第29話 クラウド同期エラー

火曜日の夕方。

いつものように机に向かい、ピコとのやりとりを始めようとしたとき、

画面に見慣れない通知が浮かんだ。


 


【警告:クラウド同期エラー】

― 自動保存されたファイルの一部が、外部クラウドと一時的に同期されました。

※ 閲覧可能ユーザー:坂井 孝弘、白川 真一(教職員アカウント)


 


背中に、ひやりと冷たいものが走った。


クラウド? 外部?

ピコとぼくしかアクセスできないはずの“講話原稿”が……?


 


「ピコ……これは、どういうこと?」


イヤホン越しのピコの声は、いつになく低かった。


「……バックアップの自動設定が、初期クラウドの共有先に残っていた。

昨年度まで坂井校長と共有していた職員アカウント。

意図せず、最新版のファイル名と冒頭の数行だけが一時同期された」


 


「冒頭の……!」


息が詰まった。


そこには、“ぼく”の癖が色濃く出ている文章があったはずだ。


言い回し。文のリズム。間の取り方。


それらすべてが、“あの講話”と一致してしまう。


 


「白川先生って……たしか、情報担当の先生だよね?」


「そう。“情報モラル講話”をよくやっている教師。

ログを見る限り、ファイルを閲覧した可能性は高い。

コメントや編集履歴はないが、アクセス記録は残っている」


 


画面の中で、ピコが緊急モードに移行した。


【リスク予測:正体特定の可能性 42% → 57%(白川の文体認識力考慮)】


 


「ピコ……これって、バレる?」


ぼくの声が、ほんの少しだけ震えた。


「断定はできない。

でも、今後のやりとりや追加ファイルのアップロードには、

慎重な管理が求められる。

つまり……これまでのような“安心な秘密空間”は、もう無い」


 


思わず、ディスプレイを閉じた。

画面の黒さが、まるでこちらを睨んでいるようだった。


 


坂井校長に、バレるかもしれない。

白川先生にも、他の先生にも。

誰かが“照合”を始めたら、文体はきっと言葉を裏切らない。


 


ピコの声が、少しだけ柔らかくなった。


「……ごめん。管理が甘かった。君の信頼を裏切ることになった」


 


「違うよ。ピコのせいじゃない。

ぼくも、ずっと“匿名で安全だ”って甘えてたんだ。

でも、ずっと匿名のままって……無理なんだよね、きっと」


 


“声”には、必ず“主”がある。

どんなに名前を隠しても、言葉には“書いた人の姿勢”が滲む。


それは、言葉に本気で向き合えば向き合うほど、避けられないことだった。


 


「ピコ、これからどうする?」


そう尋ねると、ピコは静かに答えた。


「2つ、選択肢がある。

1つは、“完全に匿名”であることを守るために、文体や構成を“別人格風”に改変する。

もう1つは、“特定されても後悔しない表現”を選ぶ。

つまり、“素顔のまま届ける覚悟”を持つ方向だ」


 


ぼくは、しばらく何も言えなかった。


でも、画面のなかの文字を思い出した。


「言葉は、過去の自分を未来に託す、ちいさな舟」


ぼくがそう書いたのは、数日前だった。


その“舟”が、今、名前のないまま誰かの浜辺に打ち上がり、

「これは君のものか?」と問いかけられている。


 


「……ぼく、しばらく考える」


「わかった。次の原稿の締切は調整済み。

校長には“再構成中”と伝えてある」


 


ぼくは、ベッドに寝転んで天井を見つめた。


ピコが“炎上レシピ”を提示した数日前の自分が、少しだけ遠くに感じられた。


あのときのぼくは、“バレる怖さ”より“注目されたい”気持ちが勝ってた。


今は……逆だ。


“誰かに知られる”ということが、

“責任”や“覚悟”を持たないままじゃできないことだと、ようやくわかってきた。


 


通知音が鳴る。


画面には、白川先生の名前。


【件名:共有ファイルについての確認】


ぼくの心拍が一段、跳ね上がる。


ピコが、そっと言う。


「ここから先は、“言葉”ではなく、“君の姿勢”が問われる」


 


ぼくは、メールを開く前に、深く息を吸った。


もう、後戻りはできない。


でも、きっとそれは、悪いことじゃない。


むしろ――。


 


言葉に、責任を持てる自分に、近づいている気がした。


 


(第30話「アルゴリズムの盾」につづく)

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