第4章「ボストンの夕暮れ」
――ページの余白に宿る、静かな問いとかすかな答え
駅から少し離れた商店街の裏路地に、「三日月堂書店」という小さな古本屋がある。
軒先には籐のかごに入った100円均一の文庫本。ドアベルは控えめに鳴り、湿った木の床がきしむ。
本の匂いと紙の埃が混じったその空間は、放課後の時間より少しだけゆっくり流れていた。
そこにいるのが、栞(しおり)。高校2年。店主の娘。
制服の上にエプロンを重ね、本のカバーかけと在庫整理を淡々とこなす姿は、まるで棚の中の登場人物のひとりのようだった。
彼女がかけていたのは、ボストン型のメガネ。
丸みを帯びた逆三角形。ラウンドよりも縦に少し長く、ウェリントンよりも柔らかい。
知的で優しい印象を与えつつ、しっかりとした主張も持つ。
僕――透(とおる)は、彼女の横顔を見たとき、こう思った。
「この人は、答えを急がない人だ」と。
ボストン型は、決して流行の中心ではないけれど、“考える人”が選ぶ形だ。
視界のバランスがよく、どこかに余白を残す。
それは、たとえば、読書の余韻や問いかけを大事にするような心の形だった。
その日、三日月堂にはもう一人、客がいた。
制服の上にジャージを羽織った男子――宮内 悠真(みやうち ゆうま)。
サッカー部。進路未定。勉強は嫌いじゃないが、要領が悪いタイプ。
「これ、……買います」
レジに持ってきたのは『星の王子さま』。表紙が少し色あせた文庫だった。
「……授業でやるの?」
「いや……なんか、“疲れても読めそう”だから」
悠真は、そう言ってうつむいた。
栞は笑わなかった。ただ静かにレジを打ち、カバーをかけた。
「その本ね。疲れてるときの方が、ちゃんと読めるよ」
その日を境に、悠真はよく三日月堂に来るようになった。
問題集を買いに来たと言いながら、必ず何か一冊、文学の匂いのする本を選んでいく。
『銀の匙』『夜と霧』『セロ弾きのゴーシュ』。どれも少しずつ「答えを急がない」本だった。
「……メガネって、何か変わる?」
ある日の夕暮れ、悠真がふと口にした。
「うん。見ることも、見せることも、変わるよ」
栞は言った。
「この形、ボストンっていうんだ。ちょっとだけ下が広がってて、
顔をふんわり包むような形。昔のハリウッド女優もよくかけてたって」
「へえ。似合ってるな。栞の顔、柔らかいから、余計に」
照れたように言ったその言葉に、栞は驚いたように一瞬だけまばたきして、でもすぐ目線をそらした。
「ありがとう。でも……そういうの、たぶん“メガネ込み”だよ」
数日後、悠真が光映堂にやってきた。
「……フレーム、見たいんですけど」と、少し照れくさそうに言う。
「メガネ、興味あるの?」
「うん……いや、あの……勉強、集中したくて」
僕は笑いながら頷いた。けれど目の奥では、彼の“変わりたい気持ち”がちゃんと見えた。
彼が選んだのは、細身のメタル製・ボストン型。
少しレトロな雰囲気で、知的だけど威圧感はなく、優しい印象。
「これは、“余白”を残してくれるフレームだよ。
言葉にできないものを、顔に残してくれる」
彼は、じっと鏡を見つめてから頷いた。
「……これで、読んだ本、少しはちゃんと頭に入るといいな」
数日後、三日月堂で。
いつものように来店した悠真が、初めてメガネをかけていた。
栞はそれに気づいて、声をかけるでもなく、静かに言った。
「……似合ってるよ。きっと、読んだ行が、前より深く残ると思う」
「それ……“本の話”?」
「“あんたの話”」
そのとき、僕は通りの向こうでふたりのやりとりを見ていた。
店の窓から差し込む夕日が、ふたりのメガネに反射して、まるでどこかの物語のワンシーンみたいに見えた。
ボストン型。
それは、焦らず、ゆっくり、考える人がかける形。
本の行間を読むように、誰かの心にも余白を残してくれる。
きっとあのふたりは、その余白に、いつか同じ言葉を書くんだろう。
(→第5章「オーバルと午後の紅茶」へ続く)
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