第3話
前回のカフェ訪問から数日。一ノ瀬さんの言葉が、まるで頭の中にBGMのように響いていた。特に、仕事用のカバンに対する「歪な音を立てている」という指摘は、妙に心に残っていた。
仕事中も、ふとした瞬間に彼女の言葉を思い出す。目の前のデータ、メールの文章、上司の指示。それら全てが、一ノ瀬さんの言う「音」として響くような錯覚さえ覚える。
自分自身の日常は、単調で、色彩のない、物足りない音ばかりで満ちているのかもしれない。
そんな風に考えると、少し気が滅入ったけれど、あのカフェの静けさと、そこで飲むコーヒーの味、そして一ノ瀬さんの不思議な存在が、疲れた日常の「静かな音色」になりつつあるのも事実だった。
その日も、仕事は深夜まで続いた。体は疲れていたが、心はあのカフェへ向かっていた。会社を出ると、自然と足が「月読」の路地へと向かう。あの控えめな灯りが見えると、心に微かな安堵感が広がるのを感じる。
カラン、とドアベルの澄んだ音が鳴る。
店内は前回と同じ、穏やかな静寂に包まれていた。ピアノの旋律が、そっと耳に触れる。カウンターに立っていたのは一ノ瀬さんではなかった。
年は30前後だろうか。長い黒髪を下ろしたヘアスタイルで、どこかミステリアスな雰囲気を纏っている。清潔感があり、エプロンを付けていてマスターといった出で立ち。この人が、オーナーだろうか。
女性は、俺の姿に気づくと、柔らかな、包容力を感じさせる笑みを浮かべて近づいてきた。
「いらっしゃいませ。ありがとうございます」
「あー……ぶ、ブレンドコーヒーで」
「はい。かしこまりました……あの、つかぬことをお聞きしますが、佐伯さんですか?」
その言葉に、俺は少し驚いた。なぜ、俺の名前を知っているのだろう。まさか、一ノ瀬さんがオーナーに話していたのだろうか。
「そ、そうですけど……俺のこと、ご存知なんですか?」
俺が尋ねると、女性はさらに柔らかな笑みを深めた。
「ええ。
「聖玲奈?」
「一ノ瀬、聖玲奈です」
「あぁ……一ノ瀬さんですか」
俺がピンときた反応をすると店主らしき女性は「あちゃー」と言った。
「やだっ、私ったら。名前は教えてなかったのか……いつもいらしてくださる、スーツの音が物足りない方だって、あの子が」
やはり、一ノ瀬さんは俺のことをこの人に話していたらしい。そして、あの「スーツの音が物足りない」という、あのシュールな言葉まで。
「あの……あなたは?」
「私はここのオーナーの
なるほど、この人が「月読」の主か。そして、一ノ瀬さんを親しく見守っているらしい。
「いえ、こちらこそ。いつも美味しいコーヒーをいただいてますよ」
俺がそう言うと、薫子さんは優しく頷いた。
「あ、そういえばブレンドのご注文でしたね」
「はい、お願いします」
薫子さんは、慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。その所作は、一ノ瀬さんより洗練されていて誰が一ノ瀬さんの師匠なのか一目瞭然だった。
温かみがあり、見ていると心が安らぐ。席まで漂ってくるコーヒーの香りは、一ノ瀬さんが淹れてくれた時と同じ、深く、心地よいものだった。
コーヒーを待つ間、俺は思い切って薫子さんに尋ねてみた。
「あの……一ノ瀬さんの言葉のことなんですけど……」
薫子さんは、コーヒーを淹れる手を止めず、優しく答えた。
「ええ、分かります。あの子の言葉に、興味を持ってくださっているんですよね?」
全てお見通しらしい。少し恥ずかしいが、隠しても仕方ないだろう。
「あ……はい。『音が物足りない』とか、『歪な音』とか……どういう意味なのかな、と思って」
薫子さんは、淹れたてのコーヒーを持ってくると俺の前に置き、カウンター越しに柔らかな笑みを向けた。
「あの子、少し変わった感受性を持っているんです。色とか、形とか、雰囲気とか……そういうものを、音として感じ取ってしまうみたいで」
薫子さんの言葉は、一ノ瀬さん自身が言っていたことと一致する。やはり、彼女は本当に特殊な感覚を持っているのだ。
「そうなんですね……」
「生まれ持った個性のようなものかしら。あの子にとっては、それが当たり前の世界なの。高校生の時、まだ小学生だったあの子に『好きな人できた?』って聞かれたんですよ。そういう音がしたって」
「へっ、へぇ……」
薫子さんは、穏やかな声で続けた。
「それに、あの子、音大に通っていて、作曲を学んでいるのよ。ピアノもとても得意でね」
音大生? 作曲? ピアノ?
一ノ瀬さんの「音」に関する感覚が、音楽と結びついていることを知り、俺の中に点と点がつながる感覚があった。
薫子さんが、そこまで話した時だった。店の奥からリュックを背負った女の子が出てきた。
もちろん一ノ瀬さんだ。ゆったりとした足取りで現れた彼女は、色素の薄い金髪を乱し、大きな瞳を擦っている。首にはいつものヘッドホンがかけられている。
その無防備な姿は、カウンターに立っている時とはまた違う、幼さを感じさせた。
一ノ瀬さんは、カウンターに立つ桜井さんと、その前に座っている俺に気づくと、一瞬だけ、眠たげな瞳をパチクリさせた。そして、俺だと認識した途端「やっほ」と言って微笑み、またすぐにいつもの省エネモードに戻る。
俺の顔を覚えているらしいことに、少し嬉しさを感じる。
一ノ瀬さんは、俺のいるテーブル席で向かいに座り込んだ。そして、テーブルの上に置いてあったマグカップに手を伸ばし、俺のコーヒーを一口飲む。
そして「うーん……やっぱ違うなぁ」と呟いた。それは、眠たげでクールな雰囲気とは裏腹に、可愛らしい、幼さを感じさせる仕草だった。
「それ、俺のですよ……?」
「あ、ごめん。飲んじゃった」
タメ口でチロッと舌を出し、一ノ瀬さんが肩を竦める。
「まぁ……いいですけど。なんでここに?」
「ん。私さ、今日はもうバイトは終わりなんだ」
「なっ……なんか……こう……距離が急に近くなりましたね……」
「別に言葉を選ばなくてもいいけど」
「いきなり馴れ馴れしくなったね」
「ふふっ……本当に選ばないじゃん」
一ノ瀬さんは口元に手を当ててクスクスと笑う。
「そりゃ数回話しただけだし……」
「けど、3回会いに来た人に生涯をかけて尽くした人だっている」
「諸葛亮?」
一ノ瀬さんはコクリと頷いた。
「それに、こんなドがつく深夜にコーヒーを飲むなんて変な人。寝られなくなるよ?」
「シャワーを浴びたらスッキリして寝られる体質なんだ」
単に疲労で気絶しているだけだろうが。
「ふぅん……」
案外普通に話せるタイプらしい。店に立っているときは少しキャラを作っているんだろうか。
チラッと桜井さんを見ると、一つのコーヒーカップを挟んで話している俺達をニヤニヤしながら見つめていた。
「珍しいわね……聖玲奈がこんなに懐くなんて……」
「別に懐いてないし」
一ノ瀬さんはそう言うとヘッドホンをつけてカバンから文庫本を取り出して読書を始めた。
「あらあら、ごめんなさい。オバサンは黙っておくわね」
「桜井さん、俺とそんなに変わらなさそうですけどね」
「あら、そうなの? 私は今年で29」
「俺は28です」
「あらー近いわねぇ。ちなみにそこの金髪無表情アンドロイド看板娘は今年で22歳」
「へぇ……」
それ以上の反応をする理由もないため適当に返事をしてコーヒーを口にする。
「ちなみに彼氏はいないわよ?」
「ぶっ……そっ、そんな事を本人の前で言わなくてもいいじゃないですか」
「姉代わりだから気になるのよぉ……同級生にいい人はいないの? って聞いても『声が嫌だ』って」
「声フェチなんですかね……」
「かもしれないわねぇ……あ、そういえば佐伯君はいい声してるわねぇ……そういうことなのかしら?」
「何がそういうことですか……」
俺と桜井さんで盛り上がっていると、ヘッドホンを外して首にかけた一ノ瀬さんが俺達をジト目で見てきた。
「二人とも、聞こえてるよ。後、私は声フェチじゃないから。単に、うるさい感じの人が苦手ってだけ。嫌な音をさせてるから。ま……まぁ……佐伯さんの声は嫌いじゃない」
どうやら俺達の会話はすべて聞かれていたらしい。一ノ瀬さんは俯きながらそう言う。
うるさいって言われても、俺、一応客なんだよな……とは言わないでおくことにした。
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