第9話 職員室の本音録
放課後の職員室は、昼間よりもやわらかい沈黙に包まれていた。
生徒たちがいなくなった校舎は、ほんの少しだけ大人の空気に変わる。
廊下に響くのは、誰かの足音か、教卓を片づける物音か。
時おり、コピー機の排紙音が乾いたリズムを刻む。
その静けさの中、坂井校長は、職員室の隅にある給湯スペースで、湯を注いだマグカップを両手で包んでいた。
カップのふちから立ち上る湯気が、午後の光に溶けてゆく。
カフェインを控えているつもりだったが、こうして湯気の香りを感じるだけで、なぜか少し落ち着いた。
そのときだった。
「坂井先生……見ました? 例のタグの話」
そう声をかけてきたのは、情報科の若手教員・篠崎だった。
「ああ、#校長レトロ説、だろう?」
「やっぱ見ましたか。あれ、かなりバズってますよ。
生徒の間じゃ“金曜日のネタ祭り”って呼ばれてるくらいで」
「……それは、それで名誉なのかもしれないね」
校長はマグを軽く揺らし、苦笑する。
篠崎は続けた。
「それにしても、あれ、文章うまいですよね。比喩の使い方とか。
読んでて“ああ、これは狙って書いてるな”って感じがしました」
「うん。ぼくもそう思ったよ。冷笑じゃなくて、観察とユーモア。
悪意というより、“伝えようとする意志”がある」
「実は……思い当たる子が一人いて」
その言葉に、校長の手が止まった。
「誰だい?」
「直接の確証はないんですけど……○年○組の△△くん(またはさん)。
あの子、国語の作文で書いてた“無音の体育館”って表現、すごく印象に残ってて。
あの投稿の中の“時間の止まった空気”って比喩、ちょっと似てるんですよ」
「……なるほど」
坂井校長は、もう一度マグを手の中で転がすように握り直した。
本当に、その生徒なのか?
それとも、ただの偶然?
校長は、昨日読み返したアンケートの中に、その名前があったことを思い出していた。
自由記述欄の末尾に、ひと言だけ、こう書かれていた。
「もし話すのが苦手なら、誰かに書いてもらうのもアリかもしれません」
──書いてもらう?
そのときは、冗談半分の提案だと思った。
でも今なら、それが“真剣な投げかけ”だったのかもしれないと感じる。
誰かが、“言葉を届ける方法”を模索している。
それは、校長自身の願いと、どこかで交差していた。
「坂井先生……怒ってないんですか? 書かれたことに対して」
「怒ってどうする? “面白くない”と言われた講話より、
“面白い”と言われてる言葉の方が、ずっと“生きてる”と思う」
「……なるほど」
「それに、たとえ匿名でも、あの子は“伝えよう”としてくれたんだ。
笑いに変えて、届く形に変えて。 それを、ぼくは無視できないよ」
職員室の中では、他の教師たちがテスト返却の準備をしたり、週報を書いたりしていた。
そのざわめきの中で、校長の声だけが、どこか静かに沈んでいた。
「……会ってみたいな、その子に。
“ぼくの言葉”じゃなく、“君の言葉”で、
次の朝礼を一緒に作れないかって」
それは、一見すれば責任の放棄とも取られかねない発言だった。
けれど、坂井校長の目には、確かな決意が浮かんでいた。
“話すこと”ができなくても、
“書くことで伝えられる人”がいる。
その力を、借りたい。
自分だけでは届かない場所に、
誰かの言葉が届くなら、それはきっと意味がある。
その“誰か”が、教室の中にいる。
ひっそりと、でも確かに言葉を持っている生徒。
そして今、それにようやく校長自身が気づきかけている。
(第10話「“この文体、誰だ?”」につづく)
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