第5章「オーバルと午後の紅茶」
――ひと息つける午後に、やさしさが宿るかたち
放課後、駅前の路地を抜けると、レトロなタイル張りの喫茶店がある。
名前は「カフェ・スワン」。
昭和から変わらぬ内装と、ジャズのBGM、そしてクリームソーダの淡い水色が特徴だ。
その店の奥、窓辺の席のカウンターで働いているのが――一ノ瀬 灯(いちのせ あかり)。
高校3年生。おっとりとした雰囲気で、接客が苦手なわけではないけれど、いつも少し遠慮がちな笑顔を浮かべている。
彼女がかけているのは、オーバル型のメガネ。
細くて楕円形のレンズは、主張が強すぎず、顔にすっと馴染む。
柔らかく、やさしく、穏やかな印象を与える。
その形が、灯という人物そのもののようだった。
僕――**透(とおる)**は、この喫茶店の常連だ。
光映堂から少し足を延ばせば、ここでのんびり本を読める場所があると、祖父に教わって以来、足繁く通っている。
この日も、午後五時を少し過ぎた頃。
僕は窓際の席に座り、紅茶を飲みながらノートをめくっていた。
カウンターでは、灯が紅茶のポットにそっと湯を注いでいる。
「ねえ、灯ちゃん。メガネ、変えた?」
「え? ……あ、うん。レンズをちょっと薄くしてもらって。最近、目が悪くなっちゃって」
「でも、形は同じだね。ずっとオーバルだ」
「うん……なんだか、それしか似合わない気がして」
灯は少し照れたように、メガネのブリッジを指で軽く押さえた。
「この形、優しく見えるんだって。お客さんにも『安心する』って言われたことあるし」
オーバル型は、メガネの中でも「いちばん自然に馴染む形」と言われている。
縦横のバランスがとれていて、角がない。
強すぎず、弱すぎず。どんな顔立ちにも溶け込む。
逆に言えば、「個性を出しにくい」フレームでもある。
つまり、選ぶ人は――自分を主張しすぎない、優しさの人だ。
その夜、灯が光映堂に現れた。
「ごめんなさい、閉店前に……」
「大丈夫。もうすぐ閉めるとこだったし。どうしたの?」
彼女は、かばんからメガネケースを取り出した。
「ちょっと……鼻あてが合わなくて。あと、レンズに少し傷がついちゃったかも」
僕は、メガネを手に取って確認した。
確かに、レンズに微細な擦り傷。パッドも少しずれている。
「……お客さんに顔、近づけすぎた?」
「うん……それで、手が当たっちゃって」
灯は小さく笑ったけれど、その声は少し沈んでいた。
「……わたし、接客、好きなんだけど、たまに怖くなるんだ。
ちゃんと、伝わってるのかなって。わたしの言葉も、笑顔も、メガネ越しにぼやけてないかなって」
僕はレンズを拭きながら言った。
「それなら大丈夫だよ。オーバルって、“やわらかく伝える力”があるんだ。
はっきり主張するのは苦手だけど、“受け止める”ことに向いてる」
「……受け止める?」
「うん。強く光るわけじゃないけど、曇った光をやさしく透かしてくれる。
だから、灯ちゃんが出すやわらかい言葉も、ちゃんと届いてるよ。オーバル越しに、まっすぐに」
灯は、その言葉に少しだけ目を潤ませて、でもすぐ笑った。
「……ありがとう。透くんって、メガネのことになるとやたら説得力あるよね」
それから数日後。
カフェ・スワンに、ある常連の男子大学生がやってきた。
無口でぶっきらぼう、読書と紅茶だけが好きな不思議な人だったけれど、灯は彼の来店をいつも少し気にしていた。
「新しい紅茶、試してみますか?」
灯が差し出したカップに、大学生がふと目を留めた。
「……メガネ、変えた?」
「えっ? あ、うん。レンズだけちょっとね。でも、フレームは同じです」
「……よく似合ってる。なんか、“ぴったり”って感じがする」
その言葉に、灯は顔を赤くして、「ありがとうございます」とだけ言った。
僕は、その様子を遠くの席から見ていた。
あいかわらず夕陽が差し込む喫茶店の窓辺。
湯気がゆるやかに立ちのぼるなかで、彼女のメガネのレンズがやさしく光った。
オーバル型。
それは、言葉にならないやさしさを、そっと伝える形。
誰かを照らすことはなくても、
誰かの隣で、黙って灯っているような――そんな光の形。
(→第6章「フォックスの誘惑」へ続く)
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