第四章 ほころび、忍び咲く
その日の終業前、わたしは机で指導要録の記入に追われていた。
いつも通りの声。
いつも通りの紙音。
何も変わらないはずだった。
ただ、ひとつ――
視線を感じた。
ふと顔を上げると、管理職席に座る水野教頭が、
こちらを向いたまま、表情を変えずにいた。
目が合ったわけではない。
けれど、間違いなく――“こちらを見ている”と、そう感じた。
(なに……?)
数秒だけ、その無言が続いた。
やがて水野は、小さくひとつ頷いて、すっと視線を戻した。
何も言われなかった。
呼び止められもしなかった。
でも、それは“猶予”ではなかった。
むしろ、“見ている”という無言の合図だった。
(……気づかれてる?)
わたしの背中を、冷たいものが走った。
それでもペンを止めずに、書き続けた。
“何も知らない”顔のままで。
◇
帰宅して、玄関の鍵を閉めた瞬間、わたしは深く息を吐いた。
今日も、なんとか“教師”でいられた。
そう思い込むことでしか、正気を保てなかった。
リビングに入ると、真人がソファに座っていた。
本を開いたまま、でもページはほとんど進んでいない様子だった。
「……ただいま」
わたしが言うと、彼は少しだけ顔を上げて、「おかえり」と返した。
その声が、いつもより少しだけ硬かったのは、気のせいじゃなかった。
キッチンに立ち、夕食の準備を始めようとしたとき、真人が背後から言った。
「……先生」
振り返ると、彼は立ち上がってこちらを見ていた。
何かを言いたそうな顔をしていた。
「……先生、俺……」
そのあとが、続かなかった。
言葉が、喉の奥で止まったみたいに。
何かを“飲み込む”ときの、あの沈黙だった。
わたしは、あえて何も言わずに、そのまま彼の視線を受け止めた。
「……ごはん、先に作るね」
そう言って、わたしは鍋に火をつけた。
彼の背中が、そっとソファに戻る音が聞こえた。
言わなかった。
言えなかった。
でも、わたしたちはお互い、
“その言葉”の重さだけを感じながら、その夜を過ごした。
・
翌日
職員室の奥、会議室のひとつ。
いつもなら面談や保護者対応で使われるその場所に、
わたしは“教師として”呼ばれていた。
向かいに座るのは、水野教頭。
机の上には、何も置かれていなかった。
記録を取る様子もなく、会話はすべて“口頭で”行われる。
それが逆に、怖かった。
「神原先生、ちょっと確認したいことがあってね。形式的なものだから、気軽に聞いてくれていいよ」
「……はい」
声が少し掠れた。わたしはすぐに咳払いでごまかす。
「最近、2年C組の真人くんとの関わりについて、少し質問が来ていてね。特に放課後、話す機会が多いって話を耳にしたんだ」
「……進路の相談で。もともと、話すのが苦手な子で……。担任のわたしから話しかけることで、少しでも不安を減らせればと思って……」
言い訳だった。
けれど、それが“正しい答え”として最初から用意されていたように、口が勝手に動いた。
「進路相談……ね。どれくらいの頻度?」
「週に……多くて、2回ほどです。あとは、教室で何気ない声かけ程度で」
「声かけ、というのは?」
「……廊下ですれ違ったとき、授業中の補足、そういったレベルです」
嘘は言っていない。
でも、“真実”から目を逸らしている。
水野はそれ以上、深くは突っ込んでこなかった。
「わかった。じゃあ、念のため、そういう対応は“記録”に残すようにしておいてね」
「……はい」
言われた瞬間、背中を冷たい汗が流れた。
(記録を残す――“次”に来るのは、それの照合)
形式的な面談だった。
けれど、それは“最終確認”ではなく、“最初の扉”だった。
・
ドアを閉めた瞬間、世界の色が一段暗くなった気がした。
わたしは、誰にも気づかれないように
そのまままっすぐコピー機の脇まで歩き、そこに手を置いた。
(……終わった。いや、“始まった”のかもしれない)
形式的な聞き取り。
水野教頭の言葉は、すべて“普通”だった。
脅すような物言いはなかったし、怒声もなかった。
それでも、わたしの心の中では、確かに“何か”が壊れていた。
コピー機の縁に添えた右手が、小さく震えている。
本人だけが気づく、かすかな震え。
誰にも見られていないはずなのに、
その手を必死に握りしめて止めようとしてしまう。
「――ちゃんとしなきゃ」
声にならない声で、唇が動いた。
教師としての“顔”が剥がれかけている。
それをまた塗り直すように、
わたしはペンを強く握りしめて、震えを抑え込んだ。
(大丈夫。……まだ何も、“確定”したわけじゃない)
でも、それはただの願望だった。
わたしはそれを、誰よりもよく知っていた。
・
「先生、なんで……」
夕食を終えて、後片付けをしているときだった。
真人が、ぽつりと口を開いた。
「……先生」
「……なに?」
背を向けたままのわたしに、
真人の声が、静かに重く落ちてきた。
「なんで、最近……避けるようになったの」
一瞬、洗いかけの皿が手から落ちそうになった。
わたしは、彼の方を振り返らずに、
スポンジに洗剤をつける仕草をゆっくり繰り返した。
「避けてないよ」
「避けてる。わかる。目、合わせてくれなくなった。声、少しだけ冷たくなった。……俺、なにかした?」
真人の声は、まだ落ち着いていたけれど、
その奥にある“動揺”が、手に取るように伝わってきた。
(ほんとは……抱きしめてやりたかと)
(安心させてあげたい)
(でも――)
わたしは、振り返らずに言った。
「……あんたが、男やけんよ」
沈黙が流れた。
息を呑む音さえ、聞こえた気がした。
「うちが先生やけん。真人が、まだ高校生やけん。それだけっちゃ……それだけなんよ」
「……でも、俺たち……」
「なかったことにして」
ようやく振り返ったわたしの目は、たぶん泣いていた。
でも、涙は落ちてなかった。
そのかわりに、唇の端が微かに震えていた。
「いままでのこと、全部。――忘れて」
真人は、なにも言わなかった。
ただ、そこに立ち尽くしていた。
しばらくして、彼はうなずいた。
それが同意なのか、諦めなのか、わたしにはわからなかった。
「……わかったよ」
その言葉は、まるで刃物のように冷たかった。
わたしがそう言わせたのだと理解していた。
それでも、真人のその目を、わたしは直視できなかった。
彼はゆっくりと、椅子から立ち上がった。
「忘れるって言ったよね。なかったことにして、って。……そんな簡単にできるわけ、ないじゃんか」
声が少しずつ熱を帯びていく。
「俺さ……先生といた時間、全部ちゃんと覚えてるよ。初めて名前呼ばれたときも、夜中に一緒に映画見たときも、泣いてた先生を、どうしようもなく抱きしめたときも――」
彼の声が、震えはじめた。
「……それ全部、なかったことにしろって?それ、俺が“間違ってる”ってこと?先生と一緒にいたことが、俺の人生の中で一番ちゃんと“生きてた”時間だったのに?」
机を叩いた音が、小さな部屋に響いた。
「守るために、突き放すの?じゃあ、俺はなに?先生にとって“リスク”にしかなんなかった?そうなら……最初から、近づかないでほしかった!」
わたしは、何も言えなかった。
否定する言葉も、肯定する覚悟も、どちらも持ち合わせていなかった。
真人の肩が上下していた。
感情を吐き出したあとの空白に、まだ収まりきらない何かが残っていた。
けれど彼は、それ以上は言わなかった。
ただ、荒い呼吸のまま、自室に入っていった。
その扉が、乾いた音で閉じられる。
わたしは、そこから一歩も動けなかった。
・
午前二時を回っていた。
部屋の灯りはすでに落とされ、
ソファの背にもたれて、わたしは闇の中にいた。
息を殺すように泣いていた。
声を出したら崩れてしまいそうで、
ただ、喉の奥がひりつくほどに泣いていた。
(……突き放すしかなかった)
(あのままだと、きっと、全部壊れてしまう)
自分に言い聞かせてきた理由が、
今はもう、足元に転がったただの空虚にしか思えなかった。
(でも、本当に……それが“正しかった”のだろうか)
“先生”であること、“大人”であること。
そのすべてを背負おうとしたわたしは、
いちばん大切なものを、自分の手で傷つけてしまった。
真人の叫びが、まだ胸の奥に焼きついている。
あの声に、“嘘”はひとつもなかった。
彼は、本気でわたしを想っていた。
それを、わたしは――
(……壊したっちゃ。うちが)
手が震えていた。
もう“教師としての顔”をつくる必要はないこの時間ですら、
身体がまだ震えていた。
わたしは、ソファのクッションに顔を埋めた。
唇を噛んでも、涙は止まらなかった。
胸が、張り裂けそうだった。
そのとき、思い出したのは、
初めて彼の名を呼んだときの、彼の返事だった。
『……恵美、って……呼んでいい?』
あの声が、あの目が、
すべてが、心の中に残っていた。
わたしは、自分でその記憶に土をかぶせようとしていた。
でも、――どうしても、埋まらなかった。
その夜、わたしは一睡もできなかった。
けれど朝になれば、
また“教師”としての顔を貼り直さなければならない。
その苦しみを知っているのは、
わたしと――あの子だけだというのに。
◇
わたしは朝、出勤してすぐ、
水野教頭から「時間を作ってくれ」と告げられた。
その口調は、昨日までの“やんわりとした注意”のそれではなかった。
会議室ではなく、管理職用の個室。
学校で一番空気が薄い場所。
わたしが教師になって以来、一度も入ったことのない部屋だった。
中に入ると、教頭が机越しに座っていて、
テーブルの上には書類が二枚。
表紙には「聴取記録票(教職員対象)」の文字。
わたしの呼吸が、目に見えない何かで少しだけ締めつけられた。
「……神原先生。座ってください」
言われるままに腰を下ろすと、
水野教頭は手元の資料に目を落としながら、静かに切り出した。
「まず最初に伝えておきます。
本件は、匿名の通報に基づく正式な内部調査の一環として行われるものです」
わたしは、なにも言えなかった。
口を開けば、何かが崩れてしまう気がした。
「内容は明言できませんが、いくつかの報告・証言・状況証拠により、現在あなたが一部の生徒と私的に不適切な関係を持っていた可能性があるという指摘を受けています」
言葉の一つひとつが、刃のようだった。
「そのため、今回の聴取は“懲戒処分の判断を視野に入れた”段階であることを、先に確認させていただきます」
懲戒処分。
その言葉が口にされた瞬間、
わたしの時間は、静かに止まった。
頭の奥がしん、としていた。
その静けさの中で、心臓の鼓動だけがやけにうるさく響いていた。
「この場で弁明することがあれば、どうぞ。必要に応じて弁護士や労働組合の同席も認められていますが、本日は“任意の聴取”という扱いです」
「…………」
言葉が、出なかった。
何を言えばいいのかも、もうわからなかった。
ただひとつ、わかっていることがあった。
(……終わった)
ここから先、どんなに説明しても、
どんなに否定しても、わたしという“教師”は、もうここにはいられない。
わたしが彼を守るために選んだ“突き放し”も、
彼を“傷つけただけ”だった。
そして、守れなかった。
教頭の問いかけは続いていた。
でも、もうその声が耳に届かなくなっていた。
わたしはただ、
テーブルの上に置かれた書類の角を、ぼんやりと見つめていた。
印刷の黒が、にじんでいた。
視界が揺れていた。
それが涙のせいだと気づいたときには、もう遅かった。
・
事情聴取が終わっても、わたしは職員室に戻ることができなかった。
身体が、机に戻ることを拒んでいた。
足が、廊下のタイルに縫い付けられたように動かなかった。
誰とも目を合わせたくなかった。
“教師”という仮面が、いまのわたしには、あまりにも重すぎた。
わたしは、職員用女子トイレの奥の個室に駆け込んだ。
扉を閉めた瞬間、膝が崩れた。
しゃがみ込んだまま、頬を両手で押さえる。
(……いかんっちゃ、こんなん……ほんと、いかんけん……)
こらえようとした涙は、
胸の奥から突き上げるようにして溢れた。
声にならない嗚咽が、喉を震わせた。
泣いてはいけないとわかっているのに、
わたしの中の“誰か”が、止まらなかった。
(……なんで……あげんなことに、なってしもうたっちゃろ……)
(……うちは……ただ、守りたかっただけっちゃ……それだけやったとに……)
言い訳も、正当化も、もう意味を持たなかった。
守れなかった。
救えなかった。
そしていま、わたしが救ってほしいと願っていること自体が、
あまりに自己中心的で、浅ましくて――
「……ごめん……うちが、ほんとに……ごめんっちゃ……」
自分でもよくわからない言葉が、
涙と一緒に漏れ続けた。
誰に向けた“ごめん”だったのか。
もう、わたしにはわからなかった
・
女子トイレの個室の扉を閉めたまま、
わたしは、しばらく声を殺して泣いていた。
化粧が落ちるのも、目が赤くなるのも、どうでもよかった。
あの部屋で言われた一言一言が、まだ耳の奥でくすぶっていた。
「……あなたの行動には、教師としてあるまじき疑念があります」
「生徒との関係性について、誤解を招く行動があったと判断されれば、懲戒処分の可能性も視野に入ります」
冷たい声。乾いた机の音。
真正面から疑いを向けられるというのは、こんなにも息苦しいものなのか。
わたしは水で顔を洗い、鏡に映る自分を見つめた。
目の縁がわずかに赤い。
でも笑える。
教師の顔くらい、まだ、取り繕える。
(……大丈夫。うちは、大丈夫)
そう言い聞かせて、扉を押し、廊下を歩いた。
午後の教室は、ほのかに陽が差し込んでいて、
昼休みの名残のざわめきが微かに漂っていた。
(普通に入ればいい。なにもなかったように、いつも通りに)
そう思って教室の扉を開けたその瞬間――
視界の真ん中に、ふたりの姿があった。
沙都と、真人。
沙都は椅子の背に腕をかけ、
真人の机に上体を傾けるようにして話していた。
彼女の口元には、控えめながらも確かな笑み。
そして、その手――
真人の制服の袖口に、ふわりと触れていた。
わたしの心が、
わずかにきしむ音を立てた。
「先生、おかえりなさい」
沙都がこちらに気づいて、ゆっくりと体を起こした。
その声は礼儀正しかったけれど、
その瞳には、どこか“計算済み”の余裕があった。
真人は沙都の言葉に釣られて振り返る。
「先生、大丈夫でした?」
「……うん、大丈夫。ちょっと、職員会議が長引いただけ」
声が上擦らないようにするのに、精一杯だった。
沙都はわたしと目を合わせたまま、
わずかに唇を歪めて笑った。
「心配してたんですよ」とでも言いたげな口元。
でも、その目はまるで――勝者の目だった。
(……報告したのはこの子で間違いない)
何を? どこまで?
わからない。けれど確かに、そこには“確信”があった。
真人はあくまで自然体で、
わたしが動揺していることにも気づかず、
沙都との会話を再開しようとしている。
その横顔を見て、
わたしは胸の奥に、ひどく冷たいものが流れ込むのを感じた。
(いま、あの子の声に笑って――あの子の仕草に触れられて――)
大切な人が、わたし以外の誰かに“触れられている”という現実。
その手の感触を、
昨日までの夜の温もりが打ち消してくれるはずなのに。
なぜか、今日はそれが遠かった。
プリントを配る手が、わずかに震えた。
「……配るね」
そう言って教卓へ向かうわたしの背後で、
沙都の声がまた、真人に優しく語りかけていた。
その柔らかい声音が、
まるで“真人にふさわしいのは私よ”とでも語るように――
わたしの鼓膜に、ゆっくりと沈んでいった。
(いかん……崩れてしまいそうっちゃ……)
自分を保つのに、
いつもの三倍、力が必要だった。
その日、授業中の板書はいつもより少しだけ歪んでいた。
・
玄関のドアを閉めたとき、
わたしは、足が動かなくなった。
ただいま、と声をかけることもできず、
壁にもたれて、目を閉じる。
今日、あの部屋で言われた言葉が、まだ胸に居座っていた。
「……懲戒処分も、ありえます。
このまま何もしなければ、生徒側の人生にも重大な影響が及びますよ」
わたしの顔を見下ろすようにして言った、水野教頭の冷たい声。
(……終わらせんといかん)
そう、心の中で何度も繰り返してきた。
キッチンから、包丁の軽い音が聞こえた。
真人が、夕飯を作っていた。
夕陽の残光に照らされた横顔は、
まるで何事もなかったかのように、穏やかだった。
それが、苦しかった。
「……ただいま」
声をかけると、真人が振り返って笑った。
「おかえりなさい。あと、10分くらいでできるよ。
今日はちょっと頑張って煮込みハンバーグにしてみた」
「……そっか」
笑わないように、努めた。
優しさが、いちばん痛い。
煮込みハンバーグのいい匂いが漂っていた。
鍋の蓋をずらしながら、彼は何も知らない顔で微笑んでいる。
その姿が――
どうしようもなく、苦しかった。
「真人」
声をかけると、彼はすぐ振り向いた。
「ん?」
「今日、学校で……教頭に呼び出された」
彼の笑みが、ゆっくり消える。
「また、“その話”?」
「“また”って……」
わたしは、言葉を飲み込んだ。
一度、もう言ったのだ。
この関係は、やめよう、と。
だけどあのときは、
感情の渦の中でこぼれ落ちた言葉で――
本気で、壊す覚悟があったわけじゃなかった。
でも、今日の教頭の言葉は、その甘さを容赦なく断ち切った。
「……今日のは、正式な事情聴取だった。Wi-Fiのアクセス履歴とか、教室の防犯カメラとか。……全部、見られてた」
「……そんな……」
「もう、いかんね。……うちは、ほんとに職を失うかもしれない。何より……真人のこの先の人生を、傷をつけてまう」
言いながら、喉が詰まった。
「前にも言ったでしょ。やめようって。でも……ちゃんと話せなかった。うち、どっかで甘えとったんやと思う」
「俺は……」
「真人」
目を伏せたまま、声を重ねた。
「もう、やめよう。……今度こそ、本気で」
本気で言えば言うほど、心の奥がざわついて痛くなる。
泣いてしまいそうだった。
でも泣いてしまったら、この言葉は台無しになる気がした。
だから、泣かずに言いきった。
真人は何かを言いかけたが、声にならなかった。
キッチンの火の音だけが、静かに響いていた。
しばらくして、彼が絞り出すように呟いた。
「……先生、それ、俺のこと守ろうとしてるんでしょ」
「……そんなの、当たり前でしょ」
「でも、俺……子供扱いされてるのが、いちばん悔しい」
その言葉に、胸がかき乱される。
でも、だからこそ思った。
(わたしは、大人。……いかん道は、もうちゃんと止めないと)
「子供じゃない。でも……うちは、大人だから、終わらせる決断を、下さないといけないの」
苦しくて、震えるほどの正しさ。
けれど、それでも伝えなきゃいけなかった。
「終わらせないかんのよ」
言いきったわたしの声は、ほんの少しだけ震えていた。
真人は、俯いたまま何も言わない。
鍋の火がごく小さな音を立てて、ぽこぽこと鳴っている。
その音だけが、この部屋の静けさを支えていた。
(言ってしまった……今度こそ)
けれど、言葉を吐き出した胸の奥には、
すっきりした感情なんてひとつもなかった。
苦しかった。
自分で自分の胸を刃物で裂いたような気がした。
ピンポーン。
乾いたチャイムの音が、その沈黙を無遠慮に断ち切った。
真人が、驚いたように顔を上げる。
わたしも思わず息を呑んだ。
時計の針は、午後六時半を指している。
(こんな時間に……?)
不審な感情が、脊髄を伝ってぞくりと走った。
わたしは玄関へと歩き、インターホンのモニターを点ける。
そこに映っていたのは――作業服を着た、男の姿だった。
・
点検業者――名札には「古谷」とあった男は、
ごく普通の、むしろ愛想の良い印象を与える人物だった。
「いやー、ほんと遅れちゃってすみません。本部に戻る用事が入っちゃって、機材がトラブったもんで……。急いできたんですけど、時間食っちゃいましたね」
笑いながら差し出した名刺には、しっかりと管理会社のロゴ。
制服も、見慣れたものだった。
だから、わたしは警戒心を解いた。
真人も、それに習ってキッチンの方へ戻っていく。
「じゃあ、点検入りますね」
古谷は、壁際の備え付け図面を確認してから、
玄関脇の非常扉へと向かう。
その途中――
彼の視線が、ほんの一瞬だけ、室内を横切った。
廊下、リビング、ダイニング。
わずかな時間の中で、空間の寸法を測るように視線を流していた。
けれどその動作は、業務的な確認作業にしか見えない。
「非常扉の開閉、問題なし……。んー、ここも油の散布は前回で十分だった感じですね」
古谷は、まるでチェックリストに沿って話すように、ひとつひとつ点検を進めていく。
作業用のタブレットに、項目をひとつずつ入力していく手つきも、慣れたものだった。
(……普通)
なんとなく目を離せずにいたけれど、変なところはなかった。
――そう思っていた。
が、その手が何気なく腰ポーチに伸び、
そこから取り出したのは細長い金属の棒。
「これ、室内の空間圧見とくセンサーなんですよ」
彼は軽く笑いながら、それを扉の隙間へと差し込んだ。
「簡易的に圧の変化と通気の状態、見るだけなんですけど。まぁ、安全確認ってやつですね」
(そんなの……今まであったっけ)
ふとそう思ったが、口には出さなかった。
古谷の所作はあくまで手際よく、
会話も気さくで、どこにも“不穏”を感じさせない。
だけど、あの棒――
わたしには“何かを記録している”ようにも、見えた。
「……あと少しで終わりますんで。ご在宅、ありがとうございます」
そう言って頭を下げた彼は、リビングのドア近くへも軽く目を向けた。
まるで――次に点検する予定の位置を“照らし合わせる”かのように。
けれどそこにはメジャーも図面もない。
わずかに首を傾けながら、何かを記憶しているようだった。
(……やっぱ、普通の業務なのかな?)
自分に問いかけたその瞬間、
キッチンの奥で真人がくしゃみをした。
わたしは、慌てて彼にテッシュを渡す。
「これで大丈夫です。また、なにかあれば連絡しますんで」
そう言って扉を閉めた古谷の背中には、
どこまでも“普通の業者”の気配が残っていた。
・
インターホンが鳴ったあのとき、
わたしの決意は、一度ふわりと宙にほどけた。
点検業者の応対を終えて、
静まり返った室内に戻った瞬間、
何かを言いかけていた自分が、
“日常”という薄い膜に包まれていくのを感じた。
真人は、いつの間にかキッチンの隅にいて、カップに水を注いでいた。
その仕草は、ただの少年のようだった。
でも、だからこそ――
この関係がどれだけ、危ういものかを思い知らされた。
(いかん……ここで流されてしもうたら、ほんとに終わってしまう)
もう一度、言わなければ。
怖くても。苦しくても。
わたしは彼の背中に声をかけた。
「真人」
「……うん?」
「さっきの話、うち……まだ、ちゃんと伝えきれてなかった」
彼が、わずかに振り返る。
その表情は、どこか諦めたようにも見えた。
「だから……もう一度言うね。うちと、真人の関係は……ここで終わらせないかん」
真人は何も言わなかった。
けれど、そのまなざしは――
まるで、痛みを持った鏡のようだった。
「さっきの業者、……たぶんただの点検だと思う。でも、“誰かが来た”ってことがうちには、……目を覚ますきっかけになった」
わたしはゆっくりと言葉を選びながら、続けた。
「このまま、うちの部屋におるのは危険だよ。真人を守るために、うちは“正しいこと”を選ばないかん。……もう一度、ほんとにそう思った」
真人の喉が、わずかに動いた。
「俺……」
「うちは真人のこと、ほんとに好きっちゃよ。どうしようもないくらい」
そう言った瞬間、視界が滲んだ。
「でも、好きやけんこそ……ここで線ば引かんと、全部壊れてしまうっちゃ。真人の未来も、わたしの居場所も、ぜんぶ、なくなってしまう」
わたしの声が震えていた。
でも、それは決して迷いではなかった。
痛みをごまかさずに喋ることが、いまの自分の責任だった。
真人は、そっと目を伏せた。
長い沈黙が流れる。
そしてようやく、小さな声で返してきた。
「……わかった。でも、せめて――今日だけは、ここにいさせて」
その言葉のなかにある、
どうしようもない願いを、わたしは断れなかった。
うなずくこともできず、
ただ、ひとつ息をついて、目をそらした。
これが、本当の別れになるかもしれない。
その現実を、わたしたちはきっと胸のどこかで理解していた。
・
沈黙のなか、わたしは一度だけ深く息を吐いた。
すぐに言葉を継げば、感情が漏れてしまう。
もう二度と戻れない気がして、怖くてたまらなかった。
でも――それでも、言わなければならない。
「……真人」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げた。
目が合った瞬間、わたしの中で何かが軋んだ。
けれど、口に出すしかなかった。
「荷物……まとめて」
その言葉は、自分の舌から出たとは思えないほど冷たく響いた。
真人のまばたきが、一瞬遅れる。
「明日……放課後に警察に行こ。ちゃんと、“誘拐されかけたこと”届け出て、話そう」
彼の目に、わずかに動揺の影が走る。
「……でも俺……証拠とか、ないよ。顔も見てないし、捕まりかけた瞬間に逃げただけで――」
「それでも、ええの。届け出ることに意味がある。今は“記録”を残すほうが大事なんよ」
わたしは、なるべく感情を見せないように言った。
泣きたいくらい、苦しかった。
でも、ここで情に流されたら、全部が終わってしまう。
「ここで、なにかあってからじゃ遅い」
「……じゃあ、俺は……もう、ここに戻ってきたらだめなの?」
真人の声が、小さくなった。
わたしはうなずいた。
「うん。……いかん」
彼の瞳が静かに揺れるのを、
わたしは見ないふりをした。
「今夜だけ、ここにいて。明日、ちゃんと届け出したあと……次のこと、一緒に考えよ。うちも……無責任にはならないから」
真人は、俯いたまましばらく動かなかった。
でもやがて、小さくうなずいた。
「……わかった。荷物、まとめる」
その言葉を聞いて、
わたしはやっと背を向けることができた。
でも、その瞬間、背中に何かがじわりと滲んできた。
(これでよかったんよ。……きっと)
それを言い聞かせるように、
わたしは静かに、寝室のドアを閉めた。
・
段ボールの底に、折り畳んだTシャツが重ねられていく。
洗いざらしのタオル。折り畳み傘。
わたしは黙って、必要そうなものをひとつひとつ畳み直していた。
真人も、静かに鞄の中に本や充電器を収めていく。
音がなかった。
テレビも、音楽も、何もつけていないこの部屋で、
唯一響いていたのは、ダンボールが擦れる音と、
衣類が布の音を立てる気配だけだった。
「これ……どうする?」
真人の声がふと落ちてきた。
振り向くと、彼の手には――
小さな白い封筒。
そこから少しだけ覗いていたのは、プリント写真だった。
ふたりで出かけた日、
誰もいない公園のベンチで、スマホのセルフタイマーで撮った、
唯一“現像した”ツーショット。
スマホじゃ、なんか足りんよねって、
わたしがそう言って、わざわざ現像した写真だった。
「……捨てよか」
わたしは口に出した瞬間、自分の心臓が動く音を感じた。
でも、言わなきゃいけなかった。
こうでもしなきゃ、気持ちを引き裂けなかった。
真人は、黙ったまま写真を封筒から引き出し、
一枚をそっと見つめた。
そして、わたしの方へそれを差し出す。
「……先生が、破る?」
その声は、まっすぐだった。
穏やかで、でもどこか突き刺すように。
わたしは写真を受け取った。
わたしと真人。
肩を寄せ合って、照れ笑いをしていた。
その写真を、ふっと息をつくように見下ろして、
右手の指に力を入れようとしたとき――
「やめてよ!」
真人が、思わず声を上げて、わたしの手を掴んだ。
「なんでそこまでして捨てようとするの!?忘れたいの?なかったことにしたいの?」
「ちがう! そげんことやなかと……」
わたしも、声が震えた。
「忘れたくなんかなかっちゃ、でも……これは忘れんといかんことっちゃもん……!」
「どうして? これ、俺にとって本物だった。先生が笑ってくれたのも、肩が触れたのも――ぜんぶ、本物だった!」
「真人……」
「俺だけが、忘れないまま残されるの、嫌だ」
その言葉に、わたしの手がわずかに緩んだ。
破ろうとした指先が、写真の端をゆっくりと離れていく。
「じゃあ……残しとこ」
わたしの声は、もう細かった。
「封筒に戻して、箱のいちばん底に入れよう。見えないとこに」
真人は何も言わず、封筒を受け取って、
静かに段ボールの底に収めた。
その上に、柔らかいタオルを重ねるようにして。
言葉じゃ、なにも整理できなかった。
でも、気持ちだけは、少しだけ……痛みを共有できた気がした。
(きっと、この痛みは……“ちゃんと好きだった証”なんだ)
そんな風に思うことでしか、
いまはもう、この胸の重さをどうしようもできなかった。
・
荷物を詰め終えた段ボールが、
リビングの隅で黙って佇んでいる。
日付が変わる手前の時間。
この部屋は、これまででいちばん静かだった。
わたしは、キッチンの照明を落とし、
手元に残ったコップを布巾で拭いていた。
もう洗い物も終わっているのに、
手を止める気になれなかった。
「先生、そろそろ寝よっか」
背中越しに、真人の声。
その響きが、
まるで何事もなかった頃へ引き戻そうとしてくるようで、
わたしは一瞬、息を詰めた。
振り返ると、真人は寝間着姿で立っていた。
ベッドへ向かう途中で、当然のようにわたしの手を待っている。
その姿が、
もう当たり前ではないことに――
彼だけが気づいていない。
いや、きっと気づいてる。
気づいているけど、信じたくないんだ。
「うちは……ソファで寝るから」
静かに言ったその声は、
自分のものじゃないようだった。
真人の顔が、明らかに曇った。
「え……なんで?」
「今夜くらいは、ちゃんと分けよ」
「分けるって、何を」
「……すべてを、よ」
わたしは布巾を畳みながら、
できるだけ視線を合わせなかった。
「もう……何もかも、“元には戻らん”って、真人にもわかってほしい」
「恵美……」
「ずっと一緒の布団に入って、何も考えずに……身体を重ねて、それが当たり前みたいに思ってたけど、そんな日々は、もう――終わったの」
真人は、何かを言いかけて口を閉じた。
目元に、見えない痛みが張り付いているのがわかった。
彼の手が、ほんの少し伸びた気配があった。
でも、何も触れず、下に落ちた。
「……俺、ベッド、ひとりで寝るの初めてかも」
かすれた声。
「……うちもっちゃよ」
応えながら、ソファに毛布を持ち込む。
背もたれに体を沈めると、
張り詰めていた背筋が痛いほど重くなった。
照明を落とすと、部屋は藍色の闇に沈んだ。
隣の部屋で、ベッドがわずかに軋む音が聞こえた。
そのたびに胸が締めつけられる。
(こっちに引き寄せたら、きっと泣いてしまう)
だから、
この夜だけは――わたしが、大人でいなければならなかった。
毛布を抱えて膝を引き寄せたとき、
頬にぬるいものが落ちた。
ふたりの間にあった、あたたかな夜が、
遠ざかっていく音がした。
毛布にくるまり、ソファの浅い硬さに体を沈める。
部屋は深い闇に閉ざされていて、耳鳴りのような静寂が充満していた。
目を閉じてもしばらくは、眠気がこなかった。
薄く滲んだ涙が乾かずに頬に残っていて、
それが夜の冷気に触れるたび、思考が揺らされた。
だけど、やがて――
意識が、すこしずつ輪郭を失っていく。
現実の痛みが遠ざかる代わりに、
なつかしい風の匂いが、ふいに鼻先をかすめた。
――夢の中だった。
けれど、あまりに鮮やかで、
それが夢だと気づくのに時間がかかった。
足元には、うすく水の張った石畳の道。
夜祭の笛の音が遠くに聞こえる。
湿気を帯びた夏の空気のなか、遠くにぼんやりと紙灯籠の光が揺れていた。
見覚えのある風景――
忘れていたはずの、村の夏祭りだった。
「恵美ちゃん」
その声がした瞬間、胸がぎゅっと詰まった。
振り返らなくても、わかっていた。
それは、記憶の底で
いちばんあたたかく、
いちばん触れられたくなかった存在。
振り返ると、そこに彼がいた。
白い甚平。
手には、リンゴ飴。
薄い汗をかいた額に、前髪が少しだけ貼りついている。
そして――優しく笑っていた。
懐かしくて、恋しくて、
でもどうしても名前が思い出せない男の子。
「来ると思ってた」
そう言って、彼はわたしの手を取った。
指先が触れた瞬間、
体温といっしょに、胸の奥に沈んでいた何かが揺れた。
(……ああ、この手……わたし、知ってる)
それは、安心の形をしていた。
わたしは言葉を失ったまま、彼と並んで歩き出した。
夜の村。
道の端では、子どもたちが金魚すくいをしていて、
屋台の灯りが水面に揺れていた。
すべてが滲んで、にじんで、
でもはっきりと――“かつてあった”という確信だけが、そこにあった。
「忘れてたでしょ」
彼が小さく呟いた。
「おれのこと……」
「……うん」
正直に答えた。
「忘れたわけじゃないんよ。思い出そうとしても、いつも、指のすき間から零れるみたいで……」
すると彼は、まっすぐこちらを見た。
その目の奥にあるものを、
わたしは今でも言葉にできない。
それは優しさであり、悲しみであり――
“約束”のようなものだった。
「また、来るから。ちゃんと思い出して。じゃないと……間に合わなくなる」
その言葉の意味を問う前に、
風が吹いて、灯籠の光が一つずつ消えていった。
闇が落ちていく。
祭りの音が遠ざかっていく。
水の張った石畳に、彼の姿が溶けていく。
「……まって……」
口が動く。手を伸ばす。
でも、もうそこには、何もなかった。
わたしは、夢から引き戻された。
毛布の感触。
冷えた頬。
そして――ベッドのある方角から聞こえる、微かな寝息。
現実だった。
でも胸の奥には、
まだ夢の中の彼の手の温もりが、残っていた。
(……あなたは、誰?)
問いは声にならなかった。
けれどその答えを、わたしの心はずっと探し続けていた。
それが“過去”を開く鍵になるとも知らずに――
◇
朝の光は、いつもより冷たく感じた。
薄いカーテン越しに射し込む陽の光が、
部屋の壁を淡く染めている。
でもその柔らかさは、
わたしの肌には、少しも届かなかった。
ソファの上で毛布にくるまっていた体は、
寝返りを打つたびに、何度も目を覚ました。
眠った気がしない。
けれど、確かに“夢”は見た。
彼が出てきた――
名前も、顔も、まだ朧げなままの、初恋の男の子。
そして目覚めた今、
わたしの頭のなかには、
“彼”の面影が、どうしようもなく張りついていた。
(……なんで、こんなときに)
隣の部屋では、真人の気配がした。
小さく何かを動かす音。
たぶん、身支度の音。
それを聞いて、
わたしは息を詰めた。
(もう……終わったんだよね)
“そういう関係”は、もう――昨日で終わった。
なのに、体の奥がまだ彼を覚えている。
朝が来れば、
すべてがすっきりすると思ってた。
でも違った。
目を覚まして最初に思ったのは、
夢の中の“彼”のこと――
そして、その次に浮かんだのが、真人の寝顔だった。
(最低)
自分に嫌気が差した。
真人のことが、まだ好きで仕方ない。
それは確かなのに、
夢の中で手を取ってくれた“彼”のことも、知りたくてたまらない。
そんな自分が、いちばん汚い気がして――吐きそうだった。
「……先生、おはよう」
玄関の方から、真人の声がした。
振り向くと、彼は制服に着替えて、
整えた髪の毛が、やけにまぶしく見えた。
ほんの少し、大人びた顔。
その姿が、胸に刺さった。
「おはよう……」
なんとか言葉を返したけれど、
声がうわずっていたのが、自分でもわかった。
真人も、何かに気づいたように一瞬止まったが、
そのまま、テーブルの上に小さなメモ帳を置いた。
「……朝ごはん、俺が作ったけど、食べれそうにないなら無理しなくていいから」
「ありがと」
もう、“おはようのキス”も、“行ってきますの抱擁”もない。
「じゃあ……行ってくる」
「うん。気をつけて」
ほんの短いやりとり。
でもその背中を見送った瞬間、
胸がひゅっと縮んだ。
(……まだ、終わってへん。うちの中では)
態度では、別れられた。
言葉では、終わらせた。
でも、心だけが、まだ置いてけぼりだった。
その朝、わたしは何も食べられなかった。
・
リビングのカーテン越しに、朝の光が差し込んでいた。
けれど、それがわたしの体を温めることはなかった。
キッチンで湯を沸かす音を止めて、
そのまま、無意識のうちに寝室の扉へと手をかけていた。
(どうして――開けようとしてるの)
そう思ったときには、すでにドアは半分開いていて、
薄明かりのなかに、真人が昨夜ひとりで眠ったベッドが見えていた。
布団は、少し乱れていた。
寝返りの跡がまだ柔らかく残っていて、
真ん中より少し右寄り――そこに、彼は眠っていたらしい。
わたしはゆっくりと近づき、
そのシーツのしわに指先をそっと沿わせた。
(ここに、……いたんだ)
誰に言うでもない言葉が、胸の中で響く。
真人の体温は、もう抜けていた。
でも、ほんのわずかに、彼の匂いが残っていた。
それは、石鹸の香りと、
制服に染みついた汗のような、
まだ少年の輪郭を保った――けれど、どこか男の匂いだった。
わたしはその香りに、抗うように、
けれど結局は負けるように、
そっと顔を近づけていた。
鼻先にふれる微かな香気。
一緒に過ごした夜の記憶が、そこから立ちのぼってくる。
笑った声。熱を帯びた体。
布団の中で名前を呼び合った夜。
(いかん……やめな)
そう思ったのに、
指先が、シーツを少しだけ握っていた。
そのまま、わたしは小さくうずくまった。
泣くつもりはなかった。
でも、まぶたの奥がじんわりと熱を帯びてくる。
(終わらせたのは、うちやのに……)
(なんで、こんなに……苦しかとやろ)
ふたりで眠ることが当たり前だった場所に、
今はわたしひとり。
その現実が、
ようやく“体”で理解できた気がした。
布団の中に残る空気さえ、
わたしにはもう、触れる資格がないもののように思えた。
しばらく、ただじっとしていた。
まるで、過去のぬくもりにすがるように。
でも、時間だけがすこしずつ、わたしの背を押していった。
(前に、進まないと)
心の奥でそう呟いて、
わたしはゆっくりと顔を上げた。
現実は、もうここに――戻っていた。
◇
教室の扉を開けた瞬間、
“そこにいてはいけない人”が、わたしの教卓にいた。
教頭――水野だった。
白いワイシャツに、真っ直ぐな背筋。
整えられた眼鏡の奥に、誰にも感情を見せない眼差しが光っている。
朝の会を担任に代わって進行しているのは、異様だった。
でも、誰もそのことに触れなかった。
「神原先生、……ご到着ですね。朝会、進めておきました」
その声は、いつも通り丁寧で、
だが、その下に“薄氷のような切断”が確かにあった。
わたしは、軽く頭を下げた。
「申し訳ありません……ありがとうございます」
言葉が唇を通り抜けるその刹那――
背後から、ひとつの視線がわたしを射抜いた。
沙都だった。
水野が静かにわたしの横を通り過ぎ、
教室を出ていくのを見送るその顔に、
沙都は“微笑み”を浮かべていた。
ほんのわずか。
ほんの、刃のように細い弧。
その笑みに、明確な言葉はなかった。
けれど、たしかにこう言っていた。
⦅これで、“終わり”ですね、先生⦆
ふたりは繋がってはいない。
水野教頭は、沙都の内心など知らない。
沙都もまた、教頭の立場を意識しているわけではない。
だけど――結果として、
ふたりは“わたしの秘密”を叩き壊した。
それを、本人たちは知らずに、
けれど無意識に、勝者の空気を身にまとっている。
教頭が出ていったあとの静寂の中、
わたしは教卓へと歩いた。
いつもの場所が、
まるで“異物”のようにそこにあった。
沙都が、机に肘をつきながらこちらを見た。
頬杖の形が、どこか浮かれて見える。
「先生、おはようございます」
彼女は、誰よりも早く挨拶を口にした。
それは、明るく、礼儀正しい――
だけどどこか、わざとらしいほどに“整った”声だった。
その笑みの端が、少しだけ吊り上がっている。
口角の角度が、ほんのわずかに、計算されている気がした。
(……こいつ)
そう確信するよりも早く、
沙都の視線が、ちらりと真人の方を見た。
その瞬間、すべてが繋がったようだった。
「今朝は大変でした?」
言葉は柔らかい。
でも、言葉の中に“全てを知っているような安堵”があった。
その瞬間、わたしはすべてを悟った。
この教室で、
いちばん冷静で、いちばん残酷な“真実”を知っているのは、
わたしでも真人でもなく――
この笑っている沙都なのだ。
静かに始まるホームルーム。
淡々とした出席確認。
だが、その教室の温度は確実に変わっていた。
わたしの声も、表情も、たぶん昨日とは違っていた。
でも、それを口に出す者はいない。
ただ“空気”だけが、すべてを知っていた。
勝者は、戦わない。
ただ、静かに“終わるのを待つ”。
そのことを、今日の朝会は教えてくれた。
・
「真人くん、最近なんだか……大人っぽくなったよね」
出席確認が終わるやいなや、
沙都は机に肘をつき、横目で真人を見ながらそう呟いた。
その言葉には、誰が聞いてもわかる“意味”があった。
「雰囲気変わったっていうか……なんて言うのかな、誰かと“一晩中話してた”後の顔っていうか?」
その言葉に、わたしの背筋がピクリと反応した。
誰も笑わない。
でも、誰も止めない。
沙都の指先は、教科書の角をゆっくり撫でていた。
その動作が妙に艶めいて見えるのは、わたしの気のせいだろうか。
「先生、朝どうしたんですか?遅れてきたの珍しいですよね」
沙都が急にこちらを見た。
その目は、まるで探るように――いや、もう“答え合わせ”をしようとしていた。
「……ちょっと、用事があって。あとで警察に同行する予定もあるから」
なるべく事務的に返したつもりだった。
けれど、声の端にどこか緊張が混ざってしまう。
沙都はその様子を、明らかに楽しんでいた。
「警察……へぇ。先生って、もっと固い人かと思ってましたけど、案外、そういうのにも縁があるんですね」
「……どういう意味?」
「いえ、別に?ほんと、別に」
そう言いながら、彼女は笑った。
唇を閉じたまま、目元だけで笑うその表情は、
まるで“勝者”のそれだった。
沙都のまなざしは、何も言わずに、“わたしの動揺”を拾い集めているようだった。
・
朝会が終わり、生徒たちがざわざわと机を整え始める。
教科書のページを繰る音、椅子を引く音、
そのどれもが日常の風景に見えて――
けれど、わたしにはどこか落ち着かない濁りがまとわりついていた。
教卓の前に立ったまま、
出席簿に視線を落としたそのときだった。
「先生」
耳慣れた、けれど慎重に抑えられた声。
顔を上げると、そこには沙都がいた。
彼女は静かに一礼して、ほかの生徒がまだ私語を交わす中、
まっすぐにこちらへ近づいてきた。
「授業の質問があるんです」
教科書を胸元に抱きしめながら、沙都は小さく微笑んだ。
その笑みは、あくまでも“優等生らしい親しみ”を装っていたけれど――
わたしには、どこか硬質なものがその奥に見えた。
「今すぐ確認したくて……でもちょっと、見られたくない内容というか。教室の中だと話しにくくて。……少しだけ、お時間いただけますか?」
わたしは一瞬だけ、戸惑った。
教頭の不在の今、
次の授業の準備もあるし、
“沙都と二人きり”というシチュエーションも――危うさを孕んでいる。
でも、彼女の言い方は巧妙だった。
あくまで“授業に関する質問”。
しかも“繊細な内容”を“人目のつかない場所で”。
拒む理由をつけようとして、喉元まで言葉が上がったけれど、
結局わたしはそれを飲み込んだ。
「……わかった。職員室前の廊下でいい?」
「はい」
沙都は素直にうなずいた。
けれどその目は――わずかに笑っていた。
それは、“思惑通り”という確信を隠しきれていない目だった。
(この子は、全部知ってる)
言葉にできないその気配が、
指先に、背中に、じわじわと沁み込んでくる。
けれど、わたしはただ静かに扉の方へ向かった。
足音が二つ、廊下に並んで響いた。
早朝のホームルームが終わったばかりの時間帯。
まだ空気は落ち着かず、教室の扉の向こうでは次の授業の支度が続いていた。
職員室の前。
掲示板に貼られた連絡プリントの文字をぼんやりと視界にとらえながら、わたしは歩みを止めた。
「……で、質問って?」
振り返ると、沙都はにこりと笑った。
その顔には“悪びれ”の三文字が一切なかった。
逆に、その整った優等生の顔立ちからあふれるのは――明確な、昂揚。
浮き足立った空気。
年相応の、しかしどこか意図的な演技。
わたしの胸の奥に、微かな苛立ちが灯る。
「嘘です。質問なんて、本当はありません」
沙都はまるで“かわいい嘘”でもついたかのように軽やかに笑った。
「先生のことが……心配で。最近、お疲れのようですし。もし何かあれば、相談に乗りますよ?誰にも言いませんから」
その言葉の一つひとつに、わたしの神経が少しずつ軋んでいく。
(何が“心配”よ。何が“相談に乗りますよ”だ)
「……プライベートな話だから結構です」
わたしは冷たく、しかしなるべく平坦に言い放った。
一歩でも踏み込ませたら、
この子は“勝った”と思う。
その直感が、ずしりと胸にあった。
沙都は、ほんの一拍、目を細めた。
「そうですか?でも……」
教科書を胸に抱き直す仕草は、相変わらず丁寧で品がある。
その裏に隠された毒を、感じ取れるのはわたしだけだった。
「優等生って、内申点で評価されるじゃないですか。先生もご存じの通り」
わたしの眉が、わずかに動いた。
「そういう言動も内申点に響くよ?優等生なんだから分かるでしょう」
そう返した自分の声が、静かに廊下に落ちた。
明らかな牽制。
でも、それを受けた沙都の表情は、少しも揺れなかった。
「そっくりそのままお返しします、先生」
笑みの形だけが唇に残り、声にはわずかな硬さがにじんだ。
「“大人”として、“教師”として。正しい行動を、すべきだったんじゃないですか?」
その言葉の一撃は、何よりも鋭かった。
まるで“何かを見てきた者”のように。
それは“証拠はないけれど、確信だけはある”という人間の、勝ち誇った目だった。
わたしは一瞬、言葉を失った。
目の前の沙都が、制服の襟元に手を添えて、
わずかに背筋を伸ばすその仕草さえも、
なぜか“勝者”のそれに見えた。
(この子は……ここまで計算して)
「……それでも、生徒に指図される覚えはないわ」
最後にそれだけ返し、わたしは踵を返した。
ヒールが廊下に硬く響いた。
振り向きはしなかった。
でも、背中越しに確かに感じた。
沙都が、小さく息を吐きながら――また、あの“笑み”を浮かべたことを。
女と女。
教師と生徒。
どちらが“上”かではなく、
どちらが“先に折れるか”――それだけの対決だった。
そして、今日はわたしが一歩引いた。
▼
昼休み前の10分、
教室内はちょうど静かさと騒がしさの中間にあった。
教科書を片づける音、
お腹が鳴ったと笑い声を漏らす子、
プリントを慌てて探す声。
そのざわめきのなかで――沙都は、すっと立ち上がった。
彼女の動作はあくまで自然で、
だが、それを目にした周囲の女子たちが、
ごく自然に“耳を傾ける姿勢”をとっていた。
沙都はそれをわかっていた。
「ねえねえ、なんかさ」
教壇の方にちらりと視線を向けながら、
彼女はいつものように声のトーンを落とす。
「……最近、先生の様子、おかしくない?」
一瞬、周囲の空気が固まる。
けれど誰もそれを否定しない。
「朝も遅れてきたし、顔もどこかこわばってるし……なんか、“誰かと揉めてる”っぽくない?」
数人の女子が顔を見合わせた。
「え、なにそれ。誰と?」
「いや、わたしも“見た”わけじゃないんだけどね」
沙都は笑いながら、わざと曖昧に言う。
「でもさ、先生ってけっこう、“見た目に出やすい”っていうか、わかりやすいタイプでしょ?」
「……わかるかも」
小さな同意が、空気を伝って広がる。
「でしょ? なんか、最近すっごく情緒不安定っていうか。朝からイラついてるような日もあるし……ほら、こないだりかちゃんにも、ちょっとキツかったよね?」
「……うん、たしかに」
沙都は、それ以上多くを語らなかった。
けれど“何かを知っている”という雰囲気だけが、
会話の外側に、確かな印象を残していく。
彼女の声は控えめだったのに、
その波紋は教室の端までじわりと届いていた。
「ま、なんにもないならいいんだけど。でも、もしなんかあったら……早めに“誰か”が気づいてあげた方がいいよね」
沙都はそう言って、教室の窓の方へと目を向けた。
その目は、誰にも届かない位置に向けられていた。
けれど、その背中は“何かを確信している者”のものだった。
こうして、誰も気づかないうちに――
“先生が誰かと揉めている”という認識が、
クラスのなかで静かに根を張っていく。
そして、沙都はその中心に、自然に立っていた。
◇
教室の窓から射し込む午後の光が、
淡く白いカーテンを揺らしていた。
5限目。現代文。
教壇に立ったわたしは、教科書をめくる手を止めながら、
クラス全体を見渡していた。
ざっと30人。
それぞれにノートを取り、プリントをのぞきこむ。
沙都の席も、そのなかにある。
髪を耳にかけて、背筋を伸ばして座っていた。
ペンの動きは正確で、ページの余白には書き込みが整然と並ぶ。
――完璧な、優等生。
(その顔、なによ)
胸の奥に、昼休みの一件が重たく残っていた。
“質問は嘘です”と、平然と言ってのけたあの態度。
“先生が心配で”と、まるで善意の仮面をかぶって爪を立ててくる手つき。
わたしは――怒っていた。
本当は、もっと冷静にいるべきだったのに。
「ではこの問題、誰か解いてみましょうか」
教科書に載っていた評論文の読解。
テーマは「言語と主体性」。
高校生にはやや難解な内容だった。
ページの一部を指で軽く叩きながら、
わたしは視線を上げた。
「沙都さん、いける?」
指名する声は、平静を装っていた。
けれど、自分でもわかった。
そこには、わずかな“私情”が混じっていた。
沙都はすっと顔を上げ、笑った。
「はい。……主体性とは、自分の選択が自分の言葉によって規定されるという意味であり、言語はその根幹を構築する媒体です。したがってこの筆者の主張は、自己の表現を通じて自己を再構築する……そういうことかと」
流れるような回答だった。
そして、それが正しいことも、わたしにはすぐにわかった。
だけど。
「……そうね。でも、惜しいかな」
思わず、そう返していた。
教室の空気が、すっと張り詰める。
「“再構築”ではなく、“創出”という語の意味を、筆者はあえて選んでいる。その違いは大きいわ。……そこに気づかないと、本質を見落とす」
言葉を重ねながら、わたしの声には明確な敵意が出ていた。
沙都の表情がわずかに動いた。
不満ではない。怒りでもない。
それは――失笑、だった。
「そう……ですか。気をつけます」
まるで“そうなることを予期していた”かのような落ち着きだった。
その一言で、わたしの胸のなかにあった何かが、ぎり、と音を立てて軋んだ。
(なにをそんなに余裕ぶって)
けれどそのとき、別の席から静かな声が響いた。
「……先生、沙都さんが、ちょっとかわいそうですよ」
真人だった。
顔を上げ、こちらを見ていた。
責めるでも、強く訴えるでもない。
ただ、その目には――明らかな“戸惑い”があった。
(……しまった)
わたしは言葉を失った。
声も、表情も、感情も、抑えたつもりだった。
でも、教室の空気は――わたしの“揺れ”を、もうとっくに感じ取っていた。
「……そうね。ありがとう、真人くん。気をつけるわ」
そう返すのが、精一杯だった。
沙都は再びノートに視線を落とし、何事もなかったように書き始めた。
でもその口元には、ほんのわずかに、曲線が浮かんでいた。
まるで――
「また一手、先を打った」と言わんばかりに。
教室の空気が元に戻るのには、しばらく時間がかかった。
それでもわたしは、授業を進めなければならなかった。
教師として――いや、
“崩れた境界線”の、その先にいる自分として。
午後の授業が終わり、
職員室の窓のブラインドには、西日が斜めに差し込んでいた。
ざわついていた校内の音も、今は落ち着いて、
静けさが、かえって耳に痛かった。
わたしは自分の席に腰を下ろすと、
机の上に置かれたコーヒーカップを手に取った。
冷たい。
わかっていたのに、
それでも、ひと口だけ飲んだ。
苦味だけが、舌の上に残った。
(……なにやってんの、うち)
反省の言葉が、頭のなかで何度も繰り返される。
わたしは今日――
沙都という生徒に、授業の中で私情をぶつけてしまった。
いや、ぶつけたというより、
「露呈させた」と言った方が正しいかもしれない。
(大人げない。ほんと、こどもね)
わたしの中にある“感情”は、
教師という立場では決して出してはならないものだったはず。
それを分かっていながら、
手を伸ばしてしまった。
感情を、質問という形に変えて。
沙都の“言い方”や“態度”に、
気づかぬふりをしていればよかったのに。
けれど、できなかった。
(勝ち負けじゃないって、わかってるのに)
沙都のあの、少しだけ目尻を緩めた笑い。
真人の、淡々とした声――
「先生、沙都さんがかわいそうですよ」
その言葉が、心に鋭く残っていた。
(わたし、間違えたのかな……)
机の上のプリントを見つめながら、
ひとりごとのように、そう呟いた。
“教師”は生徒の上に立つ立場。
でも、“大人”がすべて正しいとは限らない。
わたしはそれを――
今日、はっきりと教室の中で知らされた気がした。
スマートフォンの画面をのぞくと、通知はひとつもなかった。
真人からのメッセージも、なにもない。
既読になっていない連絡を開くこともなく、
そっと画面を伏せた。
このあと、彼と警察へ行く予定だった。
(もう……普通に接する自信、ないかも)
わたしは小さく息を吐いた。
だけど、それでも行かなくちゃならない。
あの子を守るために、
わたしが“大人”としてできることを――
今度こそ、ちゃんとしなきゃいけない。
そのとき、職員室の扉が控えめにノックされた。
「先生……」
振り向くと、そこには真人が立っていた。
制服の襟元を少しだけ直しながら、
いつものように、静かな顔をしていた。
「そろそろ、行きましょうか」
その一言で、
わたしの中のぐらついた感情が、
少しだけ――引き締まった。
(大丈夫、うちはまだ、“終わってない”)
わたしはコーヒーを飲み干し、
席を立った。
これから、もう一度――始め直すために。
◇
警察署までの道のりは、
駅をひとつ挟んで歩いて20分ほど。
夕暮れが街を静かに染めていた。
傾いた西陽が、マンションの外壁を金色に照らしている。
わたしは隣を歩く真人の歩幅に合わせながら、
ゆっくりと舗道を歩いていた。
制服の肩が、わずかにこちらに傾いていた。
ふと、真人が口を開いた。
「……先生」
「なに?」
わたしの声も、いつもより少し静かだった。
「あれからちょっとだけ、調べてみたんだけど。村のこと」
わたしは足を止めそうになるのを、
無理やり抑えて歩を進めた。
「変な話に聞こえるかもしれないけど……昔から、俺たちの出身の九州地方の村には“なにかを捧げる”ことで、災いを避けてきたっていう伝承があるみたいで」
「“なにか”って?」
真人は少しだけ首を振った。
「そこまでは書いてなかった。ていうか、どれも曖昧で。でも、九州の山間部にあるいくつかの村で、“世界の安寧をご祈禱する”ってフレーズが重なるって話が出てきて……」
「ご祈禱……?」
「うん。“災いを退ける”って意味で、文献とか、ネットに散らばった話の中では、それが“実際に効いた”って書いてる人もいた」
わたしは思わず横顔を見た。
「たとえば?」
「たとえば……蒙古襲来」
その言葉に、呼吸が一瞬止まる。
「1274年と1281年の、あの元寇。暴風によって退けられたのは、実は九州にある“いくつかの集落”が事前に祈祷を行っていたから――っていう、まるで都市伝説みたいな話」
「……ほんとに?」
「信じてるわけじゃない。でも、その“元祈祷場”って呼ばれてた場所の一つが、うちの村の近くにあるって記述があった」
街灯がぽつりぽつりと灯りはじめた。
アスファルトの隙間に、冷えた風が吹き込んでくる。
「たぶん昔の人が、何かの自然災害とかを“防げた”って偶然を、大げさに伝承にしただけだと思うけど」
そう言いながらも、真人の声はどこか上ずっていた。
「でも……こんな時代に、誰かが“祈祷を再現しようとしてる”なんて、馬鹿げてるよね」
わたしは答えなかった。
でも、心の中でひとつだけ言葉が浮かんでいた。
(再現……)
口には出せなかった。
代わりに、ひとつの記憶がよみがえってくる。
――子どものころ、夏の夜。
山の奥、提灯の灯り。
なにか、誰かが、いなくなった気配。
けれど、それはまだ霧の中だった。
「……その話、あとで詳しく聞かせてくれる?」
そう問いかけたわたしに、真人は少し驚いたように笑った。
「うん。もちろん」
そう言って、また一歩、警察署へ向かって歩き出した。
ふたりの影が、街灯の下で長く伸びていった。
・
警察署の待合室。
午後七時を回った構内は、人の往来もまばらになり、
どこか事務的な静けさに包まれていた。
窓口での事情聴取は、思っていたよりもスムーズに進んだ。
誘拐未遂――という言葉は、形式上の記録には残されなかった。
あくまで「不審者に追われた可能性がある」という程度の扱い。
だが、真人が一人暮らしの未成年であること、
一時的に行方が分からなかったことなども含めて、
警察は数日間、自宅周辺を巡回・見回り対象としてくれることになった。
「……とりあえず、ひと安心、ですかね」
署の外に出た真人が、曇り空を見上げながら言った。
夜の気配が濃くなっていた。
街灯がぽつり、ぽつりと並び、
その下で彼の影がわずかに揺れた。
「うん。あとは……しばらく、自分の家に戻れそう?」
そう訊くと、真人はゆっくりうなずいた。
「はい。……ようやく、って感じです。……自分の部屋、まだ残ってるかな」
軽口のように言ったが、
その笑顔には、ほんの少しだけ不安が混じっていた。
「誰かが勝手に鍵壊してたら、すぐ警察に言ってね」
「わかってます。……でも、なんか、ちょっと怖いですね。自分の部屋なのに、戻るのがこわいって」
わたしはその横顔を見つめた。
制服の胸ポケットから、スマホを握りしめる彼の指先が、
ほんの少し震えている気がした。
でも、真人はそれ以上なにも言わなかった。
「……しばらく、巡回してくれるって言ってたし。無理はしないで。困ったら、すぐうちに連絡して?」
「……はい」
真人の返事は短く、それでも確かだった。
別れ際、駅のロータリーの灯りが、
二人の立ち位置をわずかに照らし分けた。
あの数日間、共に過ごした狭い部屋の記憶が、
空気の温度に混ざって甦る。
でもそれはもう、過去のこと。
わたしたちは、それぞれの場所へ戻っていく。
「じゃあ……また」
「……また、明日」
交わした言葉の温度が、少しだけずれていた。
けれど、それが今の距離感だった。
真人は、夜の街へと歩き出した。
制服の背中が、ひどく小さく見えた。
わたしはその姿が角を曲がって見えなくなるまで、
ただ静かに、立ち尽くしていた。
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