第2章「丸眼鏡の手紙」
――丸いレンズの向こうに、過去と未来が重なるとき
放課後の図書室には、埃と紙と静けさの匂いがする。
窓際に立つと、沈む夕陽が本棚の間にすうっと差し込んで、ページの影がゆっくり長くなる。
その光の中に彼女はいた。
日下部 雪乃(くさかべ ゆきの)。
2年の文芸部員。いつも丸眼鏡をかけている。
まんまるのレンズに、細い金属のフレーム。頬にかかる光が揺れるたび、彼女のまばたきさえどこか懐かしく見えた。
「ラウンドフレームだね」と、僕は小さくつぶやく。
光映堂の孫として育った僕の癖。つい、誰かのメガネを見ると“それがなぜその人に似合っているのか”を考えてしまう。
ラウンド――つまりまんまるのメガネは、メガネの原型にして王道。
クラシック、知的、繊細、やさしさ。
ちょっと文学的な雰囲気があって、主張は控えめだけど印象には残る。
その柔らかい丸みは、**「自分を語るのが苦手な人の、無言の自己紹介」**みたいなものだ。
その日の放課後。図書室で席を探していた僕は、偶然彼女の隣の席に座ることになった。
彼女は封筒を三通、机に並べて、手書きの便箋に黙々と万年筆を走らせていた。
「……誰かに手紙、書いてるの?」
尋ねると、彼女は少しだけこちらを見た。
丸眼鏡の奥の瞳は、光をまっすぐ受けて揺れていた。
「うん。未来の自分に」
「へえ、面白いね。……どうして?」
「忘れないように。
あのとき、ちゃんと見てたこと、感じてたこと、信じたこと。忘れないように」
雪乃は、過去を大事にする人だった。
日記も、スクラップ帳も、何年分もの書きかけの小説も全部、彼女のリュックに詰まっていた。
「……でもさ、時々わからなくなるの」
「なにが?」
彼女はラウンドのフレームを、少しだけ指で持ち上げて言った。
「ちゃんと“見てる”って思ってるけど、
ほんとはただ、“見えていた気になってるだけ”なんじゃないかって」
その日の夜。雪乃が「光映堂」を訪ねてきた。
「フレーム、少し曲がっちゃって……」
彼女は少し恥ずかしそうに言いながら、メガネを差し出した。
よく見ると、左のテンプルが微かに内側に入っていて、鼻パッドの位置もずれていた。
「これ、よく書き物する側に負担かかってるね。無意識にメガネに触れてるんだと思うよ」
僕は手際よく調整しながら言った。
「このタイプ、いわゆる“ラウンド型”。丸い分、見た目がやさしくなるし、知的にも見られる。……でもね、構造的に、ゆがみにはちょっと弱いんだ」
「……私みたい」
彼女はぽつりと笑った。
「やさしく見せてるけど、すぐに心がゆがむんだ。たぶん」
僕は、調整を終えたメガネをそっと彼女に手渡した。
「でも、それって悪いことじゃないと思うよ。
まっすぐじゃない心だからこそ、言葉にできるものもある」
それから少しして、校内文芸誌に雪乃の掌編小説が載った。
タイトルは《まどろみのフレーム》。
主人公は、過去の手紙を未来に投函し続ける、丸眼鏡の少女だった。
作中の最後の一文は、まるで彼女の声をそのまま写したようだった。
「わたしは、未来のわたしがそれを読み返して、また誰かに手紙を書いてくれることを信じてる」
「そのとき、きっと新しいメガネをかけていても、あの手紙のことは忘れないって思うの」
数日後、雪乃がまた光映堂に来た。
今度は、ちょっと違うフレームを試してみたいと言う。
「ラウンドは好き。でも……
少しだけ、変わる準備をしたくて」
彼女が試したのは、ボストン型。
ラウンドより少し縦に深く、下側に丸みを残した逆三角形の知的なデザイン。
「……これも似合うかも」
僕がそう言うと、雪乃は鏡を見ながら、少しだけほほえんだ。
「うん。丸いわたしに、少しだけ“芯”が入った気がする」
僕はそのとき思った。
ラウンドフレームは、“見えないものを見ようとする人”が選ぶのかもしれない。
過去と未来を、やわらかくつなごうとする、誰か。
光映堂の窓辺に、手紙が一通届いた。
差出人は「未来の私」。
宛名は書いてなかったけれど、たぶん、それは僕への手紙だったと思う。
(→第3章「静かな逆台形」へ続く)
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