第三夜 余燼

見える人には、本当に様々な方がいらっしゃる。


人型に見えるとか、気体のように見えるとか、半透明に透けて見えるとか、魂の形が見えるとか、死んだ時の状態で現れるとか、全盛期の状態で現れるとか、生きた人間と見分けがつかないとか、いやいやあんなもん生きた人間と見間違えるかよとか、etc、etc、etc...


とにかく霊の見え方というのは、見える人の数だけ種類があるとまでは言わないけれども、千差万別なのだなと思う。

私は原則として、それら全ての言を、即ち、霊が見えるという申告の一切を肯定するスタンスである。


誤解なきようにお伝えすると、心霊現象そのものについては、私はどちらかと言うと否定的な立場である。

消極的否定派、とでも言おうか、ざっくばらんに言うならば「別に霊がいたって構わないし、なんならいてくれた方が面白いけど、存在が証明されてない以上、やっぱいないんじゃね?」である。


霊現象は信じないのに霊能者は信じるのか、矛盾しているだろ、と突っ込みが入りそうなところではあるけれども、私の中でこの2点は全く相反せずに成り立っている。

何かを信じるという行為は多くの場合、体験か理屈のいずれか、もしくはその両方を土台に成立する。

私は明確に霊体験と断定できる事象に遭遇したことがないし、世の中には霊の存在を正しく証明した(と納得できる)学説もない、だから霊の存在は信用できない。

一方で、『霊能力があるとしなければ他に説明のしようがない人』とは、何人かお会いしたことがある。

彼らの特異な能力を論理的に説明することは勿論できないのだが、理屈は伴わずとも体験したから信ずるに能う、となるのだ。

ただし、『金銭の授受や利害関係の発生しない範疇で』信ずる、という条件付きではあるが。


左様であるから、私は本話を提供して下さった真理さんが霊を見た、見えていた、という事象を何ら疑うものではない。

また、『霊能力はないけど心霊体験をした』という人の言についても、原則として信用するようにしている。

こちらについては、元より他人の『体験』など、真偽を確認することは不可能であるし、それが真であろうが偽であろうがどちらでもよかろう、とすれば真だと思って聞いたほうが面白いじゃん、というだけの話である。


そのような前提に基づいて、本作は『霊を信じない著者による、実体験に基づいた伝聞形式の実話(風)怪談百物語』などというややこしい存在として発生している。

げに人の業とはあやしきものである。


ちなみに霊を見る力を失った真理さん、その後は心霊現象と無縁の人生を送られているかと思えばさにあらず、見えなくなった以降も何度か不思議な体験をされており、この内2話ほどをご提供いただいている。

げにあやしきは人の生、といったところか。

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