またね、元気で、のび太君

@do131138

またね、元気で、のび太君

 タイムマシンがあったら、いつに戻ればいいんだろう。

 一樹の肌着にプリントされたドラえもんを見て、そんな事を考えていた。


「ーー大丈夫ですか?」


 先生の問いに私は反射的に「はい」と答える。先生はカルテに何語かも分からない文字を綴りながら、


「お子さん、三人目なんですね」

「えぇ」

「上にお姉ちゃんが二人。一樹君は末っ子長男なんですね」


 話しながら先生の万年筆は流れていく。私にはああいう事は出来ない。子供の頃、畑の手伝いをしていても、妄想ですぐ手が止まって、いつも母さんに怒られていた。


「お姉ちゃん達に持病は?」

「いえ、なにも」

「お母さんの御兄弟や、親御さんに、先天性の疾患がある方は?」


 私は首を横に振る。

 先生は「そうですか」と言い、カルテの右下に『H1/2/23』と書いて万年筆を置いた。筆記体ばかりの中で『H』という文字はぽつんと浮いていて、それがついこの間変わったばかりの『平成』という年号だと思い出すのに、時間がかかった。


「先生、何がダメだったんでしょうか」


 ぽつりと言葉が零れる。


「何が、と言いますと?」

「妊娠中に食べた物とか、他には、ほら、生活とか……」


 一度出始めると止めどなく、次から次に不安が濁流のように押し寄せる。


「美和も、涼子も、まだ小さいものですから、一樹の妊娠中、二人に構ってあまり寝れてなかったですし、あ、主人も、たばこ、吸うものですから。出来るだけ、私は煙を吸い込まないようにしてたんですけど、けど少しは。それに、職場も、辞めるまでは工場の事務をしてて、なんか、良くは分からないんですけど、色んな薬品とか使ってて、変な、刺激臭、みたいなのも、たまに嗅いでいましたから、だから、それが……


「お母さん」


 決して強くは無いが、鋭く尖った声だった。自分でもみっともないほどに肩を震わせる。


「落ち着いてください」


 対称的な優しい口調に、思わず泣いてしまいそうだった。一樹がうっすらと目を開ける。白目に黄色味が入った瞳が、私をじっと見つめている。


「一樹君の病気は、そういった生活環境との関係は証明されていません。一定の割合で、偶然、持って生まれてしまうものです。不安なのは分かりますけど、医療技術はすごく発達していますし、昭和には治らなかった病気もどんどん克服されてます。今は対処療法となりますが、近い将来に有効な治療法が見つかるかもしれません」


 対処療法。

 見つかるかもしれません。

 悲観的な言葉ばかりが頭の中で回る。喉には気管が収縮したような熱く不快な感覚がへばりついている。


「一樹は、治るんでしょうか」


 一瞬だけ間があった。


「最善を尽くします」


*************************************


 主人は優しく、まじめで、子供が好きであったけど、世間の殆どの男性と同じく、家事や子供の世話は自分とは関わりのない世界と思っていた。

 だから電話越しに、一樹の目や肌が黄色いのは肝臓に先天的な疾患があるからで、それは今の医学ではまだきちんとした治療法がない病気なのだと伝えても、聞いてきた事は、


「いつ帰ってくるんか? 美和達も腹を空かせて待ってるぞ」


 悪気などかけらもない、ただただ純粋な問いかけ。

 私は息を飲み込んだ後、入院の手続きがあるから帰れない、今日はファミレスにでも連れて行ってあげて、と答えて受話器を置いた。テレフォンカードを吐き出した公衆電話が、ピーピーと鳴り続ける。


 お腹空いた。


 私も朝から何も口にしていない。でも食べに行く気にもなれなかった。母さんは、食わんと頑張れん、といつも言っていた。頑張らないと何もできない、だから食わんとあかん。そう言って、お父さんよりも山盛りにしたお茶碗を米粒一つ残らず完食していた。


 一樹がふがふがと、溺れたようにぐずりだす。


 私はテレフォンカードを取って電話の前から離れた。歩き始めると一樹はまた小さく寝息を立て始める。寝顔を見た瞬間に愛おしさがこみ上げて、だけどそれもすぐに不安へと変わっていく。

 看護婦さんから貰ったファイルの中には、たくさんの同意書が未記入のまま押し込められている。本当はこれを窓口に出して、すぐに手続きをしないといけない。だけどこのまま入院させてしまったら、一樹は一生ここにとらわれてしまいそうな気がした。


 一生?


 一樹の一生は、あとどのくらい続くの?


 これだけ科学が発達した世の中で、数えきれないほど頭の良い人がいるこの世界で、誰も治し方を知らない病気を持ったこの子が。

 頬に涙が伝って、私は足を速めた。

 どこに行くかもわからない廊下をデタラメに曲がって、気づけばシンと静まり返った渡り廊下にまで来た。非常口の看板が緑色に光っている。ドアは開けっぱなしで外の音が聞こえた。帰宅途中の小学生だろうか、はしゃぐ声が近づいてすぐに遠ざかっていく。


 消えてしまいたかった。


 あれだけ待望した男の子なのに。生まれた時、生きてて良かったと思わせてくれたのに。私に母親の資格なんて無い。頑張ろうともしない私なんて、この子の未来を信じてあげられない私なんて。

 涙がポロポロと零れ落ちて嗚咽がこみ上げた。だけど誰かに見られるのは嫌で、渡り廊下の一番端っこにしゃがみ込む。


「大丈夫ですか?」


 旦那に似た柔らかな声で、最初、それが私にかけられている言葉だとは思わなかった。「その……お母さん」と二言目が薄い布のように被さって、私はようやく振り向いた。


 子供連れの男性だった。


 私と同い年くらいだろうか。耳まで伸びる長めの髪。その傍らにいる子供は五歳程で、その男性に手を握られ、まん丸の瞳で私をじっと見つめている。

 まっすぐ視線を合わせられず下に逸らすと、その子が着ているTシャツのドラえもんと目が合った。テレビのよりずっと柔らかい線で描かれていて、姿形はまんまドラえもんなのに、ふとしたら全然違うキャラのように見えた。


「どうかしました?」

「いえ」


 と首を振るが涙は止まらず、そのまま顔を伏せぐずぐずと泣き続けてしまう。子供が「だいじょうぶ?」とお父さんそっくりの口調で問いかける。優しい子だ。一樹もこの子と同じ年にまで育ってくれるだろうか、と考えてしまい、また涙が溢れる。


「お腹、すきません?」


 唐突だった。


「え?」


 と、自分の口からまるで違う誰かの物のような、純粋な疑問の声が出てくる。その男性は「ご飯、食べに行きましょう」と私の腕を持って立ち上がらせる。


「いえ、その」


 と断ろうとする私に、男の子が「行こう行こう」と腕を引っ張る。その男性は笑みを残して渡り廊下の先へと向かっていく。


「あの、どこに」

「食堂があるんです。昔、良く行ってた。いつでもやってる朝ごはん定食が美味しいですよ」 


 断らないと。結婚してるのに、男の人にご飯を奢ってもらうなんて。頭ではわかっているのに、私は男の子に引かれるまま、その男性の後ろ姿について行った。

 たどり着いたのは、裏口近くの病院食堂だった。自動ドアはピカピカで、ガラスケースに向こうに並べられた食品サンプルは本物よりもずっと人工的な光沢を放っている。入ってすぐに所に券売機があって、その隣には新規オープンを祝うの胡蝶蘭が置かれていた。


 券売機の前でその男性はポケットから平たい板を取り出して「あ」と呟いてすぐにしまった。反対のポケットから革の財布が出てきて、随分と年季の入った千円札を券売機に飲み込ませている。


「アオは何か食べる?」

「いらなーい。ジュースが良い」

「じゃあ帰ってからな」

「えー」

「えー、じゃない。大体お前が勝手に着いてきたんだろ」


 慣れた調子でやりとりする二人を前に、私は、アオ、と小さく繰り返す。アオ、アオ。不思議な響きだった。アオ君は不満そうな顔のままそっぽを向き、


「あ! 昔のドラえもん」


 と駆けて行った。見ると天井からぶら下がったテレビに、ドラえもんの再放送が流れていた。

 その男性は食券をカウンターへと持っていく。半端な時間だからか食堂には私たち以外に誰もいない。キッチンからは何かを焼いたり、水を流したり、食器同士が触れ合う固い音がひっきりなしに聞こえていた。


「どうぞ」


 とその男性は、券売機の前で立ち尽くす私に「朝ごはん定食 93」と書かれた食券の片割れを差し出す。私は一樹を抱っこする指先でそれを受け取って、


「ーードラえもん、好きなんですか?」


 その男性もアオ君を振り向いて「あぁ」と笑いながら、


「親の影響ってやつですね。俺もずっと好きだったので」


 大人でそんなに好きなのは珍しいな、と私は思った。ドラえもんがテレビでやり出したのは私が働いてからだ。


「あなたも、好きなんですか?」

「私?」

「ほらこの子」


 と言って一樹の服を指さす。笑みを浮かべるドラえもんがいて、その瞬間、先生から告知を受けた時を、天と地がひっくり返ったようなあの瞬間を思い出す。


「いえ、その、好きというか、うち、お姉ちゃんが二人で、男の子用の肌着が無くて、赤ちゃんだし女の子用でも良かったんですけど、せっかくの男の子ですし、」


 記憶が巡る。旦那も私も一人ぐらいは男の子を、と願っていて、検診で男の子だと分かったときは飛び上がるほどに喜んだ。服を選ぶ時はどれを着せようか始終ニヤニヤしていて、旦那はあきれ顔だった。

 生まれた瞬間も元気に泣いていたし、ミルクも沢山飲んでいたから、病気があるだなんて微塵も思っていなかった。ただ少し目と肌が黄色っぽいのと、うんちが白っぽいのが気になって、一ヶ月検診でそれを伝えたらどんどん大げさな検査を受ける事になって、


「この子、病気なんです」


 唐突な打ち明けに対して、その男性は哀れむでも驚くでも、ただ「そうですか」と口にした。他人事そのものの淡泊さが心地よかった。


「今の医学じゃ治し方も分からないくらい、重い病気なんです。今日、すぐに入院させるんです。けど、本当は入院なんてさせたくなくて、出来るなら、ずっとこうやって抱っこしていたいんです。一度入院させたら、なんだかずっと、病院の中に閉じ込められてしまいそうで、そこでそのまま、外の世界を見ることも無く……」


 私はぎゅっと瞼を瞑る。すっと息を吸い込んでこみ上げた涙を無理矢理押し戻す。


「アオ君みたいに元気に育ってくれる未来が、想像できないんです。すぐに入院させても、このままずっと腕に抱いていても、一樹は、このまま……死んでしまう……んじゃないか、って。妊娠してる時はあんなに時間が経つのを心待ちにしていたのに。今は、とにかく、怖いんです。怖くて怖くて、たまらない。ずっと、このままだったら良いのに。このまま、時間が止まって、一樹も、赤ちゃんのままでいられれば」


「大丈夫ですよ」


 その男性は諭すように言う。


「これから、科学はどんどん進歩していくんです。それこそ、僕たちが想像するより、ずっと速い速度で」


 先生と同じだ。ありふれて、それ以外にかけようのない慰めの言葉。少しだけ私は気を落とす。


「そうですね。そう信じるしか他にーー」


「今年の末には国内で新薬の臨床試験が始まるんです。この子はそれに選ばれて、直に完治します。国内第一例目です。まぁ試験に参加するまでの一年間はすごく大変だったらしいですけど」


 はにかみながら、その男性は言った。

 私は何の話をしているのか分からなかった。もしかしたらアオ君の話をしているのかもしれない。私の話がくどいから、違う話題を振ったのかも。今も昔も、そう言うことがよくあったから。


「それでも五歳くらいまではずっと病院にいて、そこでドラえもんと出会うんです。母さんが買ってくれたドラえもんを何度も読んで、小学校に上がる頃には立派なSF少年が出来上がりました。ハリウッド映画や早川文庫、ろくに分かりもしないのにNewtonなんかも読んで。とにかく科学と名のつく物だったら手当たり次第に摂取したんです」


 その男性は照れくさそうで誇らしげで、出鱈目と言うにはあまりに目を輝かせていた。


「だけどそのおかげで小学生のうちに量子力学と出会えたし、中学の時には光は粒子か波かっていう議論にも興味を持てた。時間の非決定性と量子の不確定性を考える時の土台は、間違いなく、引き出しを媒介にしてどうやったらタイムトラベルができるのか、という学生時代の妄想だった」


 疑問や違和感は遠ざかって、今はただ、少年のようにいきいきと話すその男性の言葉に耳を傾けていた。


「色んな幸運に恵まれたんだ。大学で出会った同じ空想好きの仲間と先生にも、CERNに短期研究員として滞在できたのも。『量子非局所性における時間遷移の対称破れ』はそれまでのどの経験が欠けていても書けなかっただろうし、同じタイミングでIBMが無謬指数10のマイナス6乗の量子コンピュータを開発してくれきゃ時間の逆行的干渉の観測なんてできなかった」


 それに。

 その男性は愛おしそうにアオ君を見つめる。


「アオが生まれていなかったら、何が何でも会いに行こう、とも思わなかっただろうし」

「え?」

「ホント、あいつの夜泣きに比べたらワームホール制御の方がよっぽど楽だったよ」


 いつの間にかドラえもんはエンディングを迎えていた。小さな画面を前にアオ君は微動だにせず、走るドラえもんとのび太を見つめている。


「飲んだミルクを全部吐き出して、燃えるくらいに熱を出した日には、もうこの子はダメなんじゃ無いかって本気で思った。それで、夜中に抱っこしながらずっと考えてたんだ。何の病気も無く生まれたアオがこんなに心配だったら、お母さんの不安は俺の比じゃ無かったんだろうな、って」


 私は、一樹の未来として見ていたアオ君の背中に、今の一樹を見た。そしてもう一度、視線をその男性に移す。頬を緩め、切なそうに笑っていた。


「もし子供の頃の俺が聞いたら、そんな事で? って言うと思う。そんなのでタイムトラベルするの? って。もっと、世界を救うためとか、真実を知るためとか、そういう物のためじゃない、って。でも、俺にとっては、世界を救うのと同じくらい、真っ先にやらなきゃいけない事だったんだ」


 その男性は私をじっと見据える。私は、今の今までまともにその男性と目を合わせていなかったことに気付いた。その顔はアオ君に、旦那に、そして心なしか私にも似ていた。


「頑張って、て。そう伝えるために、頑張ったんだ」

 その男性は照れ隠しのように笑って「お母さんほどじゃないけどね」と付け足す。と同時に、どこかから耳障りな音が聞こえてきた。


「あ」


 と言ってその男性はポケットから板を取り出す。『00:00』という表示と共に、その板からけたたましいメロディが流れていた。板の表面を指先で撫でると表示とメロディは消える。板の裏側には、欠けたリンゴのマークが描かれていた。


「おとーさん」


 ふと見ればアオ君が隣にいて「ドラえもん終わった」とつまらなそうに言った。「良いタイミングだな」とその男性は笑い、また私に向き直って。


「それじゃ、また。元気でね」


 そして思い出したかのように「あ、皆には内緒で」とはにかむ。アオ君も「ないしょないしょ」と言って指を押し当てた。そしてアオ君の手を引き、その男性は食堂を出ていった。

 自動ドアが閉まる直前、


「あの!」


 その男性は振り返る。何を言って良いのか分からない。色んな事を聞きたいし、何も聞きたくない。抱きしめたいし、抱きしめられたい。だから私は、


「またね」

 とだけ。そして片手で一樹を支えながら手を振って、

「元気で」


 のび太君、という言葉だけは、誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。


 その男性とアオ君は大きく手を振り、そして次の瞬間には、ふっ、と音も無く消えてしまった。


 食堂の奥でおばちゃんが声を張り上げている。朝ご飯定食でお待ちの93番さーん。一樹が思い出したかのように泣き出して、そういえばそろそろミルクの時間だと思い出す。入院の手続きだって何も終わってないし、一樹の瞳はまだ黄色を帯びてる。

 だけど、もう濁流のような不安は押し寄せてこない。


「よし」


 と私は小さく口にする。そして涙を流す一樹を強く抱きかかえて、朝ご飯定食を取りに歩き出した。


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