第11話 硝子の檻の歌姫 (中編)

 凛の薄れゆく意識の中で、昨夜の悪夢が執拗に繰り返される。

 ステージ上で浴びせられた水は、照明の熱ですぐに生温かい不快な湿り気へと変わり、肌に密着した薄いビキニ風の衣装は、彼女のあらゆる動きに合わせて卑猥なまでに体の線をなぞった。ファンの狂喜の叫びと、無数のスマートフォンが向ける無慈悲なレンズの光。その全てが、鋭い針のように凛の心を突き刺す。

(いや……見ないで……こんな私を……!)

 心の中でどれだけ叫んでも、その声は誰にも届かない。ステージ袖で、満足げに腕を組んでこの惨状を眺めているプロデューサー、悠斗の犬耳が、嘲笑うかのようにピクピクと動いているのが見えた。彼の口が動く。「もっとだ、凛!お前の“本気”をファンに見せてやれ!」その言葉が、呪いのように彼女の動きを縛る。


 地獄のような「ファン感謝祭」が終わり、楽屋に戻った時、凛の体は疲労と屈辱で震えが止まらなかった。濡れた髪からは絶えず雫が滴り、冷え切った体はまるで自分のものとは思えない。早くこの忌まわしい衣装を脱ぎ捨てて、熱いシャワーを浴びたい。だが、そんな彼女のささやかな願いすら、悠斗は許さなかった。

「凛、ちょっと“反省会”と“今後の指導”が必要だな」

 そう言って悠斗が手招きしたのは、楽屋の奥にある、普段は物置として使われている薄暗い小部屋だった。そこには既に、もう一人の男が待ち構えていた。裏でライブ映像の撮影と編集を担当している、兎ケモミミのカメラマン、翔(ショウ)だ。年の頃は20代後半、痩せた体に不健康そうな光を宿した目が、ねっとりと凛の濡れた体を舐め回すように見ている。その手には、高性能なビデオカメラが握られていた。

「今日の“濡れ透けパフォーマンス”、最高だったぜ、凛ちゃん。特にあの胸元のレースが水で透けた瞬間と、猫尾がビクンって反応したとこ、ファンはヨダレもんだったぜ? この映像、高く売れるぞぉ」

 翔の短い兎耳が、興奮を隠しきれないといった様子で小刻みに震える。その言葉を聞いた瞬間、凛は全身の血の気が引くのを感じた。自分たちのパフォーマンス映像が、裏で違法に売買されているという噂は耳にしていたが、それがこれほど露骨に行われているとは……。


「さあ、凛。翔のためにも、もっといい“素材”を提供してやらなきゃな? メジャーデビューのためだ、お前の母親のためだ。わかるよな?」

 悠斗の垂れた犬耳が、彼の言葉に合わせていやらしく揺れる。その手には、ステージで使われたものとは別の、さらに悪趣味な小道具――猫じゃらしの先端に小さな鈴がついたものや、肌触りのいやらしいローションなどが握られていた。

「まずは、今日のファンサービスの“復習”からだ。お前のその可愛い猫耳と猫尾は、最高のセールスポイントなんだからな」

 悠斗の手が、拒む間もなく凛の濡れた髪を掻き分け、冷え切った猫耳の付け根を執拗に撫で回す。そして、もう一方の手は、ビキニのショーツの僅かな隙間から、無防備に晒された猫尾の根元を、まるで玩具でも弄ぶかのように強く掴んだ。

「ひっ……! や、やめてくださいっ……!」

 凛の体が、反射的にビクンと大きく跳ねる。猫の特性を持つ彼女にとって、耳と尾の付け根は特に敏感な場所だった。そこを、こんな風に……。

「おっと、いい反応じゃねえか。翔、今の表情、ちゃんと撮ったか?」

 悠斗は、凛の抵抗をせせら笑うように言うと、さらに力を込めて尾を引っ張り、猫じゃらしを彼女の耳元でチラつかせた。チリン、チリン、と鳴る鈴の音が、屈辱的な命令のように彼女の鼓膜を打つ。

「ほら、もっと感じて、もっと可愛い声で鳴いてみろよ。それがお前の仕事だろ?」

 翔のカメラのレンズが、ぐいと凛の顔に迫る。ファインダーの奥で、彼の狡猾な目が満足そうに細められているのが見えた。

 涙が溢れ、視界が滲む。薄い衣装は、もはや何の役にも立たず、彼女の柔らかな肌は、男たちの汚れた視線と、冷たい外気に無防備に晒されている。悠斗の指が、ビキニの紐を弄び、じらすようにそれを解こうとする。その度に、凛の心臓は恐怖で張り裂けそうになった。

(誰か……助けて……!)

 どれだけ心で叫んでも、助けなど来るはずもなかった。母親の笑顔、ステージで輝く自分の姿、メジャーデビューという大きな夢……それらが、まるで人質のように悠斗に握られている限り、彼女はただ、この地獄に耐えるしかなかったのだ。

 絶望が、冷たい鉄の爪のように、凛の心を深々と抉っていく。


 ――どのくらい時間が経ったのだろうか。凛の意識が、ゆっくりと浮上する。

 背中に感じるのは、硬く冷たい木の感触。鼻孔をくすぐるのは、土と苔の匂いと、微かな獣の匂い。

「……ん……」

 小さく呻きながら瞼を開けると、そこは月明かりに照らされた神社の境内だった。傍らには、先ほど自分を助けた(?)イタチケモミミの女――美緒が、腕を組んでこちらを見下ろしている。そして、少し離れた闇の中には、あの狼の少女が、相変わらず感情の読めない昏い瞳で佇んでいた。

「お、目ぇ覚めたか、猫のお嬢ちゃん。いやはや、あんた、相当うなされとったで。よっぽど酷い夢でも見とったんやろなぁ」

 美緒が、いつもの軽薄な調子で声をかけてくる。だが、その琥珀色の瞳の奥には、先ほどよりも深い同情と、そしてある種の確信にも似た光が宿っていた。彼女は、気を失っている凛にそっと触れることで、その断片的な記憶や強烈な感情を、サイコメトリーで読み取っていたのかもしれない。

「この子な、狼さん。ただのアイドル稼業の疲れやないで。魂の芯から、ズタボロにされとるわ。触っただけで、こっちまで胸糞悪うなるような、ドロドロした感情が流れ込んできよった」

 美緒は、吐き捨てるように言うと、狼の少女の方を向いた。

「なぁ、あんたかて、昔はこんな目ぇして、世の中全部呪ったる、みたいな顔しとった時もあったやろ? ま、今となっては、裏社会じゃ知る人ぞ知る、腕利きの“お掃除屋さん”やけどな」

 その言葉には、明らかに揶揄と、そしてどこか古い傷をえぐるような響きが含まれていた。狼の少女の肩が、ほんの僅かにピクリと動いたように見えたが、彼女は何も答えない。ただ、その昏い双眸が、ベンチに横たわる凛の姿をじっと見据えている。その視線には、冷徹さだけではない、何か別の、言葉にはできない複雑な感情が込められているようだった。


 美緒は、そんな二人を交互に見比べると、ニヤリと口角を上げた。

「さてと、お嬢ちゃんも目ぇ覚ましたことやし、そろそろ“本題”に入ろか。例のプロデューサーの犬野郎と、兎のカメラマン……あの外道コンビは、今頃どこでほくそ笑んどるんやろな? ま、ミオちゃんの情報網にかかれば、ネズミ一匹逃がさへんけどな」

 彼女はそう言うと、再びスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで画面を操作し始めた。その横顔は、先ほどまでの軽薄さが嘘のように、情報屋としての鋭利な貌つきに変わっている。

 ワンコインキラーが、静かに一歩、前に進み出た。彼女が握りしめていた500円硬貨が、月光を反射して鈍く光る。その冷たい輝きは、まるでこれから始まる「裁き」を静かに予告しているかのようだった。

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