第32話 一歩踏み出す条件
「声、録ってみたんだ」
夕暮れの図書室。
窓際の席に座りながら、ぼくはタブレットをそっと机に置いた。
隣にいたのは、Aだった。
ぼくが何も言わなくても、いろんなことに気づいてしまう、あのA。
「へえ。……聞いてもいい?」
「恥ずかしいけど、止めないよ」
再生ボタンを押す。
ぼくの声が、小さくスピーカーから流れ出す。
『……こんにちは。
今日は、ほんの少しだけ、自分の話をさせてください』
最初のワンフレーズだけで、ぼくの鼓動が跳ね上がる。
けれどAは、驚くほど真剣な顔で聞いていた。
再生が終わったあと、しばらくの沈黙があった。
Aは、ポケットに手を入れたまま、言った。
「……いいじゃん。
声、たしかに震えてるけど、逆にそれが“嘘じゃない感じ”して、よかった」
ぼくは思わず笑ってしまった。
「“震えてるのがリアル”って、なんかズルくない?」
「ズルくないよ。“強がってるのに震えてる”のは滑稽だけど、
“怖いまま話そうとしてる”のは、むしろ強い」
その言葉に、少しだけ背中を押された気がした。
でも、まだ自分の中に、“もう一歩が足りない何か”がある気がしていた。
声は出るようになってきた。
でも、“舞台に立つ自分”は、まだ遠い。
その夜、校長先生から連絡があった。
【放課後、少しだけ時間をもらえるかな】
翌日、校長室。
坂井校長は、黒いペンを手に持ったまま、何かを書いていた。
机の上には、例の“黒歴史ノート”が置いてあった。
「……続きを、書こうと思ってね」
校長は、照れくさそうに笑った。
「このあいだ、君に読まれてから、
“言葉を閉じ込めたままでいいのか”って、思うようになって。
伝えるって、怖いよな。
でも、誰か一人でも待ってくれてるなら、
言葉は“外に出してもいい”って気づいたんだ」
その“外に出す勇気”が、どれほどの重みを持つか。
ぼくは、今ならわかる気がした。
「ぼくも、こないだ声を録ってみたんです。
まだまだ下手で、全然ダメですけど……。
でも、“伝える”って、そういうとこから始まるんだなって思って」
校長は、深くうなずいた。
「伝えるってことは、届かない可能性を背負うことだ。
それでも続けるのは、“届いた瞬間の奇跡”を信じたいからなんだろうな」
その言葉を聞いたとき、ぼくは自分の中の“何か”がほぐれるのを感じた。
怖くてもいい。
下手でもいい。
でも、信じて話すことだけは、決して手放したくない。
放課後、ピコが話しかけてきた。
「今日の録音、音質すごく改善されたよ。
喉の震えも少なくなってる。
発声のリズムも、君の言葉に合ってきた」
「ほんと? まだ逃げ腰だと思ってたけど……」
「それでも、君はもう“逃げながら進んでる”。
それは、十分な“踏み出し”だよ」
その夜、Aからメッセージが届いた。
【日曜、リハーサル付き合うよ。
ステージ、ひとりじゃ不安だろ?
マイク運んでるふりして、陰で見守る係やる】
ぼくは、スマホを握りながら、しばらく返事ができなかった。
でも、少しして、指が動いた。
【ありがとう。
たぶん、ぼく、声出せるようになってきた】
ぼくの“声”はまだ弱い。
でも、ぼくの“言葉”は、ようやく自分の心と繋がりはじめている。
一人じゃない。
支えてくれる誰かがいる。
そして、そのことを“自分の声”で伝えたいと思っている自分が、ここにいる。
それが、ぼくが“舞台に立とう”と思えた、ほんとうの理由だった。
(第33話「声を録る夜」につづく)
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