第12話 暗雲と潮騒の試練

 白昼の太陽が照りつける海原に、遠く黒い雲の塊がゆっくりと迫っていた。甲板では風見の帆柱がざわめく警告を告げ、帆船セレスティア号の乗組員たちが緊張の面持ちで帆の調整に当たっている。


「継母様、あの雲……ただの通り雨ではなさそうです」

 レオンは双眼鏡を海面から空まで大きく揺れる雲の縁を追い、やや不安げに囁いた。


「嵐の前触れね。皆、急いで支柱索(しちゅうさく)を固めて」

 美咲は甲板長に指示を出しながら、自らも帆の結び目を確かめる。日焼けした手が揺れるロープに触れるたび、彼女の覚悟が漲る。


 数刻後、空は一転して鉛色に染まり、雷鳴が遠く海原を轟かせた。突風が帆を煽り、波が急高低を繰り返す。甲板を走る水しぶきに、隊員たちがうめき声を上げる。


「全員、命綱を装着! 帆を畳んで舳先(へさき)を風に向けるんだ!」

 老海将の号令が甲板に響き渡り、緊迫の嵐幕が幕を開けた。


 レオンは継母の手をしっかり握り締め、叫ぶように言った。

「継母様、怖くない?」


 美咲は真っ直ぐ前を見据え、微笑んだ。

「あなたがいるから、私も怖くない。いっしょに乗り越えましょう」


 彼女の言葉は潮風に乗って、レオンの胸に深く刻まれていく。


 突如、黒雲の中心部から豪雨が襲来した。視界を遮るほどの激しい雨脚に、甲板はたちまち水浸しとなる。帆が大きく揺れ、索具(さくぐ)が悲鳴を上げる。


「帆を畳め――!」

 美咲は大声を張り上げながら、嵐仕様の小型索具を手際よく操作した。濡れた甲板で足を滑らせそうになるが、即座に体勢を立て直す。


 レオンも必死に近くの支柱に体を押しつけ、濡れたローブで前髪を抑えた。


「継母様、どうすれば……!」


「まずは呼吸を整えて。慌てず、冷静に!」

 美咲は大波を背にしてレオンへ向き直り、厳しくも優しい眼差しを向けた。


 ――幼い王子を守る母のように。彼女の胸には、嵐の中でも揺るがぬ覚悟があった。


 数分間の格闘の後、ついに甲板長が合図を送った。


「完了! 帆畳み終わりました!」


 索具の調整が間に合い、帆は小さく纏められた。船体は波頭を切り裂きつつも、安定を取り戻しつつある。


「よくやった、皆!」

 老海将が号令を終えると、突風は鳴りを潜め、雨脚も次第に弱まった。


 甲板に緊張の糸がほどける。隊員たちは互いを労わりながら、ぬれた装備を点検していく。


 嵐が過ぎ去り、空には再び蒼さが戻ってきた。太陽が雲間から射し込み、甲板に虹がかかる。


 レオンはまだ震える声で美咲に言った。

「継母様……怖かったけど、皆で乗り越えたね」


「ええ、あなたと皆がいたから乗り越えられたわ」

 美咲は放心したように立ちすくむレオンを抱き寄せ、そっと背中を撫でた。


 その背後で、虹は静かに弧を描き、海原に淡い約束を残して消えていった。


 夕暮れ。沈みゆく太陽が波間に金色の道を示す。帆船は再び帆を広げ、ゆったりと航路を進んでいく。


 甲板の隅で、美咲は航海日誌にこう記していた。


「大いなる試練――暗雲の襲来。だが、恐怖を乗り越えた絆は、光よりも強い。王子の勇気と乗組員の尽力に感謝を。新たな航海は、より深い信頼のもと続く」


 書き終えた彼女は、日誌を閉じ、波音に耳を澄ませた。遠くに見える水平線の向こうには、まだ見ぬ大陸の輪郭がぼんやりと揺れている。


「さあ、次はその地――未知の海岸を踏みしめるのよ」


 美咲はそっとレオンの手を握りしめる。月と星が再び夜空を満たす頃、〈セレスティア号〉は静かに新たな大地を目指して帆を掲げた。


 ――試練を越えた絆が、まだ誰も知らぬ冒険を導く。章は続き、物語はさらに深く、広い世界へと続いていく。

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