特異点交差 -Tokyo Singularity-
三ツ石 冷夏
第1話
いつも通りの朝だった。
スマホのアラームで目を覚まし、眠気の残る頭で制服に袖を通す。駅前のコンビニで買ったエナジードリンクを片手に、改札を抜け、人の波に押されるようにホームへと向かう。
──そのときだった。
視界の端が“揺れた”。蛍光灯の光が水面のように波打ち、人の影が一瞬だけ二重に見える。
(……寝不足かな)
昨日の夜、遅くまでネットで話題になっていた動画を見ていたのを思い出す。都心の高層ビル群が、まるで生き物のように歪み、空が黒く染まるという映像。最初はフェイクだと思った。ただの釣り動画だと、笑ってスルーした。
けれど今、自分の目に映っているこの違和感は──現実だった。
駅の階段を下る途中、再び世界が“バグる”。足元が一瞬だけぐにゃりと歪み、視界が暗転する。
「……うわっ!」
思わず声を上げ、前の人にぶつかりそうになった。とっさに手すりを掴み、体勢を立て直す。
その瞬間。
世界が、変わった。
人々のざわめきが、すっと消える。電車の音も、構内アナウンスも、すべてが遠ざかり、空気だけが異様に重くなる。
壁が、透けていた。
いや、壁の“向こう側”に、何かがある。歪んだ空間。ひび割れた空。まるで別世界が、駅という現実の皮を通して覗いているかのように。
黒い“何か”が、そこにいた。
靄のような塊が浮かび、その中心で、無数の目玉がこちらをじっと見ている。
(……なんだ、あれ)
動けない。声も出ない。まるで夢の中のように、体が石のように固まってしまう。
黒い影が、音もなくこちらへとにじり寄ってくる。
──そのとき。
「観測対象、確認。リンク起動──位相展開」
冷静な、だがどこか機械的な少女の声が背後から響いた。
まばゆい光が走る。空間に、雷のような裂け目が現れた。
「下がってて」
声と同時に、ひとりの少女が光の中から現れる。
銀の髪に蒼い瞳。制服ではない、どこか騎士を思わせる装束に身を包み、手には細身の剣のような武器。その刃先からは幾重にも光の紋様が浮かび上がっていた。
少女は影の中へと踏み込み、剣を振るった。
光が閃き、黒い影が悲鳴のような音を上げて後退する。
ユウトは、ただ立ち尽くしていた。
何が起きているのか理解できないまま、現実が音を立てて崩れていく感覚だけが、ひどく鮮明だった。
ユウトは喉の奥に貼りついた息を吐き出すこともできず、ただ目の前の光景を見つめていた。少女は黒い靄の中へ踏み込み、音もなく剣を走らせる。その一撃が影を裂くたび、空間がざらつくように震える。
「やっぱり、安定していない……この階層、想定以上に侵食されてる」
少女は呟いたが、それが誰に向けられた言葉なのかはわからなかった。彼女の背中から淡く光が立ち上がっている。それは彼女の呼吸と同調するように脈打ち、まるで生きているかのようだった。
「おい、君……っ、あぶな──」
ようやく声が出たユウトが一歩踏み出した瞬間、黒い影の一部が床を這うようにこちらへと伸びた。反射的に足を引こうとするが、もう間に合わない。
影が彼に触れる直前、少女が手を掲げる。
「展開式:結界盾(コード・シェルター)」
眩い光の膜が瞬時にユウトを包み込んだ。影は膜に触れた瞬間、焼けるような音を立てて霧散する。
「不用意に動かないで。巻き込まれると、元には戻れない」
少女はそう言って、ちらりと振り返る。その瞳が、ひどく冷たかった。いや、冷たいというより、余計な感情を排しているだけのような、そんな無機質な静けさだった。
「……元に、戻れない?」
「この空間は“ズレてる”の。現実じゃないようで、でもまだ現実に繋がってる。だから放っておくと、日常そのものが崩れる」
その言葉の意味を、ユウトはすぐには理解できなかった。ただ、彼女の声音には一切の虚構がなかった。
少女は再び剣を構える。
黒い影が、今度は天井から落ちてくるように、うねる動きで襲いかかってきた。
「行動権限:承認──『階層制御・第七律』、起動」
光が音を連れて爆ぜる。彼女の剣が振るわれるたび、空間が“書き換わって”いく。天井が透け、歪んだ構内が、少しずつ元の姿へと戻っていくように見えた。
「……君、なに者なんだよ……」
ユウトはそう呟いていた。答えなど期待していなかった。けれど、少女はふと剣を収め、言った。
「私は、整合者(セイゴウシャ)。この階層が壊れないように、巡回してるだけ」
「整合者……?」
少女はユウトの方へゆっくりと歩いてきた。そして、その目をじっと覗き込む。
「君、見えてたでしょう? この“異常”が」
「……え?」
「普通の人には、見えないはず。でも君は、最初から気づいてた。揺れた空間。透けた壁。あれは偶然じゃない」
少女は伸ばした手の先で、ユウトの胸に触れた。
「君の内側に、“鍵”がある」
その瞬間、ユウトの心臓が一度、大きく跳ねた。音が、血が、思考が──何もかもが、彼の中で急速に加速していく。
だが──
「……っ、なんだ、これ……!?」
全身を駆け巡る異常な熱。視界が明滅し、脳の奥で誰かの声が囁く。見知らぬ記憶が、夢のように流れ込んでくる。
「この階層はもう保たない。だけど、君が覚醒すれば──この場所を“繋ぎ止められる”かもしれない」
「ちょ、待ってくれ、何言って──っ!」
少女は首を横に振る。
「時間がない」
言葉と同時に、少女の手が強くユウトの胸に触れた。次の瞬間、ユウトの身体から光が噴き出す。
光の中で、ユウトは叫んだ。
「うわああああああッ!!」
世界が──再び、歪んだ。
そして──
空間のひびが、静かに閉じていった。
音も、光も、気配も、まるで最初から何もなかったかのように。
ただ、ホームに立ち尽くすユウトの瞳だけが、どこか遠い場所を見つめていた。
その隣に立つ少女の姿は、もう誰の目にも映っていなかった。
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