6 精霊の歌
遠く歌声が聞こえていた。どこまでも儚く幻想的な歌声が。
スタックリドリーはその優しさに気づきもしないで、項垂れている。心は悲しみでいっぱいだった。
どうして自分だけが助かったのだろう。世界に置き去りにされてしまったのだろう。
すべては過去のことなのに。そのいわれようのない大きな何かが、今でも自身を縛り真実を追いかけさせている。
日は陰り、西から夕立が降り始めた。小雨が落ち葉を叩いて、雨音のさざ波が聞こえる。時間など気にしないつもりだったが、もう戻らなければいけない。
精霊探しなんてするもんじゃなかったんだ。
立ち上がって村への道筋をとぼとぼと歩いていると雨足が強くなった。打ち付ける雨に気持ちが萎んでいく。濡れ葉を踏んで足が滑り、膝をすりむいた。
「って」
なにやってるんだろう。悔しさに濡れた瞳を上げる。
「えっ?」
瞬刻、目前に見えたものに驚愕して瞳を見開いた。
たしかに雨は降っている。降っているはずなのに、目の前で何かが雨の筋を遮っている。気のせいだろうか、いいや違う。
目に映らない小さな生き物が雨を弾いているのだ。
「せい…………れ……い」
不思議な何かが無様なスタックリドリーを小さな頭でのぞき込んでいる。
目の前の彼はいたずら口調でこういった。
「ついておいでよ、スタックリドリー」
景色が白くくぐもっていた。濡れそぼった木立に動物の姿はない。
狩りに興じていたものも、どこかに身を潜めじっとしている。どんどん強くなる雨足に逆らって少年は林を奥へひた走った。目の前の生き物は相当に速く、気を抜いていれば置いてけぼりになりそうだった。
映りそうで映らない不思議な背中を追いかけて、気づくと大きな洞穴の前に立っていた。
石灰の岩盤が削れて出来たのだろう。奥は真っ暗、一人ならば絶対踏み込まないような寂しい場所だ。
「入るのかい」
声がやまびこのように反響した。返事はない。洞穴の奥で水たまりが踏みつけたようにぴしゃんと鳴る。ついて来いということだろう。あどけない歩行音はリズムを刻むように奥へと続いていく。
(どうせ雨は止まないんだ)
臆病な心を奮い立たせると内部へといざ進んだ。
いくつもの雨垂れが遠近で鍾乳石を叩いている。どうやらここは水に浸食されて出来た鍾乳洞のようだった。
暗い足元はところどころに咲いた生命力の強いルーマの花に照らされて、それを頼りに何とか進めている。紫の燐光は道に沿って細長く続いていた。高い天井に小さな流水音が反響している。地下水が外へと流れだしているのだろう。
人工的なものはなく、このような場所は村でも聞いたことがなかった。
ぴしゃんと水滴が鳴って、立ちどまり瞳を閉じた。
静謐のなかに音楽が聞こえている。水の打つ音かと思ったがそうでない。空洞のあちらこちらで精霊の歌声が反響しているのだ。
——小さなスタックリドリーがやってきた
——とっても可愛いおまぬけさん
——僕らは友達だよ
——約束約束、覚えてる
——ううん、忘れてる
——覚えているよ
——彼は忘れてる
——いつでもぼくらは一緒だよ
「……約束ってなんだろう」
疑問は小さなつぶやきとなって漏れた。
導いてきた精霊の足どりは止まらずに奥へと続く。言葉を発せば何か返答してくれるのかもしれないが、それはちょっと怪しい気がしていた。
きっと見せたいものがあるのだろう。
紫の輝きがひときわ強くなり、ルーマの群生地にたどり着いた。とても大きな空間だ。シルバーグリーンの葉と燐光の彩る幻想的な光景に言葉をなくす。星の海原だった。
「リドリー会いたかったんだろう」
やっと声が聞こえた。どこにいる、どこにもいない。
「上だよ」
頭上を振り仰ぐと太陽の輝きを浴びたかようにまばゆい大きな水晶があった。洞穴のすべてのルーマはこの光を蓄光しているのか。
この世のものとは思えぬ虹色の輝きに忘我していると頭上から声が降り注いだ。
「ああ、可愛いスタックリドリー。父と母のことを覚えていますか」
瞬刻、涙が溢れた。この太陽のような優しさは紛れもなく。
「いつも心配していたんだよ」
「どこにいるの、見えないよ」
涙がだくだくと流れてどうしようもない。ずっと隔絶していた両親への愛に気づかされた。
「おばあちゃんがお父さんとお母さんは精霊になったんだって」
ささやきが聞こえた。
「いずれそうなる。ここは精霊の生まれる場所。私たちは精霊になるべくこの場所に魂を集積しているんだ」
そういって光が一つ、ぽとんと落ちた。光は床に吸い込まれて四方へ拡散し、洞穴の壁面を伝ってビロードのように外へと流れていく。
「ああ、また生まれた」
生まれたばかりのあどけない命がこの世界の仕組みを支えていく。それを思うとなおさら敬虔な気持ちになった。
「会えないの」
胸の内には追慕が溢れていた。触れたい、抱きしめてほしい。
「目を閉じてごらん」
いわれるままに目をつむると、自身も知らぬ懐かしい記憶が脳裏に駆け巡った。
——珠のような幼子を見守り、大切に育ててきた両親と祖母のおおらかな愛。医師として村人を助けてきた両親の真摯なその思い。優しく探究心のある子に育ってほしいと願ってつけた名前。
一家の幸せのそばにはいつも笑顔があった。
愛しているよ、と言葉は静かに消えていく。
古の記憶が去ると、父と母の気配が抜けるようにふっと消失した。目を開けると水景が広がっていて何もない。寂しさを噛んでいると、誰かが目の前に立っている気がした。
誰だろう。目に映らない、でも本当は自身にもその気配が見えているのではないだろうか。
隙間を埋めるように安らぎの輪唱が聞こえ始めた。この空洞に住まうすべての精霊が穏やかに歌っている。
洞穴の空を紫の輝きが駆け巡る幻想的な光景に心を奪われた。
陶酔していると声がした。
「この場所のこと誰にもいわないで。キミだから教えたんだ」
視線を下ろして再び前を見た。光に透過して彼の残像が垣間見えた気がする。確かにいる。小さな男の子の声だった。
「キミは誰?」
「ひ・み・つ」
そういってつんと薄い胸を押された。
そう、と気落ちしていると右手を何かに引かれた。腕がひとりでに持ち上がり、小指が自然と指切りするように折れ曲がる。
「きっとこんな風にしたんだよね。キミはそれさえも忘れているんだ」
「忘れている?」
言葉を反芻させた。
「キミはあの時、大いなる幸運に巡り合ったんだ」
心のなかに何か途方もない潮流が駆け巡るのを感じた。もしかするとそれはこの世に蔓延る大河よりも広大な、命という名の奔流かもしれない。力強く腹の底を押し上げて、体中を潤すように満ちていく。
瞬間、遠い記憶が走馬灯のように駆け抜けた。
父母の葬儀のあの日、泣き暮れていたリドリーを抱きしめてくれたのは目に映らない大いなる存在だった。姿形さえ目に映らない優しい生き物だ。冷えた首筋を包み込むと息を吹きかけた。
――どうしてお父さんとお母さんを助けてくれなかったの。
――違うよ、キミを助けたんだ。
――分からないよ、こんなに悲しいことってないもの。
――生きて。生きていつか寂しさを感じたら会いに来るんだ。
――寂しいよ。
――僕は旅に出る。
――どこへ向かうの。
――世界へ。いつかキミが真理を求めるようになったらすべてを教えてあげる。
そして、ゆっくりと絡まった小指。
ああそうか、自身はこの温情を、この大切な約束を忘れていたのだ。
「友人は彼の地で待っているよ」
「それってどこのこと」
返事代わりに微笑みが遠のいてゆく。小指の先の感触は間もなく静かに消えた。
結局、スタックリドリーは精霊をただの一匹も連れ帰らずに村に戻った。いじめっ子に宣ったこととか、強がりは自身のなかではすでに過去のこととなっていた。
祖母は心配しておらず、何があったかも尋ねはしなかった。もしかすると精霊から伝え聞いて知っていたかもしれないが探るような性格の人ではなかった。
普段より無口、でも心は奇妙に疼いていた。祖母もきっとそれを察していたのだろう。
スタックリドリーはその夜、いわれようのない何かに思いを馳せていた。あの時触れた姿形の見えないもの。巡り合えたことそのものが奇跡なのかもしれない。祖母が大いなる幸運と呼んで疑わない異形の存在。
会いに行けばいいのだろうか。そうすればこの孤独を埋めてくれる?
ううん、そんな勇気はない。だって僕はやっぱり変哲もないぺペット村のスタックリドリーなんだ。
でも、もし人生の大事な局面を迎えたら。夢想を膨らまさないではいられなかった。それっていつなんだろう。期待に目を閉じると、奇妙なこの世界に少しだけ思いを馳せた。
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