。


その瞬間、天井が落ちた。

炎が、湊を呑み込んだ。

そして世界は――彼を“犯罪者”として記録し始めた。

【精神鑑定報告書 抄訳】

被告:灰崎 湊(38)

事件:令和20年、SYOアニメーションAI原画展放火事件

鑑定期間:同年6月1日~8月15日

担当精神科医:名和崎 慶一(犯罪心理学会認定)


【診断名】

・強迫性パーソナリティ障害

・被害妄想性傾向(パラノイド型)

・孤立型社会的認知回避(長期的社会不適応)


【所見】

被告は一貫して自己を「描かれなかった者の代表」と位置づけているが、

その内実は過去の成功体験への執着および承認不全による自己肥大化された幻想構造である。

AI技術に対する敵意は、創作能力の低下と職業的敗北に対する投影反応とみられる。


【行動分析】

火を使用した犯行は計画的かつ象徴的であり、

自身がかつて“描く側”にいたという幻想を炎によって再演しようとする儀式性が見られる。


【総合判断】

本件の放火行為は、社会適応を拒否した病的ナルシシズムの末路であり、

被告における「絵を描く行為」と「社会への報復」は、

自己同一性の喪失を経た末の最終的な自己演出と捉えられる。


所見末尾の追記には、こう記されていた。


「このような症例が、今後の“技術社会における人格崩壊モデル”の参考となるだろう」


「もはや創作とは、精神衛生の手段ではない。未適応者の“最後の防壁”になってしまっている。」


報道は、この報告書の要点を抽出して伝えた。


「AIに敗れた元イラストレーター、狂信的な妄想で14人を殺す」

「“描けない者”が放火で語った“妄執”」

「魂という幻想が、社会を焼いた」


だが、誰も疑問に思わなかった。


本当にそれだけだったのか?

本当に彼は“狂っていた”のか?

火の中に、

“語りたかったのに、語られなかった”ものは、なかったのか?


心理学は彼を分類した。

報道は彼を見出しにした。

SNSは彼を記号にした。

正義は彼を断罪した。


だが、誰一人として“彼の絵”を見ようとはしなかった。

【個人的記録】

鑑定協力者:宗像 照一(むなかた しょういち)

立場:精神分析家(ラカン派)

記録媒体:非公式手記(公開不可)


「私は、この被告の精神構造について“正常”も“異常”も断じる立場にない。

 むしろ、この男は、語ることに失敗したすべての者たちの“象徴”であるように思えてならない。」


彼は、“絵”を描けなくなった。

だが、それは技術の衰えではない。

“語ることの場所”を失ったからだ。


彼の線は、もともと“誰かに語りかけるための線”だった。

少女に、フォロワーに、かつての仲間に、そして――社会に。


だがAIの台頭と、誰も聞かない現代の声の洪水の中で、

彼の語りは一つずつ象徴界からはじき出されていった。


ラカン風に言えば、

湊は「ノン・デュ・ペール(父の名)」を持てなかった。


つまり、“語られる言葉としての自己”を持てなかった。


だから彼は、火という「非言語の現実界」を選んだ。

火は、言葉を必要としない。

火は、“すべてを見せる”からだ。


だが、彼は最期の瞬間に語っていた。


「俺は、あの子の“ありがとう”を見なかった。

 だから、火で描くしかなかったんだ。」


これは、単なる懺悔ではない。

これは、“見逃された声たちの代表者としての自己定義”だった。


私は、この言葉を記録しておく。

おそらく報道されることはないだろう。

精神鑑定書には、決して載らないだろう。


だが、この男の中には、社会に見捨てられた“象徴未満の声”が確かに宿っていた。


私は彼を擁護するつもりはない。

14人を焼いた罪は消えない。

だが私は、それでも語る。


「この男は“線”を描こうとしていた。

それが誰にも読まれなかったということだけが、罪よりも深く、残酷だった。」


被告・灰崎湊が、火を線として描いたその夜――

彼の中にはまだ、“語りたい欲望”が存在していた。


その事実を、私は記録として残す。

誰にも読まれなくても構わない。

せめて“描かれたかった彼の無意識”が、どこかに保存されることを願って。

事件の跡地は、いまや真新しいフェンスで囲われている。


防犯のためでもあるが、

多くは“これ以上誰かに物語を語らせないための壁”でもあった。


風に揺れる黄色いテープの影で、

少女――あの展示会で生き残った彼女は、ふたたび跡地を訪れていた。


焼け跡には、何もない。

残っていたのは瓦礫と、焦げたコンクリートと、雨で剥がれたポスターの切れ端。


けれど、その隅に――

一枚の絵が、地面にうつ伏せに張り付いていた。


彼女はゆっくりとしゃがみ、絵を拾い上げる。


紙は黒く焦げ、四辺は崩れていた。

それでも、中央に残された細く震えた線だけが、不思議と鮮明だった。


それは、彼女が展示会で見た“作者不明の原画”。

炎に焼かれ、忘れられ、放火犯の象徴として糾弾された作品の一部――

“語られなかった者”の最後の一枚。


絵の下には、小さな紙切れが貼りついていた。

誰が書いたのかはわからない。

でも、そこには手書きの文字があった。


「この線を、AIは完璧に再現した。

でも“この絵が誰かの人生を変えたこと”までは、再現できない。」


彼女は、その紙を手のひらに乗せ、しばらく風を受けながら立ち尽くしていた。

夕暮れが瓦礫を照らし、絵の線を金色に染める。


これは誰の絵だったのだろう?


答えはない。

ネットにも残っていない。

ニュースも語らない。


だが、それでも彼女は思う。


「この線を引いた誰かは、

 少なくとも“ここにいた”」


帰り際、彼女はフェンスの外に花を置いた。

誰のための花でもない。

ただ――名前のない絵の、墓標のような場所に。


その夜、彼女は久しぶりに鉛筆を握った。

震える手で、何も見ずに線を引いた。


上手くなくてもいい。

誰にも見せなくていい。

でも、それが“誰かの線の続きを引くこと”になるかもしれない。


そう信じるだけの余白が、

たしかに、この世界にはまだ残っていた。

彼の名前は、今では検索してもほとんど出てこない。

裁判記録も削除された。

メディアは飽きた。

世間は忘れた。


だが、たしかに“誰かがそこにいた”という熱だけが、どこかに残っている。


名前がなくても。

記録に残らなくても。

語られなくても。

それでも、火は燃えた。

絵にならなかった絵として。

語りにならなかった語りとして。

誰にも見られなかったけれど、“誰かの中でだけ確かに灯った火”として。


少女は、今も描き続けている。

誰にも見せない小さなノートに、

今日もたった一本の線を引く。


その線は、どこかに似ている。

湊の線でもない。少女の線でもない。

でも、あの夜の火の中で見えた“震える祈り”のような線。


ある夜、彼女はふと思った。

あの人は、もしかしたらずっと間違っていたのかもしれない。

でも、“語られなかった者”の代わりに炎で語ろうとした気持ちは――本物だった。


だから私は、“線”で返す。


あなたが“火”で語ったなら、

私はそれを、“線”で受け取ってみたいと思った。


これが、私のファイアーバック。


どこにも載らない物語。

誰にも読まれない祈り。

でも、それでも引かれた一本の線が、

今この世界に、たしかに“描かれた”。


――完

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