兆
立川警察署の署長室で署長、副署長、各課長が集まって会議が開かれている。
「巌組は、今でこそ穏健派の経済やくざとして知られています。しかし、過去、ある事件が起こるまではごりごりの武闘派でした。その名残は今でもあって、自分たちから抗争をしかけることはありませんが、売られたケンカは買うという姿勢を堅持しており、一度やると決めたらえげつないやり口で徹底的に潰しにかかる残忍さを持っています」
刑事組織犯罪対策課長が巌組の概要について説明した。
「そして、今回は警察から巌組、というか巌組の総長にケンカを売った形なわけだな」
署長が苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「はい。総長の中之郷がキレた場合、何をしてくるかわかりません。場合によっては殉職者が複数出てもおかしくない連中です」
刑組課長は、自分の指先が冷たくなっているのを感じていた。
「失礼します」
署長室のドアをノックして若い刑事が生活安全課長にメモを手渡して退室した。
「少年を母親が迎えに来るそうです」
メモを一瞥した生活安全課長が全員に伝える。
「一人でか?」
副署長が質問した。
「はい、少年係からはそのように報告されました」
生活安全課長が額に汗を浮かべている。
「少年の母親ということは、中之郷の妻、だな」
署長の眉間に深い縦皺が寄る。
「有名なことなのでご存じかと思いますが、元警視庁の警察官です」
刑組課長が補足した。
「総長の妻が単独で来るとは思えん。ボディーガードも付いてくるだろう。場合によっては報復も考えられる。目立つことは避けなければならないが、こちらも厳重に警戒するように。念のため備一(※)に依頼して銃対(※)にも待機させておけ」
※ 備一:警視庁警備部警備第一課の略。機動隊の運用を統括する。
※ 銃対:銃器対策部隊の略。警視庁機動隊の各隊に設定され、銃器等を使用した事案への対応を主たる任務とする。
署長の指揮が発せられ、会議は散会となった。
「拝島の地域課長です。この度は署員がとんでもないことをしてしまい大変申し訳ありません」
署長室での会議を終えて自席に戻った副署長の前に拝島警察署の地域課長が現れ、深々と頭を下げた。
「いや、まあ、お互い悪い時期にそれぞれの所属にいただけで、交通事故みたいなものです。とはいえ、課長さんは管理責任を問われてしまうからお気の毒ではあります」
「いえ、私の監督不行き届きですので、やむを得ません」
「ところで、松島部長には、今回のことにつながりそうな『兆』のようなものは把握されていなかったのですか?」
「はい、女子高生がよく交番に遊びに来ていることは把握していました。ですが、相勤員もいるところですし、まったくおかしな様子もありませんでしたので、こんな関係にまで発展しているとは想像もしていませんでした。完全に不覚です」
地域課長が歯噛みした。
「日頃の仕事ぶりはどうだったのですか?」
「非の打ち所がない好青年といった感じでした。職務質問もよくするし、巡回連絡も手を抜かずきっちり回っていました。なにしろやくざ者の扱いがうまいので、1年くらい地域で頑張ってもらったら暴対に、と刑組課長とも話をしていました。それがまさかやくざの組長の娘に手を出したなんて、信じられませんし、信じたくもありません」
「難しいもんですな。人事管理というのは」
副署長が深いため息をついた。
「それでは、松島をお預かりしていきます。しばらく自宅、といっても寮員なので自室待機を命じます。必要があればいつでも呼び出してください。必ず出頭させます」
地域課長が一礼して松島の身柄を引請けに行った。
拝島警察署に連れ帰られた松島は、地域課の課長代理から懲戒処分上申用の供述調書を取られ、寮に帰宅したのは翌日の朝であった。
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