第10章「ハーフリムの約束」

――まだ言えないことが、見えているときがある


 


職員室の前の廊下は、いつも少しだけ緊張感がある。

掲示物の端がきっちり揃っていて、掲示板の枠はきれいに拭かれ、花瓶の水も毎朝新しく替えられている。

そこには、「整えられた空気」がある。


その空気に一番よく馴染む生徒が、**桐谷 真澄(きりたに ますみ)**だった。

高校3年。生徒会副会長。どこから見ても「信頼される人」。

話し方も、歩き方も、書く字までもが整っている。


彼がかけているのは、ハーフリム型のメガネ。

上だけにフレームがある、繊細で軽やかなスタイル。

“下半分を隠さない”ことで、顔の印象が和らぎ、

知的でクール、そして「近寄りやすい堅実さ」を演出する形だ。


けれど僕――**透(とおる)**は思っていた。


「このメガネは、“きちんとしようとする自分”と“まだ迷っている自分”の、

ちょうど真ん中に立っているような形だ」と。


 


ある日の放課後。

風紀委員の女子生徒が彼を呼び止めた。


柚木 七海(ゆずき ななみ)。

同じく3年。柔らかな物腰に反して、校則にはかなり厳しい。

それは彼女がかつて“校則に守られなかった過去”を持っているからかもしれない。


「桐谷くん。……ネクタイ、ずれてるよ」


「……ああ。ありがとう。気づかなかった」


七海は少し黙ってから、言った。


「そのメガネ、変えた?」


「いや。前と同じ、ハーフリムだよ。

 ……でも、レンズだけ少し薄くした。疲れにくいって言われて」


「ふうん。……ちょっとだけ、“やわらかくなった”気がする」


その言葉を、真澄は否定しなかった。


 


数日後、光映堂に彼が訪れた。

手には、使い込まれたハーフリムのフレーム。

フレーム上部のネジが緩み、左のパッドが少し傾いていた。


「……この形、ずっと使ってるんです」


「ハーフリムって、繊細で軽いぶん、扱いにも繊細さが求められるよ」


僕は作業をしながら、自然に話を続けた。


「“全部は見せない”けど、“隠しきらない”。

 ハーフリムって、そういう距離感のフレームなんだよね。

 きっちりしてるようで、実は“余白”がある」


真澄はその言葉に、少しだけ眉を動かした。


「……余白、ですか」


 


翌週、生徒会室で、会議の議事録に目を通す真澄を見ながら、七海がぽつりとつぶやいた。


「……あなたってさ、“どっちの顔が本物”なの?」


「え?」


「いつもちゃんとしてるけど、たまに、すごく遠く見えるときがある。

 それって、“本当の顔を見せたくない”ってこと?」


真澄は迷ったように、メガネのブリッジを指で押し上げた。


「……わからない。

 でも、たぶんどっちも本当。どっちも半分」


 


文化祭の直前、夜の校舎。

残務で残っていた七海と真澄は、誰もいない教室で静かに並んでいた。


窓の外では、秋の風が木々を揺らしている。


「中学の頃、少しだけ荒れてた時期があったんだ」

真澄が、ぽつりと口を開いた。


「それを直してくれたのが、校則だった。……“枠”の中でなら、自分を立て直せる気がした。

 だからたぶん、今も俺は“ちゃんとした形”の中でしか、話せない」


七海は黙ってそれを聞きながら、自分の髪を耳にかけた。


「じゃあ、私はその“半分のあなた”に、約束するね」


「約束?」


「どっちの顔も、本物なんだって。

 だから、どっちの顔にも、私はちゃんと返事するよ」


 


ハーフリム型のメガネ。

それは、“全部見せないことで、自分を調整しながら進む人”のフレーム。

バランスを取りながら、迷いながら、それでも前を向こうとする形。


たった半分でも、真剣に見ていれば、

そこにあるのは“嘘のないまなざし”だ。


 


(→第11章「透明なツーポイント」へ続く)


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