第11章「透明なツーポイント」

――見えないまま、そこにいた人の話


 


朝の図書館。

開館直後の静かな空間に、足音を立てずに本棚を歩く人がいる。

カウンターの影。辞書コーナーの向こう。カーテンの隙間。

どこにいても、空気のように“いるけれど見えない”存在。


朝比奈 澪人(あさひな れいと)。高校2年。学年1位。無口。地味。

目立つ行動はしない。誰かに話しかけることもほとんどない。

でも、提出物は完璧。問題はすべて満点。

それでも、クラスで彼の名前を覚えている人は少ない。


彼がかけているのは、ツーポイント型のメガネ。


フレームは、ほぼ“存在しない”。

レンズに直接テンプル(つる)とブリッジ(鼻の部分)を止めただけの、シンプルすぎる構造。

かけているのに目立たない。まるで「視界だけがそこにあって、人は溶け込んでいる」ような印象。


僕――**透(とおる)**は、そんな彼が数ヶ月前、光映堂に現れた日のことを今もよく覚えている。


「存在しないように見えるこのフレームを、“わざわざ選ぶ人”は、何かを背負っている」


 


その日の夕方、彼は言った。


「……目立ちたくないんです。

 でも、メガネがないと、見えないんです」


それは、何かを「拒絶」しているようで、

何かを「必死に残そうとしている」ような、ひとつの祈りだった。


 


そんな澪人を、図書館で最初に「見つけた」人がいた。


綾瀬 真子(あやせ まこ)。

同じクラスの女子。朗読部に所属し、放課後の図書館で“音の練習”をしている。

声は透き通っていて、けれど、いつもどこか届かないところを見つめているような瞳をしている。


「……いつも、同じ席だよね」

ある日、真子は静かに声をかけた。


澪人は、驚いたように一瞬目を見開いた。

でも、何も言わずにうなずいた。


「そのメガネ、レンズしかないの? すごい、透明」


「……ツーポイントって言います。……存在感がないから、好きなんです」


 


ツーポイント型は、見た目が“在る”のに、“輪郭を主張しない”。

正面から見ると、まるで何もかけていないように見える。

それでも、視界はしっかりと補正されている。「透明な意志」の象徴だ。


「でも、ほんとは――誰かに見つけてほしいんじゃない?」


その言葉に、澪人は一瞬だけ目をそらした。

その仕草を、真子はじっと見ていた。


 


数日後、図書館の一角に置かれていた“朗読用の推薦図書”コーナーに、

一冊の本が追加されていた。『透明なことば』という詩集。

その奥付には、小さな字でこう記されていた。


寄贈者:A.R.

推薦理由:「言葉が見えなくても、誰かに届くと信じているから」


 


ある日、放課後の帰り道。

真子が、偶然澪人と並んで歩く時間があった。


「……ねえ、目立たないって、悪いことだと思う?」


「……わかりません。でも、疲れないですよ。

 人に期待されないって、自由なんです」


「そっか。……でも、私は、目立たない人の言葉に助けられたことがあるよ」


そう言って、真子は小さな笑みを浮かべた。


「あなたの声も、誰かの“支え”になってるかもしれないよ。

 見えなくても、そこにあるものって、あるでしょ?」


 


その翌週。

光映堂に、澪人が再び訪れた。


「……このままの形でいいです。

 でも、……レンズ、少しだけ色を入れてみたいです」


「色?」


「うっすらブルーグレーに。

 ……見えないより、“見えるけど気づかれない”くらいが、今はちょうどいい」


僕はうなずいた。

それは、透明だった彼が、自分の存在に“かすかな輪郭”を与えようとしている証だった。


 


ツーポイント型。

それは、「見えないことを選ぶ人」が、それでも世界を見ようとする形。


存在感がないのではない。

むしろ、“存在しなくても誰かに届く”という、強い信頼がそこにある。


透明な視線の奥には、

誰にも知られないやさしさが、静かに灯っているのだ。


 


(→最終章「ブロウと夕日の教室」へ続く)


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