第九夜 カウントダウン

これは正樹さんが8年程前に体験された、当時彼が住んでいた家にまつわるお話である。


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僕ね、二十歳で専門学校を卒業するまで実家住まいだったんですよ。

就職が決まって一人暮らしを始める時は、めちゃくちゃ楽しみな反面、結構不安もありましたね。

ぶっちゃけ就職先はあんまり給料が良くないのは分かってましたから、会社の近くで出来るだけ家賃の安いところを探したんですけど、あんまりのんびり探してる時間もなくて不動産屋をハシゴしたり、まぁなかなか大変でしたね。


そんな中で、ある不動産屋が勧めてくれた物件がかなり好条件だったんです。

駅徒歩5分の住宅街にあるアパートで、風呂トイレは別、キッチンはガスコンロ据え付け、2階建ての2階角部屋で、狭いワンルームですけど小っちゃいロフトも付いてる。

築年数も10年ちょっとでわりと新しい。

都心から結構離れていたとは言え、一応東京ですからね、似たような条件で探すと大体8万円前後が相場でしたけど、このアパートは破格の管理費込み5万円だったんですよ!

もう、その日のうちに内見に連れてってもらって、そのまま契約まで済ませちゃいましたね。


後になって考えると、色んな不幸が重なったというか...

例えば家賃が1万円とかだったら、流石にこれは怪しいぞ、となってたと思いますけど、なんとも絶妙な価格設定でしたから、これは掘り出し物だと飛びついちゃった。

あるいは内見がもう少し遅い時間帯であれば、ちょっとこの部屋良くないかもと気付いたかも知れない。

何が言いたいかというと、このアパート、壁がおっそろしく薄かったみたいで、隣の部屋の音が丸聞こえだったんですよ。

立地は住宅街で細い路地沿いなんで、車もほとんど通らない。

真っ昼間に内見したもんだんだから、隣人もいなかったみたいで、本当に静かなもんだったんです。


で、引っ越し済ませまして、一人暮らしだから大して荷物もない、家具も家電も必要最小限ですからあっという間でした。

荷解きもあらかた終わって一息つこうとテレビの電源を入れた途端に『ドンッ』ですよ。

隣の部屋から相当強く壁を叩かれたような音が聞こえて、あぁそういう事かと初めて気づいたんですね。

テレビの音量はそんなに大きくなかった、というか、むしろ小さめだったんですよ。

だから、この部屋は壁が薄いだけでなく、隣人がややこしいから住人が定着しなくて、結果家賃が安くなったんだなぁ、と。


いや、あそこのアパートの壁の薄さはマジで酷かったですね。

よくジョークであるじゃないですか、右隣の部屋の住人がオナラをしたら左隣の部屋の住人から壁ドンされる、とか、フロアの真ん中あたりの部屋のドアチャイムを鳴らすと同じ階の住人が全員出てくる、とか。

冗談抜きでそんなレベルでしたね。

テレビの音や電話する声が聞こえるどころの騒ぎじゃないんですよ。

隣の部屋のやつが歩くノシノシって音が普通に聞こえる、上じゃなくて隣ですよ!?

下手したら、ティッシュを箱から引き抜く音まで聞こえかねない感じでしたね。


おまけに隣人が相当ヤバい奴っぽくてですねぇ...

こちらの物音に反応して壁ドンしてくるのは、まぁ仕方ないというか、あの壁の薄さだと気持ちが分からないでもないんですけど、じゃあ自分は静かに生活してんのかと言うと全然そんな事なくてですね。

もぅ、うるさいんですよ、何もかも。

どう考えてもこちらの事なんか気遣ってなくって、何時でも関係なく洗濯機を回すし、ドアはバタンバタン開け締めするし、テレビなんか普通の音量で見てゲラゲラ笑い声をあげるし...

そのくせこちらの些細な物音には速攻で壁ドンしてくるんですよ。

携帯をマナーモードにし忘れて着信した時なんか、壁が破れないか心配になるくらい壁を殴ったうえに「うるせぇ!殺すぞ!」なんて怒鳴り散らしてきて、うるさいのはどっちだよって話ですよねぇ...

一応引っ越してすぐの頃に何度か挨拶に行こうとしたんですけど、仕事終わりは毎日遅かったんで迷惑だろうし、生活時間が違うのか昼間や夕方はいつ行っても不在なんで諦めちゃって、結局最後まで顔を合わせることもなかったんですよね。


え?苦情ですか?

いやぁ、そんなどう考えてもアレな人に苦情なんて言えませんよ。

見て下さいよ、僕のこの可憐な細腕。

管理会社経由で言ったって、逆恨みされて自分一人の時に突入されたらアウトですし。

自慢じゃないですけど、僕は喧嘩はからっきしですから。

鍵掛けて籠城しようにも、壁ぶち破って入られそうな部屋ですしねぇ...

勿論、直ぐに引っ越すような経済的余裕なんかない。

なんで、騒音に耐えながらひっそりと息を潜めて生活するしか選択肢がなかったんですね。



実は僕自身、静かに生活するのはそんなに苦じゃなかったんです。

実家は親父が夜間専門の警備員で、お袋は看護師で生活時間がコロコロ変わるし、年の離れた兄貴は土木関係で勤めてたから早寝早起き、姉貴は夜職をしてたんで夜中や明け方に帰宅する、要は家の中で常に誰かしらが寝てるような家庭だったんですね。

皆仕事でクタクタになってんのは分かるから起こしちゃうのが可哀想で、自然と実家では静かに過ごすのが身についてたんでしょうね。

だから、余計に隣人の無遠慮な生活音にはストレスを感じましたね。

我ながら、よく4年近くも住んだもんだと感心したいくらいですけども、やっぱり家賃が3万違うのはデカかったですね。

あの出来事がなかったら、次の更新までは、いやもうあと2年くらいはって、ズルズルと住み続けてたかも知れないですね。


前置きが長くなっちゃいましたけど、ここからが本題なんです。

2回目の更新時期の前、そのアパートに住み始めてもうすぐ4年になろうかって頃、仕事が酷く忙しくなりましてね。

元から忙しかったのは忙しかっんたんですが、その頃には更に悪化しまして、給料はさっぱり上がらないのに押し付けられる仕事は山積みになってきて、常に追い立てられてる状態だったんですよ。

その日も翌朝までに仕上げないといけない資料があって、自宅に持ち帰って仕事をしてたんです。

寝てしまわないように、ヘッドホンをしてお気に入りのプレイリストを流しながら、ノートパソコンで資料作りをしてたんです。

自宅に帰ったのが22時過ぎくらいだったかな、早く仕上げないと睡眠時間が取れないんで、わりと必死に仕事をしてたんですね。


で、ふと気がつくとヘッドホンから音楽が聞こえない。

部屋の中はシーンと静まり返っている。

いつの間にか寝落ちしてたみたいなんですね。

まずい、どのぐらい寝てしまったのかとちょっとパニくりまして、プレイリストが2時間ちょっとだから、なんて考えながらパソコンモニターの時計を見ようと思ったら、身体がピクリとも動かないんです。

金縛りだと気付いた時は、本当に絶望的な気持ちでしたね。


いえ、金縛り自体は普段から結構なってたんですよ。

忙しくて慢性的に疲れてましたし、睡眠時間も常に不足気味だったんで、慣れっこになるくらいには金縛りになってたんです。

ただこの時は、キーボードの上に手を乗っけたままで金縛りになってたんでしょうね、モニターいっぱいに数字の羅列が表示されてて、一番下の列にどんどん文字が出て来てる状態で...

最初は、保存したのいつだっけ、フリーズだけはしてくれるなよと、そんな事を祈るような気持ちでいたんですけど、一向に金縛りが解ける気配がなくってぼんやりとモニターを見ていることしかできなかったんです。

モニター上には数字の9がびっちりと並んでいて、一列、また一列と9が書き足されていました。

金縛りになる時って、意識はあるけどなんとなく霞がかかったようなと言うか、薄ぼんやりとした感じにいつもなるんですけど、その時はやけに意識がハッキリしてましたね。


異変が起きたのは、数分ほど経った頃だと思います。

いえ、金縛り中の体感ですから全く当てにならないですけど、そんなに長い時間は経ってないと思います。

モニター上に流れるように打ち出される数字が、いつの間にか8になっていたんです。

おかしいですよね、金縛りで全く身体が動かない、目線すら動かせない状態なのに、違うキーを押せるわけがない。

9と8だから見間違えてたのかな、そんな事より仕事続けないとまずいな、なんて、後から考えたらえらく呑気な事を考えてたんですが、今度は数字が7になった。

当然、身体は一切動かないままです。


この辺りで、『あっ、これまさかカウントダウンしてるのでは』と気付いちゃって、もう駄目でしたね。

一度怖いと思ってしまうと、あっという間に頭ん中恐怖で埋め尽くされちゃって、何も考えられない。

ナニコレ、コワイ、ナニコレ、コワイで一杯ですよ。

そうこうしているうちに画面は6で埋まってく。

恐怖体験をした時に必死でお経を唱えて、みたいなのをよく聞くじゃないですか。

無理ゲーですよ、あんなの。

アレを唱えなきゃ、何だっけ、アレ、みたいな。

お経って単語すら出てこなかったですもん。

アレをソレしなきゃ、なんてやってるうちに、数字が5に変わる。


この辺で、どうにか身体が動かないかって足掻いてみたんです。

胴体を揺すぶろうとしてみたり、足の指先なら動くかもとか、せめてキーボードの上の指だけどかせないかとか、口の中で舌を動かせないかとか。

やっぱりピクリとも動かないんですね。

俺は今、呼吸できてるのか、とか考えてるうちに数字は4、3と変わっていく。

これ、ゼロになったらどうなるんだろうって、今更考えて、考え出すとますます怖くなってくる。

怖くて目を瞑ってしまいたいのに、瞼も動かない。


画面の数字が2になった頃には、もう頭の中は『誰か助けて』以外の事を考えられなかったです。

自力じゃもうどうにもならない、神様でも仏様でも何でもいい、って。

普段は無宗教で生きてて、都合のいい話ですけど。

いよいよ数字が1になると、縋り付く対象は母親になるんですね。

映画なんかでよく見る、屈強な兵士が死ぬ間際に『ママっ』て呟くようなの、あれほんとになるんですよ。

そんなに仲良しな訳でもないのにお袋の顔が浮かびましたもん、何故なんでしょうね、あれ。


数字は大体同じくらいの間隔で変わってたんです。

だから、もうそろそろゼロになるのが、何となく分かるんですよ。

頭の中はもうぐちゃぐちゃで、何にも考えられない。


で、到頭モニターの数字がゼロになってしまったんです。

その瞬間、ヘッドホンの中から女性の悲鳴が、いや、ちょっと違うかな、断末魔の叫びみたいな、キャーってよりギャーって感じのが大音量で鳴り響いたんです。

それが聞こえた途端、体がビクンと跳ね上がって動くようになって、気付いたら僕も絶叫してしまってました。

直後に隣人から盛大な壁ドンがきまして、間髪入れずに「うるせぇぞクソボケ!死にてぇのか!」って怒鳴り声が飛んできて...


日頃あんなに煩わされてきた顔も知らない隣人の存在が、この時ばかりは本当に頼もしいと言うか、心強く感じましたねぇ。

薄っぺらい壁一枚隔てたすぐ隣に、少なくとも生きてる人間が居ると思うと凄く安心しましたね、例えそれがどんな輩であっても霊よりはいくらかマシだわ、って。

よく怪談なんかじゃ『本当に怖いのは生きてる人間だ』みたいな話、あるじゃないですか。

僕はあれ、否定派ですね。

僕が経験した心霊現象と呼べるものは後にも先にもこの一度きりですけど、もう一度あんな体験をするくらいなら、隣人が壁を蹴り破って乱入してきてボコられる方がよっぽどマシです。

目に見える実害があった訳じゃないですけど、あんなのが度々あったらとてもじゃないけど精神がもたないですよ。


いや、ありました、実害。

その日作ってた資料のファイル、途中まで作った内容の続きが数字の羅列になったんならそこを消せばいいだけですけど、まさかの上書きされてたんですよ。

ちゃんと数字は残ってて、最後はゼロで止まってたんで、金縛り中の現象は間違いなく本当に起こってたんだ、って思うとゾッとしましたけど、それ以上に朝までに一から資料を作り直しかと思うと、そっちの方がより絶望しましたね。


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正樹さんはその後、二度目の契約更新を行わずにこのアパートを引き払ったそうだ。

そうして、このアパートに住む切欠となった安月給の職場にも見切りをつけ、同業の友人の伝手を辿って現在の職にありついたのだと言う。


幸いなことに現在は仕事も順調で充実した日々を送られているそうで、塞翁が馬、禍福はあざなえる縄の如しとはよく言ったものである。

常軌を逸した現象と、同じく常軌を逸した隣人、果たしてどちらが禍であったかは、定かではないけれども。


-了-


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