贄ノ国 -First Scene-
@E9XL
第一章 誰にも知られずに咲く
春の終わりと夏の始まりが曖昧に溶け合う、そんな季節だった。
朝のホームルームが始まる直前、職員室の窓から見えた都内の高校の校庭には、半袖のシャツを着た生徒たちの姿がぽつぽつと見えていた。
もう六月になろうとしている。じめっとした空気に梅雨の予感を感じながら、わたしはひとつ深く息を吐いた。
「おはようございます」
小さな声で挨拶をして職員室に入り、隅にある姿見の前に立ったとき、わたしは、一瞬だけ自分の姿を確認してしまう。
切りそろえた黒髪が、朝の光に揺れている。
肩にかかる程度の長さ。
染めてもいない地毛のまま、少しだけ茶色がかった自然な色。
整えすぎていないその髪を、生徒たちは「大人っぽい」と言うけれど、わたし自身は、ただの“地味さ”にしか思えなかった。
眉のラインは少し太めで、目元ははっきりしているほうだと思う。
でも、笑うとどこか抜けたような印象になるらしくて、生徒のひとりに「ギャップですね」なんて言われたこともある。
ベージュのジャケット。タイトスカート。白のブラウス。
どれも地味で、教師らしい“正しさ”を選んだつもりだったのに――
ボタンの隙間から、わずかに持ち上がった胸元の膨らみに、ほんのりと血が騒ぐのを感じる瞬間がある。
この身体が、あのときより少し柔らかくなったことを、わたしは自分で知っている。
(27歳……もうすぐ30。婚活してる余裕なんて、どこにもないっちゃけど)
頭の片隅でそんな声がしたとき、ふと懐かしい訛りが滲んで出たことに、内心で笑った。
「先生」と呼ばれる日々の中で、自分が女であるという感覚は少しずつ摩耗していた。恋をすることも、誰かに触れられることも、ずいぶん遠ざかっている。
そう言い聞かせても、白いブラウスの薄い生地を透かして感じる自分の肌の温度が、
どこかで“誰かの目”を意識しているのだと告げてくる。
タイツ越しの太腿。
タイトスカートの裾はたぶん、制服のスカートより短い。
わざとじゃない――
でも、意識していないとも、言い切れない。
もう“若い”とは言われなくなってきた年齢。
けれど、まだ“終わって”はいない。
そう思っていたい気持ちが、時折、鏡に映る自分を確かめさせる。
(……いかん、わたしは教師)
そう思えば思うほど、ふとした視線や、名前を呼ばれた声のトーンに、
微熱のような疼きを覚えてしまう。
誰かに見られていたい。
でも、見られてはいけない。
そんなことをぼんやり考えながら、わたしはそっと、頬にかかる髪を耳にかけた。
その境界で今日もまたわたしの内側だけが、じっと音を立てて揺れている。
◇
ホームルームを終えてから、昼休みまでの短い間に、進路相談を予定していた。
クラスの生徒たちはみな忙しなく教室と職員室を行き来し、部活動や進学、資格のことで頭を悩ませていた。
次の相談は誰か確認をする。
物静かで、いつも教室の隅で文庫本を開いている生徒。誰とも喧嘩せず、誰とも仲良くなりすぎず、そしてたぶん誰よりも周囲をよく見ている。
「真人くん。次、お願いできますか?」
呼びかけると、彼は静かに立ち上がり、スッと視線を恵美に向けた。その目は、黒目がちな光のない瞳。無垢でもなく、陰でもなく――どこか、この社会に馴染みきれていない色をしていた。
職員室の隅の進路相談スペース。小さなテーブルと二つの椅子。
真人が椅子に腰掛けると、その距離感にふっと空気が変わったように感じた。顔が近い。手の甲が触れそうだ。
「……えっと、将来のことで、気になってる進路とか、ある?」
少し硬さの残る口調で切り出すと、真人は小さく頷いた。
「芸能関係……っていうか、アイドル、みたいな。夢物語だって分かってますけど」
言葉の選び方が、どこか大人びていた。
思わずわたしは、彼の目元を見つめてしまった。細い顎、整った鼻筋、華奢な体。女子の間で人気があるというのも頷ける。
「……ううん。夢を持つのは、すごくいいことだと思うよ」
少し微笑むと、真人は照れたように視線を逸らした。その仕草がどこか、胸に引っかかった。
「親に言ったら、笑われました。そんなの村出身じゃ無理だって」
「村……?それって、どこの?」
何気なく尋ねたその瞬間、真人がふと恵美を見た。
「……
言われて、思わず息が止まった。
「――うちも、そこ出身よ」
無意識に、言葉が訛った。真人が一瞬だけ、目を見開いたように見えた。
そこからの数分は、早送りのようだった。村の話、どこに住んでいたのか、共通の地名、あの坂道、あの神社。忘れていた記憶が、真人の言葉の端々から呼び起こされていった。
気が付けば、次の生徒が待っている時間だった。
「あ、ごめん、もう時間だ……ありがとう、真人くん」
「……先生、また、話してもいいですか?」
その一言に、鼓動が跳ねた。
「うん。私も……また、話したい」
そう口にした瞬間、自分がもう彼を「生徒」としてだけ見ていないことを、うっすらと悟っていた。
──でも、これは「いけないこと」なんかじゃない。ただ、ちょっとだけ、彼に興味があるだけ。
まだその程度だと、自分に言い聞かせながら。
しかし、この小さな肯定が、すべての始まりだった。
◇
放課後、静まりかけた教室の中。
淡い夕陽が窓ガラスを染め、教壇の影を廊下まで長く引き伸ばしていた。
わたしは黒板に残ったチョークの線を指でなぞりながら、気が付けば彼の姿を探していた。
真人――あの進路相談から、まだ数日しか経っていないのに、彼のことを考えない日はなかった。
教室の片隅。帰り支度をする生徒たちの声が遠ざかるなか、ふと窓際の一角に位置する席に座る少年の姿に目を留めた。
彼は今日も静かに読書をしていた。風が吹くたび、制服の袖が小さく揺れている。
その柔らかな髪の隙間から、時折ちらりと見える瞳が、まるで遠くを見ているようで、目を離すことができなかった。
(ほんとに……綺麗な子)
そう思った瞬間、自分の中に「先生」としての立場が警鐘を鳴らす。
けれど、それすらも何度目だろう。真人を見つけるたびに、心は揺れていた。
「真人くん、ちょっといい?」
気づけば、声をかけていた。このあと職員室での雑務もある。けれど、なぜかこの時間だけは、切り離しておきたかった。
「……先生。どうかしましたか?」
「ううん、ちょっと疲れたから、誰かと喋りたくて」
その言い訳は自分でも滑稽だったが、真人は首をかしげながら、隣の席を引いてくれた。
「……お茶、いる?」
「持ってます。ほら」
そう言って鞄から取り出したのは、無印のペットボトル。少しだけ、ふふ、とわたしは笑った。
「いい趣味してるね、真人くん。私もそれ好き」
「先生、たまに訛りますよね」
「あ……そう? 真人くんと話すと、つい出てしまうと」
自嘲ぎみに笑いながら、わたしは肩を竦めた。
ふと、真人の視線がこちらに向けられているのを感じた。まっすぐな瞳。光が射し込んだような、眩しさ。
「……先生、昔、村で何してたんですか?」
その一言に、胸の奥がぎゅっと締め付けられたようだった。
(……なんしよったっけ。思い出せん。けど……)
頭の中に白い霧がかかったような、あやふやな記憶。祭りの笛や太鼓の音、土の匂い、夕暮れの神社。
でも、それがどんな情景だったのか、誰と過ごした時間だったのか、思い出そうとすればするほど、何かが抜け落ちていた。
「……あんまり、覚えとらんと。変な村だったなーって、それくらい」
そのあと少しの間、辛うじて覚えている範囲の村での思い出を彼に伝えた。
「……でも、真人くんがいてくれて、ちょっと嬉しかったよ。私も、話せる相手ができたって思った」
その瞬間、真人のまつげがふわりと震えたのが、妙に印象に残った。
◇
夜。
マンションの部屋。
カーテンを閉めて、照明を落とし、
わたしはベッドサイドに腰を下ろす。
洗いたての肌。
タオル地のバスローブが、身体に貼りついて、湯気がまだ、かすかに頬に残っている。
そのまま、スマホを手に取る。
カメラを起動する。
インカメラに切り替える。
画面の中に、自分が現れる。
濡れた髪。
首筋に落ちる水の粒。
鎖骨の線。
指先で画角を調整しながら、カメラ越しに見た“わたし”に、わたしは問いかける。
(……まだ、綺麗やと思う?)
誰にも見せない。誰にも送らない。
この自撮りは、確認であって、記録じゃない。
鏡よりも正直な、わたしだけの“審判”。
胸のラインが、薄手の布越しに浮き出ている。
腰の曲線も、座る角度で強調される。
この身体が、ただ年を取っていくのを見ていられなくて――
わたしはときどき、こうして確かめる。
“誰かに見られたい”のかもしれない。
でも、見せた瞬間に、“女”としてのわたしが終わってしまいそうな気もして。
だから、この衝動は、
画面の中だけに留めておく。
スマホの中のわたしが、
かすかに笑ったように見えた。
――虚勢やな、って。
わたしは画面を閉じる。
写真は、保存しない。
履歴も残さない。
それでも、
わたしが“そうした”という事実だけが、
この部屋の空気に、ぬるく沈んでいく。
静かな夜。
わたしだけが知っている“女としてのわたし”が、
またひとつ、擦り減った気がした。
◇
六月。学園祭の季節がやってきた。
校舎中が浮き足立ち、装飾や出し物の準備に追われる日々。
教師としての仕事は山積みだったが、どこか心は上の空だった。
仮設ステージの裏手、倉庫前の段ボールが積まれた影から、わたしは無意識のうちに、彼の姿を探していた。
真人は――いた。
あの子は今、三年生の女子グループに囲まれ、文化祭発表のダンスに混じっていた。
彼女たちは演劇部か、ダンス部か、それともただのクラス有志かはわからない。
けれど、彼が笑っていたのはわたしにではなかった。
カーディガンを羽織り、少し照れくさそうに笑う。
ときおり髪をかき上げながら、女子生徒のひとりと目を合わせ、確認するように手を合わせてリズムをとっている。
――笑っていた。楽しそうに、まるで、彼にだけ春が来たような笑みで。
(……なんで、あんな顔、すると?)
胸の奥がざわめいた。
感情の名前は、まだ知らなかったけれど、それは静かに、でも確実に、わたしの心の一部を侵していった。
舞台の照明が切り替わり、曲が止まる。
「休憩でーす」と言われて、真人がその子と軽く笑い合いながらステージを降りていく。
その肩が、すこしだけ触れていた。わたしの中で、何かがカチリと音を立てた気がした。
職員室に戻ってからも、仕事は山のようにあった。
提出物、連絡ノート、来場者リスト――
でも、文字が頭に入ってこなかった。
冷めたコーヒーをもう一度口に含んで、苦笑した。
(ばかやね、うち……)
なにに嫉妬してるのか、ほんとうはわかってる。
でも、認めたくなかった。
だって、彼は生徒。
わたしは教師。
たったそれだけの“線”が、こんなに遠く感じるなんて、思ってもみなかった。
◇
本番当日。
校舎中が喧騒に満ちていた。
わたしは進行係としてステージ袖に立ち、次の出番の生徒たちを誘導していた。
そのときだった。
出演者の名簿に目を落とした瞬間、彼の名前が見えた。
「……あ、」
顔が熱くなるのが分かった。
どうして、いちいちこんなふうに反応してしまうのか。
自分でも腹立たしいくらいだった。
数分後、制服の上にフードつきのパーカーを羽織った真人が、舞台袖に現れた。
「あっ、先生……」
「ああ、真人くん。もうすぐ出番だね」
「あ、はい……ちょっと緊張してて」
そう言って笑う彼の顔が、わたしの胸の奥を少しだけ撫でるように掠めた。
そのとき、急に照明のケーブルが引っかかり、わたしの足元に崩れかけた機材が倒れてきた。
「先生っ!」
とっさに手を引かれる。
彼の手が、わたしの手を強く掴んでいた。
細いけれど、しっかりとした指。
あたたかくて、少しだけ汗ばんでいて――
その“体温”が、まっすぐに、わたしの心臓に触れた。
「大丈夫ですか……?」
心配そうな声が、やけに近かった。
わたしはその顔を見上げることができなかった。
うなずくだけで精一杯だった。
(いかん……こんなの)
わたしはそっと手を引いた。
でも、身体の奥のほうが、まだ熱を持っていた。
彼が舞台に立つと、わたしはステージの袖から、見つめてしまっていた。
笑う顔。
伸びた手。
照明に照らされた、汗ばむ額。
女子生徒たちと交わる視線。
(うち……なに、しよると……)
なにもできないくせに、なにも知らない顔で彼を見ているだけのくせに。
でも、それでも――
彼のことが、どうしようもなく、気になって仕方なかった。
(……わかってるよ、そんなこと。もう、ずっと前から)
けれど、“恋”という言葉を口にしてしまったら、
すべてが崩れてしまう。
だからわたしは、また飲み込む。
この感情に名前をつけないまま、ただひとり、観客にもなれず、演者にもなれない場所で、彼のことを、見つめていた。
・
深夜、カーテンを閉めた部屋の空気は、わたしの体温だけで満たされていた。
ベッドにもたれたまま、スマホの画面を暗くした。
SNSは開かなかった。
メールも、ニュースも、誰かからの通知も。
今夜だけは、すべてを遮断したかった。
(……うち、どうしたらよかっちゃろ?)
天井を見つめながら、声には出さずに問いかける。
恋なんて、するつもりじゃなかった。
生徒に。十歳以上年の離れた、男の子に。
そんなの、理屈としては完全に“間違ってる”。
教師という立場から見れば、倫理にすら触れる。
わかってる。
百も、千も、万もわかってる。
それでも――
あの手を、忘れられない。
ステージ袖で掴まれた瞬間。
あの手の温度と、強さと、なにより“わたしを守ろうとした”という意志の重み。
(いかん、あれだけは、思い出したらいかんっちゃ……)
下腹の奥が、じんわりと疼く。
渇いている。
でも、それを口にした瞬間、わたしは“人間”じゃなくなる気がした。
わたしは教師で、教える側で、“与える側”でなきゃならないのに。
気づけば、逆に――
彼の言葉に、手に、眼差しに、“与えられて”しまっている自分がいる。
(ずるい……)
そう思うのに、嫌じゃなかった。
どこかで、それを欲してる。
彼に触れられたい。
ただの“先生”じゃなくて、ただの“女”として。
そんな感情が、自分の中にあることを、ようやく認めかけている。
でも、それを抱えたまま、明日また教壇に立てるのか。
真人の名前を呼んだとき、心臓が跳ねなかったふりができるのか。
わたしは――
もう、戻れないところまで来てしまっているのではないか。
頬に触れた自分の指が、少しだけ冷たかった。
でも、心の奥は、まだ熱を持っていた。
息を深く吐いて、目を閉じる。
“好き”って言ってしまえば楽になるのに、わたしはまだ、その言葉だけは飲み込んでいた。
壊したくない。
でも、壊れるのを、どこかで望んでいる。
(……ねえ、真人。あんたは、どう思いよると?)
問いかけたところで、答えはこない。
けれど、眠れない夜の静けさが、わたしの鼓動だけを強く響かせていた。
◇
目が覚めたのは、いつもより少し遅い時間だった。
窓の隙間から差し込む陽射しが、カーテンを透かして白く光っていた。
しばらく天井を見つめたまま、動けなかった。
(……夢見てた)
内容ははっきり思い出せない。
でも、胸の奥が妙にじんわりと熱い。
わたしはベッドから身を起こし、枕元のスマホに手を伸ばした。
通知は、ひとつもなかった。
そりゃそうだ。
彼は、わたしの連絡先を知らない。
知ってはいけないし、教えてもいけない。
それくらい、わかってる。
でも――
どこかで、通知の点滅を期待していた自分がいた。
(ほんと、ばかっちゃね……)
そうつぶやいて、わたしは布団の上に座り込んだ。
昨日のことを、思い出す。
舞台袖で掴まれた手。
“見てくれてましたか?”の声。
終演後、わたしの背中を追うこともなく消えていった彼の気配。
全部、ちゃんと覚えてる。
そして――
そのすべてが、わたしの中に“熱”として残っていた。
何気ない視線のやりとり。
些細な距離感。
たった一言のやりとりに、心が反応してしまう自分が、もう怖い。
(連絡なんか、来るわけないのに)
スマホを伏せて、膝に抱え込む。
なんでもない、ただの朝。
いつも通りの週明けが始まろうとしているだけなのに――
世界が、少しだけ、違って見えた。
身支度を整え、鏡の前に立ったとき、
ブラウスのボタンをひとつ、いつもより深くかけた。
誰に見せるでもないのに。
でも、その理由はわかっていた。
(気づかれたくなかっちゃろ、うち)
昨日のあの手の感触も、夜になっても消えなかった体温も、いっそ何もなかったことにしてしまいたかった。
けれど――
“なかったこと”にするには、わたしの心はもう、あまりにも知りすぎていた。
“彼を目で追ってしまう理由”を。
“何もなかった”と言い張るには、昨日のわたしは、あまりにも無防備すぎた。
(……いかんね)
思わず、ひとりごちる。
でも、その声さえ、少しだけ笑っていた。
◇
月曜日の朝。
通勤ラッシュの中で歩く制服姿の波に混じりながら、
わたしは駅前の横断歩道で、信号が青に変わるのを待っていた。
そのとき。
人の肩越しに、ふと見覚えのある後ろ姿が目に入った。
(……)
制服。黒いスクールバッグ。カーディガンの袖。
少し癖のある後ろ髪――
あれは、真人や。
思わず、歩調を緩めてしまう。
まるで、話しかけるタイミングを見計らっているみたいに。
でも、そんなことをする理由なんて、どこにもないはずやのに。
(こっち、気づかんといて……でも……気づいてほしい)
相反する気持ちが交錯して、
胸の奥が妙にざわついた。
彼は、わたしの存在には気づかないまま、
信号が変わると同時に、向こう側へと歩き出した。
それだけのこと。
なのに――
彼の横顔を見ただけで、わたしの心臓が明らかに、いつもと違う音を立てていた。
・
職員室。
一時間目の授業を終えたあと、
わたしは自席で授業準備をしていた。
教材と一緒に、開きかけたままの手帳が置いてあった。
生徒の名前と出欠、ちょっとしたメモ。
それに、わたしの――ごく私的な走り書きのメモも。
「先生、これ……落ちましたよ」
その声に振り返ると、
そこにいたのは――真人だった。
「え……」
彼は、わたしの手帳を両手でそっと持っていた。
きちんと閉じて、でも確かに、さっきよりもページがずれていた。
(見られてないよね?……でも、もしかして)
胸が詰まるような感覚。
見られてはいけない場所に触れられたような、
けれど、それが“拒絶できない”ものだったような――
「あっ、ありがとう……」
震えないように声を出す。
真人は、にこっと笑って、それ以上なにも言わずに立ち去った。
けれど、彼の手が触れていた手帳を受け取った瞬間、わたしの中で、なにかが微かに震えた。
そして、彼との境界線がほんの少しだけ、甘く、柔らかくなっていくのを感じた。
・
放課後、教室にはもう生徒の姿はなかった。
わたしはひとり、担任するクラスの出席簿とノートを手に明日の指導案を整えていた。
けれど、気が散って仕方なかった。
今朝、真人に手渡された手帳のことが、頭から離れなかった。
(……見らてないよね?)
あのページには、わたししか知らない記憶の断片がある。
先週――
朝、目が覚めた直後に夢で見た光景を、忘れないうちに書き留めた。
薄暗い境内。焚き火の匂い。
神主のような装束の男たち。
小さかったわたしの手を引いている少年。
(なんで、あんな夢……)
メモには、夢で見た風景と、名前すら出てこない、“ひとりの男の子”のことを綴っていた。
あの子はわたしの、初恋の人だったはずだ。
本当に実在したのかもわからない。
でも、わたしの中にはっきりと残っていた。
誰にも話したことのない、痛みのようなやさしさの記憶。
それを書いた。誰にも見せるつもりなんてなかった。
けれど――
「先生」
その声に、振り返る。
黒髪の前髪を少し乱しながら、真人が教室に入ってきた。
「朝、職員室で返したあの手帳……」
(やめて)
「……ごめん。開いてたページ、ちらっと見えちゃって」
(どうか見てないって言って……)
「“神主”とか、“焚火”とか、書いてあったよね。あと、“少年”って――あれ夢の話?」
――逃げ場がなかった。
胸の奥がぎゅっと縮む。
「……それ、見たの?」
「うん。でも、ごめん……勝手に開けたわけじゃないんだ。
ほんとに偶然で……でも、なんか、気になって」
彼は悪びれる様子もなく、ただまっすぐにわたしを見ていた。
その瞳が、まるで“嘘を許してくれない”ようで、わたしは視線を逸らした。
「夢よ。ただの、昔の記憶が混ざっただけだと思う」
「その“少年”って、誰?」
(なんで、そこ聞くと……?)
息が詰まる。
答えられない。
でも、嘘もつけなかった。
「……昔、好きやった子……だと思う。子供のときの話」
その言葉が、口から出ていくのを、わたし自身、どこか他人事のように聞いていた。
「そっか」
真人は、それ以上何も言わなかった。ただ、一歩だけ近づいて、黒板の方に目をやりながら言った。
「じゃあ、俺じゃないんだ、その子」
「え?」
彼は冗談めいた口調が妙に目立った。たぶん、少しだけ含みのある言葉でもあるのが伝わってきた。
その声の響きに、わたしの胸がまた、ひどく痛んだ。
(……違う)
でも、“いま”のわたしは、きっと彼のほうを見てしまってる。
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