第一夜 鏡の中の顔

「これ、怪談と言ってよいのかどうか、悩ましいところなんですがね...」

大沢氏は自らの顎髭を撫でながらそう言うと、暫しの間、どこか懐かしむような眼差しで遠くを眺めていた。


彼は40代の男性で、いくつかの怪談を私に提供してくれた人物である。

以下の体験談は、彼から聞かされた最初の怪談だ。

当人の言にある通り、怪談として分類すべきかは意見の分かれるところかもしれないが。


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20代の頃、私の周辺にうつ病の人がやけに沢山いた時期がありましてね、5年ほどの間に知り合った中に8人だったか、9人だったか、職場の同僚やプライベートの友人も含めるとその位の人数はいたんですよ。


まぁ、今で言うところのブラック企業に勤めておった頃なんで、当然と言えば当然なのかもしれませんけども、それにしても多いんじゃないですかね。

おまけにうつを患った後輩のうち何人かは、私がサポートするように会社から指示されましてね。

何の資格も持っていない、専門教育も受けていない人間にうつ病患者のケアをさせるなんざ、正気の沙汰とは思えないですけども、当時はまだその辺の理解もあまりなかった時代ですからねぇ...


面倒を見ていた、なんて言うのもおこがましいですが、後輩が自分の言動のせいで世を儚んで、てな事もないとは言い切れませんから、素人なりに本なんか読み漁りまして必死で対応しましてね。

幸い自死を選ぶような人は出さずに済みましたけども、思い返せばホント、碌でもない会社に勤めていたもんだと笑うしかないですわ。


いや失礼、話がそれました。

当時私の周りにいたうつの人らの中に、今もって忘れがたい人が二人いましてね。


1人目はK君といいまして、年は私のふたつ下だったかな。

部署は違いましたけれども、同じ社員寮住まいで部屋も近かった縁で仲良くなりまして、時々飯なんか一緒に食べに行く友人だったんですね。

非常に爽やかで、気持ちのいい笑顔を見せる男だったんですがね、少々正義感の強すぎるきらいがありまして。

普通の人なら気にせずほっとくような些細な不正を指摘したとか何とか、そんな事で先輩社員と揉めてしまったそうなんですね。

先にも言った通りそこそこのブラック企業でしたからね、仕事が激務続きで休む事もままならないところに、人間関係のもつれでもって更に精神を削られてしまったんでしょうな、日ごとに少しずつ塞ぎ込んでいくのが見えるようでねぇ...


ある日の朝、時刻は7時を少し過ぎたくらいだったか、社員寮の私の部屋のドアをノックする者がおったんです。

寝起きでぼんやりした頭で時計を見て、誰がこんな朝っぱらからと思ったんですがね、ドアの方からK君の切羽詰まった声が聞こえる。

相談したいことがあると、その声の調子があまりにも深刻そうだったもんで、私も慌てて自室に招き入れましてね。


K君曰く、少し前に起床して、身支度を整えようと洗面所に行ったそうなんです。

前日も遅くまで残業して、睡眠時間も満足に取れていない、疲れの残る体を引きずるようにして洗面台に向う。

ベッドからユニットバスまでがやたらと遠く感じる。

どうにか洗面所にたどり着き、顔を洗い終えて鏡を見ると疲れ切った自分の顔がある。


仕事に行きたくない、けど行かないわけにはいかない、でもやっぱり行きたくない...

やつれてこけた頬を撫でながら、鏡にうつる渋面ぶら下げた自分としばし不毛な押し問答をして、結局は『食う為には働かざるを得ない』といつもの結論に至る。

さっさと身支度をしてしまおうと顔を洗い、シェービングフォームと丁字剃刀を手にとって、再び鏡に向きなおると...


鏡の中の自分がニタニタと笑っていたそうなんです。


もちろん、K君自身は笑おうなんて気は毛頭ない、笑っていたつもりもない。


ところが驚いて自らの顔を触ると、確かに笑っているような形にはなっていたそうなんです。


「それを見て、このままではもうダメなんだなと、決心がつつきました」

これまで一度も見たことがない嫌な笑顔のまま、K君はそう言ったんです。

私の部屋に招き入れた時から、彼はずっとニヤニヤと笑っていました。

普段の爽やかな笑顔とは似ても似つかない、嫌らしい笑顔というか、酷い言い方ですが邪悪さすら感じるような表情でしてね...

声色や話しぶりは深刻そのものなのが、表情とのギャップもあってなんとも不気味でしてねぇ。


その日、私は人事担当者のとこに向かうK君に付き添いましてね、ああいう時ってのは気の利いた言葉も出てこないもんなんですよ。

K君はそのまま一月ほど休暇を取って、そのまま会社を辞めちまったんです。

社員寮の自室を引き払うって日にわざわざ私んとこにも挨拶しに来てくれまして、何の力にもなってやれなかったのに、何度も頭を下げながら礼を言う姿には本当に居た堪れない心持ちになりましてねぇ。

その日はすっかりいつもの笑顔を取り戻してまして、それだけが救いと言えば救いでしたかね。


ただまぁ彼の場合、鏡の中の彼自身が笑っていたのはオカルトでも何でもありませんわな。

過度なストレスがかかると表情筋が言う事を聞かなくなって全くの無表情になるだとか、おかしな顔のまま固まっちまったりなんてのは普通に起こりうる事なんだと、聞きかじった事がありましてね。

私も驚きはしましたが、ある種の疾患の症状、と受け止めておったんです。

本当に不思議だったのは、もう一人の方でして。


K君の出来事があってから2年ほどで、私も転職をいたしましてね。

色々と考えるところもあって、自分も彼と同じように本格的に精神をやられる前にとっとと逃げ出した訳です。

まぁ、逃げた先もまた地獄、なんて話は世の中に掃いて捨てる程ありまして、新たな職場でもそれなりに酷い働き方をしてはいましたがね。


この職場に、Nさんという女性がおりまして、当時20代の半ばくらい、若いのに随分と真面目でして何をするにも一所懸命に取り組む方だったんですけれども、悪いことに先輩に目をつけられたそうでしてね。

所謂お局様と呼ばれるような人から相当ネチネチとやられた結果、心のバランスを崩してしまったんですね。


で、このNさんにサポート役を付けるという事になって、私に白羽の矢が立った訳です。

Nさんは私と同じ部署ですが隣の課の所属でしたんで、会社が何を考えて私にそんな役目をさせようと決めたのかは甚だ疑問でしたけども、Nさんの人柄が良いことは知ってましたから出来る限りの事はしてあげたいと思いましてね。

とは言っても、普段から声かけをしたり、精々がちょっとした相談にのる程度しかできることはなかったんですが。

Nさんは時々休職しては戻り、限界が近づくとまた休職し、といった風にどうにか仕事を続けておったんです。


ある月曜日の朝、早めに片付けないとならない仕事がありまして、始業時刻より少し前に出社した私は事務所の自席でデスクワークをしておりました。

他にも同じような状況の社員が数人いましたけども、皆黙々とキーボードを叩いておりまして事務所の中はいたって静かだったんですがね、その静寂を破ってNさんが飛び込んできた。

彼女は真っ直ぐに私のデスクに駆け寄ってきましてね。


どこから走ってきたのか息を切らして、今にも過呼吸でひっくり返りそうな様子なのに、顔色はまるで蝋のように真っ白でしてね、目の下には黒々とくまを拵えている。

よく見ればトレーナーにスエット姿ですし、髪も寝癖がついてバサバサで化粧もしていない、デスクについた手は微かに震えているように見える。

まさか誰かに乱暴でもされて逃げてきたのかと、ギョッとして一瞬固まってしまいましてね。

何を言うべきか逡巡している私に、Nさんは一言「ご相談したい事が」とだけ、絞り出すように言ったんです。

社内には一対一で面談なんかをする為の小さな会議室がありまして、そこでNさんが少し落ち着くのを待ってから、一体何があったのかと詳しく話を聞いたんですね。


Nさん曰く、その日の朝は最悪の目覚めだったそうなんです。

週末も何もする気が起きない、ただベッドに横たわったまま月曜日が来るのに怯えていて、時折ウトウトすると会社でどやしつけられる夢をみて跳ね起きる。

そんな事を繰り返し、禄に眠れないまま月曜の朝を迎えて、ベッドから起き上がるのにも気力を振り絞らなければならなかったと。

ノロノロと寝床を抜け出したNさんは洗面所に向かったそうなんです。


Nさんはワンルームマンションに一人暮らしをしていたそうで、トイレと洗面台とバスタブが一部屋になっている、所謂ユニットバスのお部屋だったんですね。

狭い浴室に入って洗面台の前に立ち、顔を洗おうとするのですがどうにも体が動かない。

金縛りなんてのじゃないんですよ。

私も経験がありますがね、本当に心も体も疲れ切ってしまうと、ほんの些細な事をするにもエネルギーを振り絞らなけりゃならない時があるんですよねぇ。

顔を洗うとか歯を磨く、という以前に、洗面台の蛇口をひねるだけでも大仕事の如く感じてしまう。

Nさんもそんな心持ちで、どうしても行動を起こせないまま、洗面台に両手をついてしばらくボンヤリと鏡を眺めていたそうなんです。


肌は荒れ放題でカサついている、目には絵の具で塗りたくったようにくまができている、髪にはチラホラと白いものが混じり始めている。

自分は何故こんなになってまで働いているのかと、そんな事を取り留めもなく考えながら鏡の中の自分を見つめていると、僅かに違和感を感じた。

最初は何がおかしいのか分からずよくよく鏡を覗き込んで、漸く違和感の正体に気付く、鏡の中の自分と目が合わなかったそうなんです。


鏡越しに自分の目をまっすぐに見れば、当然目が合うはずだ。

それなのに、今鏡に映る自分とは微妙に目線がズレている。

そんな事がありうるだろうかと、混乱した頭で考える。

視線は鏡に吸い付けられたように離せなかった。

鏡の中の自分の目線が、ゆっくりと、少しずつ、右へ動いていく。

もはや目線は完全にズレて、明らかに自分の右後方あたりを見ている段になり、明らかに異常な状態である事を認識したNさんは恐怖で身動きが取れなくなった。

鏡の前でまんじりともできず硬直するNさんをよそに、鏡の中のNさんはゆっくりと、眼球だけを動かしていく。

やがて、鏡に映る自分は完全に横目の状態になり、自分の右側、シャワーカーテンを閉じたままのバスタブの方を凝視する形で動きを止めた。

恐ろしくて、バスタブの方を確認することなどできなかったが、視界の右端にはシャワーカーテンが僅かに入っている。

そのシャワーカーテンの端が、音もなくユラリと揺れた。


甲高い悲鳴が聞こえ、それが自らの口から発せられていると気付いた瞬間、Nさんは弾かれるように浴室を飛びだしていたそうです。

テーブルに置いてあった財布と携帯電話だけ引っ掴み、そのまま着の身着のままで自宅から逃げ出して、とにかく誰か気心の知れた人のいる所に、と考えて会社に向かって走り出した。

幸い彼女の家から会社までは徒歩で10分程、直ぐに会社までたどり着く、エントランスのドアに手を掛けたところで足が止まる。


どう考えても異常な事態が起こった自宅に居るより、出社する方が嫌だと、そう思ってしまったそうなんですなぁ...

エントランスに入る一歩が踏み出せない、オフィスに入ろうとすると動悸がする。

とうとう覚悟を決めて事務所に駆け込んで、真っ直ぐ私のところにきた、と。


今にも泣き出しそうな顔でそんな話をされたんでは、それ以上会社に引き止めることなぞ出来ませんで、人事部まで送って行ってそれっきりでしてね。


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「その後、ですか? さぁ、どうなったんでしょうね。

『バスタブの中に何がいたか』『怪異の起こった自宅に帰れるのか』なんて、勿論本人に聞ける訳がありゃしませんし、Nさんの身の振り方だってセンシティブな話ですから彼女と仲の良かったスタッフにも聞きづらくってねぇ。

いずれにせよ、常軌を逸する出来事よりも職場にある日常の方が怖いなんざ、何とも居た堪れない話ですわな。

せめてK君もNさんも、元気に過ごしててくれりゃいいなと、今もそう願うばかりですよ」


そう言い終えると、大沢氏はすっかり冷めきっているであろうコーヒーを一口啜り、力無く笑った。


-了-


candleCount -= 1;

console.log("Remaining: 99 candles");

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