第四夜 初夜

このお話は、一時期贔屓にさせていただていた美容師の美香さんから伺った、彼女とその旦那さんの体験談である。


注意喚起の記載がない事からお気付きの諸兄もあろうが、本話には艶めかしい内容は含まれないのでご承知おきいただきたい。

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美香さんと旦那さんは小学校の入学式で出会い、高校在学中に付き合いだして7年目に同棲を始め、3年の同棲期間を経てご結婚されたというから、20年以上の付き合いになる。

交際を始めて10年の記念日に入籍、と言うとなかなかロマンティックな話のように思えるが、ご本人曰く、大きな記念日にでもしておかないと最後までしなさそうだったから、とそんな程度の感覚だったそうで、結婚式も挙げず籍だけ入れたのだそうだ。

二人で休みを合わせて取り、二人揃って市役所へ赴き、婚姻届を提出した後は近くに住まいを構える旦那さんの両親宅へ報告がてら立ち寄り、帰りに普段遣いには少々ためらいを覚えるお高めのレストランで食事をした。


旦那さんのご両親とは至って良好な関係だそうで、漬物が改心の出来だからといってはお裾分けに行き、夫婦揃って仕事が遅くなる日には夕食をご馳走になりに行き、時には義母と連れ立ってアイドルのコンサートを見に行くほどで、父親の仕事の都合で遠方に住む実の両親よりもよほど顔を合わせているくらいだった。

義理の両親は結婚式を挙げないことにも反対せず、「自分達の人生なんだから、好きに生きなさいな」と、ただただ喜んで祝ってくれた。

要するに、入籍した事は単に世間的な体裁を整える為の通過儀礼であって、世間一般によく耳にする親戚間の付き合いだの、嫁姑の確執だのと言ったストレスとは無縁の、ごくありふれた一日だったのだそうだ。

二人は自宅に帰ると、何ということもなく普段通り床についた。


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その夜、美香さんは夜中にふと目を覚ました。

ボンヤリとした頭で、珍しいな、と思う。

彼女は普段からすこぶる寝つきがよく、一度寝てしまうと中々起きてこないし朝も起こすのに難儀していると、日頃から旦那さんにからかわれているくらいで、何の切っ掛けもなく夜中に目が覚めてしまったことなど片手で数えて指が余るほどしか無かった。

自分ではさほど意識して無かったつもりだったけれど、心の何処かではやはり結婚を特別な出来事と思っていたのだろうかと、微睡みながら考える。


夫に対して、愛情は勿論あるが、付き合いたての頃の燃えるような恋心とは、やはり違う。

10年という月日の長さに思いを馳せ、積み上げてきた思い出の数々を取り留めもなく咀嚼するうちに、ふと思う。

今、彼の方を見たら彼も偶然目を覚ましていて、目が合う。

そんな事があったらちょっとドラマティックでときめくかもな、とそんな事を考え、思わずふふっと小さな笑いが溢れた。

結婚したその日に、そんな小さな奇跡が起こることを少しだけ期待して、美香さんはすぐ右隣に眠る旦那さんの方にそっと顔を向けた。


彼は美香さんに背中を向けていた。

のみならず、常夜灯の薄明かりの下でも分かる程に、ガタガタと震えていた。

まさか風邪でもひいて熱が出たのかと心配になり、彼の肩に手を添え「ねぇ、大丈夫?寒いの?」と声をかけた。

途端、彼の震えはピタリと止み、静かな寝息をたて始めた。

何が起きているのか分からぬまま、念の為彼を起こそうか迷っているうちに抗い難い眠気が訪れ、美香さんはそのまま眠りに落ちてしまった。


翌朝、先に起きて朝食の準備をした旦那さんにゆすり起こされた。

眠い目を擦りながらリビンクへ行くと、旦那さんはいつもと変わらぬ笑顔で、コーヒーを淹れてくれる。

美香さんはこの時点で昨夜の出来事が夢か現実かすっかり分からなくなってしまった。

いっその事本人に聞いてしまえと「ねぇ、昨日の夜中さ...」と言いかけたところで、旦那さんがすっと真顔になった。

あまりに突然な表現の変化に二の句を継げずにいると、旦那さんの口から驚くべき言葉が発せられた。

「やっぱり、夢じゃなかったのか」と。


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以下は美香さんが聞いた、同じ晩の、旦那さん視点での出来事である。


彼は入籍を予定していた日が近付くに連れて、ほんの少し不安を感じていた。

かねてより彼女のご両親が、何かあった時の為にと入籍を勧めていた事は、知っていた。

それを彼女がやんわりといなし続けていた事も。

お互いに好きな事を仕事にして、それなりに忙しく働いていることを言い訳にズルズルと結婚を先延ばしにしてしまっている事は、負い目として彼の心の奥底に澱のように堆積していた。

だから彼女が何の気なしに「一応、籍だけ入れとく?」といった時、彼は考えるまでもなくその提案を受け入れた。

と同時に、本当は彼女がそれを望んでいないのではないかという、新たな澱が積層を成し始めた。


彼女は自分の両親とも、上手くやってくれている。

なんなら、母とアイドル談義に花を咲かせている時など、自分と過ごしている時よりも余程楽しげにしているように見える事さえある。

けれども、彼女が本心を押し隠していないなど、どうして言い切れようか。

彼女は、優しいのだ。

自分に気を遣って万事問題ない風を装っていないとは確信できなかった。


そんな事を一人悶々と思い悩みながら、入籍前の数日を過ごした。

ところが当日、彼女は想像していたよりもずっと、普段通りの彼女であった。

ちょっと転居の手続きでもするかのように気軽に婚姻届を提出し、手続きの待ち時間が長いと子供のように頬を膨らませた。

破顔して祝福する両親に対し、それ以上に破顔して母の差し出す手を握っていた。

日頃は中々手の出せない価格帯のイタリアンをペロリと平らげ、次はまた十年後かなと名残惜しそうに笑った。

そこには10年も、いや、それよりももっと長く愛し続けた、いつもの彼女がいた。

妻の穏やかな笑顔を見てようやく彼は心底安心し、そのまま幸せな気持ちで床についた。


その夜、彼は夜中にふと目を覚ました。

日頃から眠りが浅く、些細なことでも目が覚めてしまう彼にとって、それは驚くようなこともない日常であった。

いつも布団に潜り込めむとすぐさま寝息をたて、朝まで微塵も動かず眠り続ける妻のことを、羨ましく思う事もある。

だが、彼女の寝顔をそっと眺めるひと時は彼にとって幸せな時間でもあった。

常夜灯が仄かに照らすのみの暗い部屋で、彼はしばし二人で過ごした思い出に浸り、そうしてふと思う。

今日という特別な日くらい、彼女もなかなか寝付けないでいるのではないか、すぐ隣にいる彼女の方を見たら目が合ったりするのではないか、そんな予感めいた思いに駆られ、左に寝返りをうつ。


目の前には、足の裏があった。

一瞬状況が飲み込めず、目線だけを上げると足の上に乗ったパジャマ姿のお尻、次いで上着の裾から僅かに覗く背中、薄暗闇でもはっきりと見える鮮やかな金髪が目に入る。

彼女が枕元に、壁の方を向いて正座で座っていると認識した時、ますます彼は混乱した。

彼女は眠りについた時の体勢と目覚めた時の体勢が寸分変わらぬほど寝相が良い。

寝ぼけて夜中に起き上がっているところなど、ただの一度も見たことがない。

明らかに普段の彼女では考えられない事が起きている。

驚きながら視線を足元に戻し、いよいよ混乱は恐怖に変わった。

正座する彼女の足越しに、寝ている彼女の横顔が見えた。


寝ているのも、正座しているのも、どちらも同じ彼女のように思えた。

お気に入りのパジャマも、髪の色も、後ろ姿も、静かに眠る横顔も、どれも見慣れた彼女のものだった。

何度も視線を上下させ、二人の彼女を見比べているうちに、寝ている彼女が突然「ふふっ」と小さく笑った。

その笑い声に反応するように、正座している彼女が振り向きそうな素振りを見せ、彼は慌てて寝返りをうち彼女に背を向けた。

何故かは分からないが、自分が起きていることを悟られてはいけないと思ったのだ。

どうにかして寝ているふりをしなければいけない、けれども、自らの意思に反して体がカタカタと震えだす。

右手で左肩を抱え込むように押さえつけて震えを止めようとするが、まるで寒空の下で裸のまま寝ているかのように体が制御できない。

呼吸が荒くなるのを防ごうと深呼吸をした刹那、首筋の辺りに冷たい手が触れ、同時に「ねぇ、大丈夫?寒いの?」と彼女の声が聞こえた。

それがどちらの発した言葉だったのかを考える暇もなく、彼は気を失ってしまったのだという。


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や、そんだけなんですよ。

オチがなくってスミマセン、でもそれからも2人ともピンピンしてますし、ちょっと過労気味なのを除けば病気もしてないですし、家に何か出るわけでも、不幸な事故が起こるわけでもない、至って平穏な日々ですよ。ちょっと過労気味なのを除けばw


そうですねぇ、最初は旦那も怖がってたみたいですけど、お互いの見た事、考えてた事を擦り合わせたら、なんだうちらめちゃくちゃ両想いじゃんって方が勝っちゃって、なんか結婚する前よりラブラブなんですよね。

あ、スイマセン、めちゃくちゃ惚気ちゃって。


何ていうか、不思議な体験ではありますからね、たまに思い出して話すんですよ。

私が二人になったらどうするよ、って。

この前なんか旦那のヤツ、食費がかかり過ぎるからちょっと困るかな、何て言うもんだからケツ蹴り上げてやりましたよwww


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ネックレスにぶら下げた結婚指輪を、証拠ですと言わんばかりに示してみせる美香さんの幸せそうな笑顔を見て、私はこの話を考察することを、やめた。


壁に向いて正座する妻が夫の見た幻だったとか、あるいは何事か思いを抱えた妻の生霊だとか、ドッペルゲンガーだとかよく似た別人の霊だとか、そんな考えは二人の幸せな日常に比べれば、全くの些事であろう。


雨が降って地が固まり、怪異も悪さをしないのならば、よろず事もなし。

仲睦まじい二人に特大の幸あれかしと、心より願うばかりである。


-了-


candleCount -= 1;

console.log("Remaining: 96 candles");

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