5 精霊の遺恨

 あれから話はなかった。朝目覚めるとノーブルは普通で、夢を諦めた老人のようには見えない。何気ないことを楽しむように自然の創る音に耳を澄ましていた。


「ノーブル先生」


 スタックリドリーは声をかけた。勇気からだった。


「先生は何かを察しておられるのですか」


 祖母が今わの際を悟っていたように、彼もそれを感じているのではないか。何か秘密があるのだろうと思えた。


「精霊の遺恨を帯びたものは、死の招きが聞こえるようになるんだよ」

「えっ……」


 言葉を失った。


「普通に過ごしているときも、食事しているときも、眠っている夢の中でさえ。恐ろしい言葉が魂を苛み続けるんだ。強烈な精霊の遺恨は宿主を永遠に離さない」


 精霊が人を呪い殺す。おぞましさに胸がつぶされるような心地だった。


「日に日に呪いの声は強くなる。もうお前は次へ進めない。希望はない。人生はすぐに終わる。脳裏に四六時中、聞こえ続けているんだよ」

「負けてはダメです!」


 憤慨して声を張り上げた。


「死の誘惑に負けた時、人は生を終えるのではないでしょうか」


 こぶしを握る。スタックリドリーのつぶらな目には涙がにじんでいた。安らかなことも悪しきことも含めて人の死はもう見たくなかった。


「ありがとう。キミのような少年に出会えてうれしいよ。そう、抗うことは諦めてはいけないのかもしれないね」


 そういってノーブルは笑んでいた。


「ただキミが思っているほど悲観的には捉えてはいないよ」

「じゃあ、なんで……」

「今の自分じゃ答えにたどり着けないような気がするんだ」


 飛翔していた鳥が勢いよく川へ潜った。小さな飛沫が跳ねる。師はこの瞬間を感じられても、実際に眺めることはできないのだ。


「キミは偉大なる精霊を探している。その旅の途中できっとその答えにも巡り合える。大いなる目的のついででいいんだ。わたしの夢も叶えてくれないだろうか」


 そういってノーブルは小指を伸ばした。彼は大事な何かを手渡そうとしている。だから、答えねばならないだろう。でも。


(ああ、こんなこと前にもやったな。生きるたびに約束って増えていくんだ)


 悲しい気持ちを押し込めてスタックリドリーは指切りをした。






 川面を見て熟考していた。ノーブルはどうして自身で真理を突き止めることを諦めようとしているのだろう。遺恨があるから? 死が恐ろしいから? 


(死って何なんだろう)


 みんなにまんべんなく訪れるもの。だから自身もいずれはそうなる。でも。

 自身には遺恨があるわけではなければ、今すぐの死の恐怖に侵されているわけでもない。あの眼孔を覗いただろう。あれが師の抱える恐怖の根幹だ。


 精霊が人を呪い殺すなんて聞いたこともなかった。世には呪術の本や、占いの本が溢れていて一生懸命学問している人もいるけれど、スタックリドリーはそれにむしろ懐疑的だった。論理が通らないからだ。


(でも、あるんだろうな)


 目の前の老人は誠実で大らかな人だ。肝心な時に嘘をいう人間ではない。

 たぶん見た目以上に苦しんでいるんだ。計り知れない。そう結論づけて思考を止めた。考えても堂々巡りに陥る。


 川で竹筒に冷水を汲むとノーブルに手渡した。彼はそれで眼孔を洗った。染みるのか、口元を引きつらせている。


「目を速やかに摘出したことは幸運だよ。腕のいい医者がいた。で、なければわたしはとっくにあの世さ」


 いいや、幸運なんて嘘だ。彼は辛い荷物を抱えている。


「一緒に行きます」


 誠実なスタックリドリーはこれからの旅路を一人でさせておくことなど出来ないと思った。間抜けだけれど、いないよりはいい。

 だが、ノーブルは首を振った。


「かかわらないでくれ。キミにとってその方がいい」


 即答されて唇を引き結ぶと、鼻息を鳴らし落胆した。取り付く島もなく断られてしまった。


「でも先生は困りますよ」

「キミは精霊に愛されている。わたしとは違う。困ったときにはきっと名前も知らない彼らが助けてくれるよ」


 ずれた回答をして笑っていた。あと腐れもないのはきっと彼の優しさだろう。


「遺恨を取り去る方法はないのでしょうか」

「それはわたしの課題だ。キミにはキミの課題がある」


 そういってノーブルは枕にしていた荷物をほどいた。赤い一冊の本を手渡される。開いてみると書きかけの分厚い手記だった。


「続きはキミが書いてくれ。わたしにはもう一生読み書きできないからあげるよ」


 彼は学者を止めようとしている。こんなもの受け取れないと思った。

「いらないのかい」

「いえ……」


 重たい気持ちで手を伸ばすと手に取る瞬間に相手はこういった。


「探究心を持って大人になりなさい」

「はい」


 疑問は心の底を突いていた。遺恨ってなんだろう。ノーブルは何をしたのだろう。好奇心ってそんなに危険なことだったのか。咎の大きさに煩悶する。到底、尋ねられたことではなかった。


 あらゆる人は平気なように見えて色んな状況で苦しんでいる。虐められていた自身はそれを体感している。だから幸せに見えている人でも、実際はそうでないことを知っているのだ。


 別たれようとしている道の真ん中では寂しさしか感じない。ごめんね、本当にごめんね。何にごめんねなんだろう。スタックリドリーは瞼を閉じて沈黙した。



          *   *   *



 人と人は旅先で出会いそして分かれゆく。時には道ずれになることもあるし、そうでないこともある。縁が結ばれたんだよ、祖母の絡まった太い指先を思い返した。

 ノーブルは自身の旅路にスタックリドリーを巻き込むことを好まなかった。咎の苦しさを一身に感じていたからだ。


 彼はすでにこの地を去った。あの不自由な身でゆっくりどこへと向かうのだろう。頼りない背中を朝焼けのなかで見送った。どこでもいいじゃないか、彼ならきっと大らかにそういう。


 川辺で静かに手記を開いて読んでいるが、分かることより分からないことの方が多かった。無学なせいもある。彼から託された本はとても重厚だった。

 改めて黙視するとたくさんのことが書かれていることに気づく。精霊の性質、捉えた言葉、その形状。由来が細かに記載されてある、彼が見たというより各地の伝承を集めたものだろう。


 ニンフというのもよく知らなかった。この奇妙な奴が山にたくさんいるんだよなと首をひねる。


 ふと手を止めた。ぱらりとめくると異質な絵があって、円い星を覆いつくしている幾束もの管が描かれていた。太くて力強い印象に残る絵だ。説明書きはなく、理解できない。なんだろう、この管は水脈のことだろうか。


 仔細を伝えられなかったこと、真理は見て悟れということか。


 自分の人生だ。自分で決める。まだ、精霊学者になろうと望んだわけではない。

 それでも託された大きな志を抱きしめて、何かを感じている。スタックリドリーは荷物をくくるとこの地を後にした。


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