ピアノの旋律に恋を紡いで

天音おとは

第1章「白雪彩音の始まりの日」

「完璧じゃなきゃ、私は私でいられないの。」

 そう自分に言い聞かせながら、白雪彩音は眩しい春の光に目を細めた。

 今日から高校生活が始まる。

 誰よりも優等生でいなくちゃ。誰よりも堂々としていなくちゃ。

 じゃないと、すぐに「本当の私」がバレてしまいそうで――怖かった。


 スマホのアラームが鳴り響く。

 まどろみから目を開けた瞬間、白い天井が視界に広がる。

 夢の余韻を瞬きで追い払って、私はゆっくりと身を起こした。

 カーテン越しの朝の光が、部屋を淡く染めている。

 私はカーテンを勢いよく開けて、大きく背伸びをした。

「今日も、完璧でいなきゃ。じゃないと、不安になるから」

 そう呟いて、自分を奮い立たせるように一階へ降りていく――

「おはよう。良い日になるといいね」

 そう言って、家族に挨拶をする。

 ご飯と味噌汁、それにおかずを器に盛り付けて、テーブルに向かった。

 手を合わせて「いただきます」と言い、朝食を口に運びながらテレビをつける。

 画面には、新学期の話題や春のニュースがどれも明るくて、ちょっとだけ気が緩んだ。

『このコンテンツ、面白い』

 自然と笑みがこぼれる。

 やがて食べ終わり、「ごちそうさまでした」と手を合わせて、食器を片づける。


 今日から私は高校生。

 新しい制服に袖を通すのは、なんだか少し照れくさい。

 鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。そこに映るのは――少し背伸びした私。

 一五歳の白雪彩音。中学では生徒会長を務めていて、ピアノと歌が得意。

「白雪姫みたい」とクラスメイトに呼ばれていた。

 誰もが私を“完璧な優等生”だと信じている。でも――。

 本当の私は、感情をうまく扱えない。

 独りぼっちの夜もあった。

 鏡の中の自分が、まるで他人みたいに感じることもある。

 それでも、私は笑う。

 完璧でいることが、私にとっての防衛だったから。

「いってきます」

 桜が舞う並木道。

 春の光が私の髪を優しく照らす。

 すれ違う人に笑顔で挨拶を返す。

「ごきげんよう……いい天気ね」

 誰にも見せない、本当の気持ち。

 それが私の日常。


 ――でも、その日は、少しだけ違っていた。

 風に揺れる髪。肩にひらりと舞い降りる花びら。

 ふと前を見ると、小さな背中が震えていた。

 クラス発表の掲示板の前。新入生の女の子が、緊張のあまり立ち尽くしていた。

 気がついたら、私はその子に声をかけていた。

「ごきげんよう。あなた、大丈夫?」

 彼女は、驚いたように顔を上げた。

「ご、ごきげんよう……すみません……緊張しすぎて、新しい環境も、新しい出会いも、ちょっと怖くなってしまって……」

「……分かるわ。その気持ち」

 私は優しく微笑んだ。

「私も、実は今すごく緊張してる。初めての場所って、どうしても不安になるものよ。でも、大丈夫。あなたは一人じゃない。私がついてるから」

 私の言葉に、彼女の顔が少しずつほころんでいく。

「……ありがとうございます。なんだか、大丈夫な気がしてきました」

「よかった。じゃあ、高校生活、思いっきり楽しんでね」

「はい!」

 彼女の背中を見送りながら、私はふと空を見上げた。

「私も、行こう。新しい出会いが、私にどんなことをもたらしてくれるのか――ちょっとだけ、期待してもいいよね」

 そう思いながら、私は教室へと歩き出した。


 教室の扉を開けると、そこには生徒たちが席について担任を待っていた。スマホをいじっていたり、本を読んでいる人が多かったりと、生徒たちの行動はまさに色とりどりだった。

 教室で自分の席を見つけると、彩音はそっと腰を下ろした。

 スマホを取り出し、鏡代わりにして前髪を整える。画面に映る自分の顔には、隠しきれない緊張の色が浮かんでいた。

 チャイムが鳴り、担任の先生が教室に入ってくると、教室には一瞬の静けさが訪れた。

「ごきげんよう。このあと、入学式が行われます。廊下に出て、出席番号順に並んでください」

 先生の言葉に従い、生徒たちは淡々と廊下に整列し、綺麗な一列ができあがった。

 先生は彩音のそばに歩み寄り、微笑みながら声をかけた。

「白雪さん、新入生代表の挨拶、よろしくね」

 ――そう、彩音は入試でトップの成績を収めたことで、新入生代表に選ばれていた。

 春休みの間、何度も文章を練り、模擬発表を繰り返してきた。すべては、この一瞬のために。

 整列したまま、生徒たちはホールへ移動する。やがて入学式が始まり、開会の言葉、校長先生の挨拶、来賓紹介と、式次第が粛々と進んでいった。

 そして、ついにその時が訪れる。

「新入生代表の挨拶。新入生代表、白雪彩音」

「はい!」

 はっきりとした声がホールに響いた。胸の奥にわずかな震えを抱えながらも、自分に言い聞かせる。『――ただ挨拶をするだけだ』と。

 彩音は壇上へと歩を進め、堂々と、そして落ち着いて言葉を紡いでいった。

 一度もつっかえることなく、最後の一文までやり遂げる。拍手の中、彩音はやりきった安堵を胸に、自席へと静かに戻った。

 その後、校歌斉唱を行い生徒たちは元気よく歌い上げた。校歌は先輩たちが歌いあげて、新入生は静かに聞いていた。

 閉会の言葉とともに、入学式は幕を閉じる。

 張りつめていた空気がふっと解けて、ざわざわとしたざらつきが教室へ戻ってくる。

 しばらくして教室に戻ると、ざわめきが広がっていた。中には静まり返っている教室もあるようだった。

 担任の先生が入ってくると、手を軽く二度叩き、自己紹介を始めた。

「改めまして。ごきげんよう。今日からこのクラスの担任になりました、『祐天寺美鈴』です。これから一年間、よろしくお願いします」

 拍手が湧き上がり、空気が少し和らぐ。

「では、明日以降の予定を配ります。必ず目を通してください」

 配られたプリントには、細かく予定が記載されていた。読みやすい内容にほっとした生徒も多かったようだ。

 少しざわついた教室で、先生が再び手を鳴らす。

「静かに。先生が話しているときは、しっかり耳を傾ける。質問は最後に受け付けます」

 落ち着いた口調でそう言うと、生徒たちは静かに耳を傾けた。

 質疑応答の時間も設けられたが、手を挙げる生徒はわずかだった。

 やがて、先生が締めの挨拶を告げる。

「今日はここまでです。このあとはクラス写真を撮影しますので、荷物を持って再びホールへ移動してください。撮影が終わったら解散です。では、みなさん、さようなら」

 面倒くさそうにホールへ向かう生徒たちの中で、彩音の姿は違っていた。

 少しも不満そうな素振りを見せず、姿勢を崩さずに静かに歩いていく。まるで、その場所に馴染んでいるかのように。

 ホールに入ると、さっきまでの賑やかさは消え、わずかな熱気と独特なにおいだけが残っていた。

 彩音は、あの入学式の煌めきがすでに遠く感じることに、少しだけ不思議な気持ちを覚えた。

 やがて、彼女たちのクラスの撮影順が回ってくる。

「ごきげんよう。カメラマンの『桐谷若葉』です。これから写真撮影を行います。背の低い人は前へ、高い人は後ろへお願いします」

 カメラマンの指示に従い、生徒たちは恥じらいながらも二列に並んだ。

「もう少し寄ってください。それじゃあ、撮りますよー」

 カウントダウンの後、シャッター音がホールに響く。

「ありがとうございました」

 カメラマンの声に、生徒たちも自然と頭を下げて応えた。

 撮影が終わると、先生が彩音に声をかけた。

「白雪さん。この後、少しだけ職員室に来てもらえる?」

「はい」

 返事とともに、彩音はまっすぐに立ち上がり、先生とともに歩き出す。

 職員室に入ると、彩音は少し戸惑いながら尋ねた。

「えっと……私に、何の用事ですか?」

 先生は柔らかく笑って言った。

「白雪さん、あなたの挨拶、とても素晴らしかったわ。それでね、来週の新入生オリエンテーションで、新入生代表として、何か一つ披露してほしいの」

「え……私が、ですか?」

 思わず声が上ずった。頭の中が真っ白になる。こんな大役、自分に務まるのだろうか――。

「でも、それって……先輩方が披露する場じゃないんですか? 私みたいな新入生が出ていいんでしょうか?」

 不安げな目を向ける彩音に、先生はしっかりと頷いた。

「いいのよ。披露する内容は、あなたの好きなことで構わないわ。校長先生も了承してるし、何よりあなたは、この学校が誇れる生徒。自信を持って」

 彩音は一度、深く息を吸ってから、ゆっくりと頷いた。

「分かりました。やってみます!」

「よし、その意気よ!」

 その瞬間、彩音の中で何かが変わった。

 これは、まだ見ぬ未来へと続く扉。その扉の前で、彩音は静かに、一歩を踏み出したのだった。

 入学式とクラスの写真撮影が終わると、彩音は真っすぐに家に帰った。春の日差しが優しく背中を押してくれるようで、足取りは軽かった。


 自宅に着くと、玄関をくぐり革靴を脱いでスリッパに履き替えて、洗面所へと向かう。彩音は最初に手をしっかりと洗って自分の部屋へと向かった。制服のブレザーをハンガーにかけて、椅子に腰を下ろす。

「今日から高校生なんだなぁ……なんだか新鮮かも。でも挨拶に『ごきげんよう』を必ず使わないと挨拶指導になるなんて、ちょっと驚いたなぁ。それに、水色の髪の子に思わず話しかけたけど、背中を押してあげることが出来て良かった」

 今日の出来事が、じんわりと広がっていく。緊張の中行われた入学式、クラスの雰囲気、初めて出会った人たち、どれもが新鮮であり、眩しかった。

「これから私はどんな日々を過ごしていくのだろう?」

 彼女の中には想像が膨らんでいく。教室で親しい友達が出来るだろうか。部活動に入部するべきか、それとも勉強に集中するべきか。自分だけの時間も大切にしたい。そんな風に思い浮かべるたび、胸の奥がくすぐったくなった。

 だけど、今日の入学式の後、担任の先生からの言葉が忘れられなかった。

『新入生オリエンテーションで、何か一つ披露してほしいの』

 新入生代表としてのもう一つの役割を任された彩音。好きなこと、得意なことを自由に披露する場が設けられた。

「私が……私が出来ることって、なんだろう?」

 最初は不安ばかりが先立った。彩音は人前で目立つことは得意じゃない。先輩たちの前で何かをするなんて、考えただけで緊張してしまう。だけど、頭の中に真っ先に浮かんだことは

 ――あの音だった。

 ピアノの音。自分の指先から生まれる旋律。そして、それに乗せて歌う自分自身の声。小さい頃から続けてきた。唯一ずっと大切にしていたもの。

「そうだ。ピアノ弾き語りをやろう」

 心に決めたその瞬間、どこかに張りつめている糸が緩んだ気がした。きっとこれなら、自分らしく伝えることが出来る。その後、彩音は部屋においてあるグランドピアノの前に座った。

 そっと鍵盤に触れて、一音目を鳴らす。自分の気持ちを旋律に重ねるようにして、ゆっくりと指を動かしていく。

 これが彩音にとって新しい高校生活への第一歩だった。誰かに見せるための演奏ではなく、自分自身と向き合うための時間。音に乗せて彩音は少しずつ、未来への準備を始めていった。

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