第3章「静かな逆台形」
――形あるものに、心を収めて歩く人の話
昼休みの美術室は静かだった。
風通しの悪い窓から射し込む光が、机の上の静物モチーフに長い影を落としている。
音といえば、鉛筆の先が紙をこすり、石膏像のすき間を風が抜ける音くらいだ。
その部屋の隅に、彼はいた。
浅海 陽真(あさみ はるま)。この春に転校してきたばかりの男子。
背が高くて、声が小さい。だが、誰よりも手が丁寧で、絵を描く姿だけが、まるで部屋に溶けていた。
彼がかけていたのは、ウェリントン型の黒ぶちメガネ。
いわゆる「逆台形」と呼ばれる形で、フレームの上が太く、下がやや細くなるデザイン。
このフレームには不思議な効果がある。
「真面目」「知的」といった印象を持ちながら、どこか“古き良き”落ち着きがある。
かつて俳優や作家が好んだ形でもあり、自己主張せずに顔を引き締めるフレームだ。
僕――**透(とおる)**は、光映堂の孫として、彼のメガネを見た瞬間に思った。
ああ、この人はきっと、「自分を隠す」のではなく、「収めようとしている」人だ、と。
ある日、僕はふとしたきっかけで、陽真と話す機会を得た。
「……描く対象、決めてるの?」
彼は一瞬だけ視線を上げてから、スケッチブックの角を軽く指でなぞった。
「動かないもの、静かなもの。……“話しかけてこないもの”が、好きなんだ」
その言い方は、どこか哀しげで、でもやさしかった。
後日、陽真が「光映堂」に現れた。
ウェリントンフレームの右テンプルがやや開き気味で、鼻パッドも擦れていた。
「……あまり大きな声で話すの、得意じゃなくて。
これかけてると、なんていうか、しゃべらなくても平気な気がする」
僕は彼の手元を見ながら、工具で丁寧にフレームを調整した。
それから、ひと言つけ加えた。
「ウェリントンって、1950年代に流行ったフレームなんだ。
ボストンより角張ってて、ラウンドより落ち着いてて、でも、どこか懐かしくて親しみやすい」
「懐かしい……?」
「うん。たとえば、家族のアルバムの中で、誰かのおじいちゃんがかけてたような。
そんな“記憶の中の安心感”みたいなものがあると思う」
陽真は、少しだけ笑った。
「……たぶん、そういうのを探してたのかも」
美術室に戻った陽真は、ひとりでコンクール用の絵を描き続けていた。
誰にも見せず、誰にも言わず。
だが、ある日、美術部の掲示板に彼のスケッチが貼り出された。
タイトルは《沈黙の余白》。
絵には、図書室の窓際で読書する少女が描かれていた。顔は曖昧にぼやかされていて、メガネだけが、静かに主張していた。
それを見た雪乃(第2章の彼女)がぽつりと呟いた。
「……あれ、私だ」
その日の夕方、陽真がまた光映堂にやってきた。
「ちょっと、あの……あのフレーム、ありますか?」
彼が手に取ったのは、少し丸みのあるウェリントンとボストンの中間モデル。
色は、落ち着いたカーキ。先日よりも、少しだけ“自分の輪郭”をやわらかく映すものだった。
「……これなら、もう少し、誰かと話せる気がする」
彼はそう言った。
僕は、笑いながら答えた。
「フレームは、心の額縁。
変えたからって急に話せるわけじゃないけど、少し“気持ちが整う”ってのは、あると思うよ」
陽真は、深くうなずいた。
そして、そのまま新しいフレームのまま、歩いて帰っていった。
彼の背中は、少しだけ軽く見えた。
まるで“自分という形”に、ちゃんと収まった人のように。
(→第4章「ボストンの夕暮れ」へ続く)
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