第6章「フォックスの誘惑」

――見つめる視線と、見透かされる心


 


美術室の空気は、乾いていた。

窓が少し開け放たれていて、画材の匂いと春の風が入り混じる。

鉛筆の芯を削る音、絵筆を洗う水音、遠くのチャイム。

そのすべてが、彼女の存在を引き立てるための“背景音”に思えるほどだった。


葉月 愛莉(はづき あいり)。

2年生、美術部のエース。自由奔放、傍若無人、でも不思議と誰からも憎まれない。

そして、彼女の代名詞――フォックス型のメガネ。


フォックス。

名前の通り、狐の目のように目尻がキュッと上がったフレーム。

シャープでセクシー、強い印象を与える。

レトロでフェミニン、だけどどこか“人を寄せ付けない”雰囲気も併せ持つ。


彼女は、まさにその象徴だった。

誰もが視線を奪われる。けれど、誰もが彼女の“本当の目線”を見失う。


僕――透(とおる)は、彼女のことを何度も光映堂で見ていたけれど、どこか“決まった型”に収まらない人だと思っていた。

その目線は、まるで“他人を描きながら、誰にも描かれたくない”人の目だった。


 


「ねえ、キミ」

美術室に資料を届けに来た僕を、彼女はいきなりそう呼んだ。


「……はい?」

「いま、私のこと“メガネが似合うな”って思ったでしょ」


「いや……まあ、似合ってるとは思いますけど」

「ふふん、だと思った」


愛莉はパレットナイフを回しながら、くすっと笑った。


「でもね、それ“似合ってる”じゃなくて、“そう見えるように仕向けてる”の」


 


その日の夕方、光映堂に彼女がやってきた。

メガネを両手で持ちながら、珍しくおとなしげな声で言った。


「……ちょっとだけ、目尻のとこが痛くて」


「テンプル、内側に入りすぎてるね。圧がかかってるかも」

僕は調整しながら尋ねた。


「フォックス型、珍しいよね。なんでこれ選んだの?」


彼女は一瞬だけ言葉に詰まり、やがてぽつりとつぶやいた。


「……猫っぽく見えるって言われたの、最初はイヤだった。でも、

 “強そうに見える”って言われて、なんか……それが楽になった」


 


フォックス型のフレームは、

目元に角度が生まれることで、表情全体が引き締まり、シャープに見える。

特に、柔らかい顔立ちの人がかけると、その**“ギャップ”が魅力になる**。


ただし、選ぶには覚悟がいる。

“見られること”に耐える力と、“見せること”を選ぶ意思が必要だ。


「それって、“本当の自分を隠すため”じゃなくて?」


僕がそう言うと、愛莉はちょっとだけ目を細めて、いつもの調子で言い返した。


「……それ、分析っていうより、ただの妄想でしょ?」


 


数日後。

校内展の前日、愛莉が描いた作品が、美術室の真ん中に置かれていた。


キャンバスには、仮面をつけた少女が立っている。

仮面の目尻は、フォックス型のように鋭くつり上がっている。

でも、その奥の瞳だけが、ひどくまっすぐで、どこか寂しかった。


「……あれ、自画像?」


僕の問いに、彼女は少しだけ笑って言った。


「さあ? どう見えるかは、“見る人のフレーム”次第」


 


その日の帰り際。

愛莉は新しいフレームを試しに、また光映堂へ来た。


「今度は、ちょっとだけ丸いの。……目元が、やわらかく見えるってやつ」


「イメチェン?」


「んー、気分かな。たまには、誰かに“守られそう”って思われてみたいし」


そう言って、鏡の前で微笑んだ彼女の顔は、

いつものフォックスとは少し違っていた。

でも、どちらの彼女も――“演技”じゃなくて、“選択”だったんだと僕は思った。


 


フォックス型。

それは、見られることを武器にするかたち。

でも、その鋭さの奥には、見透かされないための鎧と、誰かに見つけてほしい素顔が潜んでいる。


見せると、見られるは、同じじゃない。

そう思わせるフレームだった。


 


(→第7章「キャットアイと放課後の秘密」へ続く)


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