第12章「ブロウと夕日の教室」

――誰かの視界の中で、やっと自分を見つけた午後


 


夕方の教室。

日直が黒板を消し終えたあと、誰もいないはずの空間に、まだ何かが残っている気がした。


机に差し込むオレンジ色の光。

掲示物が風でわずかに揺れている。

床に落ちたメガネのネジ、黒板に書かれた名前のかけら、折れたシャープペンの芯。

見逃される小さなものたちが、光の中に浮かび上がる時間。


僕の名前は――透(とおる)。

この短編集の語り手であり、町の古いメガネ店「光映堂」の孫だ。


誰かのメガネを直して、少しだけその人の“視界の奥”を覗かせてもらって、

そしてまた次の誰かを見送る。

そんなふうにして、僕はこの町の“物語の外側”に立ち続けてきた。


けれど、今ここにいて、ひとつだけ気づいたことがある。


僕自身は、まだ「自分のフレーム」を選んでいなかった、ということに。


 


僕が長年かけてきたのは、ブロウ型のメガネ。

上部のフレームが太く、眉のように印象を形づくるスタイル。

クラシカルで男性的、意志が強く見える。

でもそれは、僕が「強く見せたかった」だけの話かもしれない。


メガネ店の家に生まれ、

“選べる目”を持ったつもりでいた僕が、

実際には、ずっと“誰かの物語に映る自分”しか見てこなかったのだ。


 


「透くんって、いつも誰かの話ばかりするよね」


そう言ったのは、以前に紹介した――キャットアイの先輩、真白つかさだった。


「でも、“自分のこと”って話さない。

 あなたの視界には、ちゃんとあなた自身も入ってる?」


そのときは笑ってごまかしたけれど、

それがずっと頭から離れなかった。


 


あの日――僕が光映堂の倉庫で、祖父の古い道具を片付けていたとき。

棚の奥から、年代もののメガネケースが出てきた。


中にあったのは、古いブロウ型のフレーム。

セルとメタルのコンビネーション。

触れるとわずかにきしむ。けれど、しっかりと重みのある、静かな存在感。


祖父が愛用していたものだった。


「お前がかけてみるか?」


父はそう言った。


「似合うかどうかじゃない。“見たいものが見えるか”どうかだ」


 


そして今。

夕日の教室で、僕はそのメガネをかけている。


少しだけ重く、少しだけレンズが厚い。

けれど、不思議なことに、そこから見える風景は――

誰かの物語の続きではなく、**「自分の物語の始まり」**のような気がした。


 


ふと、教室のドアが開いた。


入ってきたのは、彼女だった。


誰かの章で、誰かの脇にいた名前のない“彼女”。

すべての話の背景に、ほんの一瞬だけ登場していたその人。


黒板のチョークを片付けに来ただけなのに、彼女は僕を見て驚いたように言った。


「……透くん、今日のメガネ、違うね」


「うん。変えてみた。

 これ、祖父の形見で――

 いや、なんか、“ちゃんと見たい気がしただけ”」


「ふうん。……ちゃんと?」


「うん。自分のことも、誰かのことも。

 ちゃんと、“視界に入れる”っていうか、……そんな感じ」


彼女は、少しだけ笑った。


「じゃあ、今日の夕焼けは、きっときれいに見えてるね」


僕は黙ってうなずいた。


 


ブロウ型のフレーム。

それは、人の顔に“まなざし”を与える形。


強さを形づくるだけでなく、

“見たいものに線を引く”ための道具でもある。


僕はようやく、その線を自分で引くことを、選べた気がした。


 


夕日の色は、誰かの物語の終わりではなく、

僕自身の視界に差し込んだ、最初の色だった。


 


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