九十九・九九……九の章
朝、登校すると自転車置き場で寺石くんとばったり会った。何か言ったほうが良い気はする。しかし、何を言うべきか分からずに困っていると、先に相手の方から口を開いた。
「フラれたよ」
至極当たり前のように寺石くんがそう言うので、私も一瞬それが自然なことだと思ってしまいそうになる。しかしそれは全く自然なことではない。あのイケメンで優しい寺石くんともあろう人が女の子にフラれてしまうなど、世紀の異常事態だ。
しかし、それは恐らく私が原因でフラれたであろうことは予測がついたので、更に言葉に窮していると、寺石くんは更に言葉を続けた。
「なぁ、名野。俺は自慢じゃないが生きてきた中で一度もフラれたことはなかった。告ったこともなかったけどさ。だがフったことなら何回かある。そんな俺が昨日、初めてフラれたんだ。この気持ちが分かるか?」
「わ、分からないです……」
「だよなあ」
寺石くんは恨み辛みを私に向かって吐き出した。それはヤケクソになっているのか、いつもクールなイメージの寺石くんからはあまり想像がつかない姿だった。心なしか、口数も増えている。
私達は共に靴箱へ向かうと、流れで教室まで一緒に行くことになった。目的地が同じなので、自然とそうなったのだ。その途中でも寺石くんは私に向かって話しかけてくる。
「……と、恨みはこれくらいにしてだな。俺はお前たちのことを応援したりはしない。どうなるのかも、知らない。俺はもう吹っ切れた。それだけ」
「うん……ごめん」
「謝るなよ、余計惨めだ」
教室の中に入ると、自席に着いている七星の姿が最初に目についた。七星も私の方を見ていた。視線が交差する。私は先日のことを思い出して体温が急上昇した。
「やっぱムカつく」
そう言って私の肩に全く痛みのない優しいパンチをすると、寺石くんは自分の席の方へ歩いていった。私も七星が隣に座る自分の席へと向かう。
「お、おはよう」
「おはよう……」
私は七星に向かって挨拶をする。返ってきた声はどうも歯切れが悪かった。七星も先日のことを意識しているのは明白だった。その証拠に顔も耳も真っ赤に染まっている。七星がそんな様子だから、私は余計ドキドキした。
「ちょっとお! 流さん!? 流さんってばぁ! 何をそんなあま~い雰囲気を出しちゃってるんですか!? 滅ぶんですよ! 世界! 滅んじゃうんですよ!?」
隣にいるクエタが喧しく騒ぎ立てた。それは分かっている。分かっているのだが……
私はあの炊事遠足で七星が何処へも行かないと分かって、ほっとしたのだ。キスをされて、心が動いたのを感じたのだ。これらは事実だ。私は自分の魂が恋に穢されつつあることを実感していた。
だがしかし、まだ結論は出せていなかった。七星と恋人になるのか否か。私はその答えを出せないでいる。
「あ、あのね、流。お願いがあるの」
「な、何?」
それはとてもぎこちない会話だった。事情を知らない人から見ても、私達の間に何かあったことは雰囲気から察せられることだろう。しかし幸いにも私達に注目している人は居なかった。それは教室のごく一部の空間で行われた会話なので、当然だ。しかし、まるで七星が中心になったかのような世界で、見ている人が居ないという事実は私を安堵させるに十分だった。
私達はぎこちないながらも会話を続ける。
「今日のお昼なんだけど……一緒に食べてくれないかな?」
それは意外なお誘いだった。七星は普段、色んな女子グループでお弁当を食べているが、私が誘われたことは今までなかったからだ。私はそれに二つ返事でオーケーを出す。そうすると再びクエタが騒ぎ始めたが、ここで七星の誘いを受けないという選択肢は何かが違うと思っていた。私はもう、七星のことを無視する気はない。無視しようがないのだ。
「流さーーーーん!」
私はクエタの声を聞き流しながら、昼休みの時間を待った。
昼休み、七星が場所を変えようと言うので、私達は二人で教室を出た。勿論、いつも昼休みを一緒に食べている藤澤には既に断りを入れてある。そうして七星に案内されたのは普段英語の選択授業などで使われる特別教室だった。特別と名がついているがその広さと作りは普通教室とは変わらない。ただ、用事がない時には生徒たちが立ち入らないように先生から指導を受けている。
その教室が普段、鍵がかけられていないことは周知の事実だった。しかし勝手に入ると怒られるので利用する生徒は少ない。居るとすればちょっとやんちゃ盛りの生徒くらいだろうか。尤も私達の通うこの高校は校則が厳しく、それ故に真面目な人が多いと言われており、この教室を利用する人も殆どゼロに等しい。
そしてそんな場所を使うということは、他人の目を気にしなければならない話があるということなのだろう。私は七星に続いて特別教室へと踏み入れた。
「あのね、その……炊事遠足でのことなんだけど……」
私達が特別教室の中央に座り、少し間を置いてから七星が喋り始める。私はお弁当も広げずに、七星の言葉を待った。
「あの、き、き……」
「キス?」
「……も、そうなんだけど、あの時言ったこととか、覚えてる?」
「うん、覚えてるよ。忘れない」
「う、うぅ……」
七星は恥ずかしそうにして俯いてしまう。私も恥ずかしかったが、七星から視線を外すことはなかった。やがて七星は顔を上げると、視線を左右に泳がせながら言う。
「私、君と居るとおかしくなっちゃうんだ。だからあれは、何ていうか、その場の勢いっていうか――」
そこまで聞いて、私はひどく落ち込んだ気分になった。しかし望むのならば、七星の言う通りなかったことにしても構わない。あれが気の迷いならば、七星の本望ではないのならば、それは私にとっても望むところではない。そんなことがあったって、七星を苦しませるだけだと分かっているからだ。
そう思っていた。しかし七星は言葉を続ける。
「――って、言ったら君は、なかったことにしてくれると思う」
私は目を丸くした。あぁ、どうしてこの人はこんなにも私のことを分かっているのだろう。
「でも私、なかったことにしたくない。……ごめん、ごめんね」
そう言うと、七星は再び俯いてしまった。
何故七星が謝るのだろう。謝らないで、と言おうとして彼女の顔を覗き込む。その顔は悲しみに歪められた笑顔だった。全てを諦めているようなそんな表情で、どうして彼女は尚も笑おうとするのだろう。
胸が痛んだ。こんな表情をさせているのは、私が原因に他ならなかった。どうしてかは分からない、でもそのことだけは分かる。心臓を吐き出すように、痛みを隠すように、彼女は言った。
「私……君のことが好きなの、どうしようもなく」
*
その日の晩、私は自分の部屋でふと、最近はプレイしていなかったゲームのことを思い出した。ゲーム機に電源を入れて、コントローラーを握る。セーブポイントから再開されたそれは、前回の続き通り魔王の玉座から始まった。
『お前は、本当にこの世界を救うのか?』
魔王は再び私に向かって問いかける。画面に表示されるのは『はい』『いいえ』の無機質な文字。前はあんなにも簡単に答えを出せたこの問いが、今の私には重大な問題に感じられた。
私はその画面のまま動きを止めた。そしてコントローラーを床に置くと、ゲームの電源を落とした。ゲームは良い、こうやっていくらでも答えを先延ばしに出来るのだから。
しかし現実は違った。部屋の壁面に掛けられた時計の秒針がカチカチと音を立てる。一刻一刻と時間は進んでいく。時という不可逆の壁に押しつぶされていく。
私は部屋の電気を消して、ベッドに寝転がった。仰向けのまま、天井を焦点の合わない目でただ見つめ続ける。そして目を瞑った。
「……」
私は脳内に二つの扉をイメージする。片方の扉の先には七星が居り、またもう片方の扉の先には何もなかった。すると、私は自ずと扉を開くことが出来た。
しかし、大いなる存在によって何もなかった扉の先に、私が今生きているこの世界が置かれた。そうなると、私は途端に扉を開くことが出来なくなってしまった。
その世界というものをよく見ようとすると、とても広大であり、私程度の存在にはよく理解出来なかった。極めて曖昧で、複雑な存在だった。
しかし、そこで動いている小さな点に目を向けてみる。最初に見えたのは父と母だった。二人は小さな私の手を片方ずつ握っており、とても愛おしそうな目をしながら微笑んでいた。また、ある時には転んだ私のことを心配そうに見つめており、またある時には泥だらけの私を前に怒っていた。私は父と母を心から愛していた。
それから順繰り順繰りにイメージが現れていく。藤澤に続き寺石くんや井出くん、藤澤の友達、クラスメイト、隣の家の御婦人と赤ちゃん、今朝すれ違ったサラリーマン……そしてイメージは連鎖していき、最後に現れたのは、歩道橋から見える町の姿だった。人々が行く道を構成しているコンクリートは幾度も舗装され直しながら、尚も土台となり人々の歩みを助けていた。木々は瑞々しく、気ままな風に吹かれ生命を謳歌している。また、ビル群は人類の叡智を宿しつつ静かに佇んでおり、太陽はそれらを見守りながらも己を輝かせていた。
――美しかった。町を構成する全てが一つ一つその存在を持って、世界の一部を構成していた。それはきっと世界の何処でも変わらない姿であるのだろう。
私は寝返りを打った。二つの扉は依然、そこで開かれる時を待っていた。
*
『二-A名野。繰り返す、二-A名野。化学準備室まで来るよう』
低めのアルトの声。それは余田先生の声だった。
「流、呼び出されてんぞ」
「ん……あぁ」
購買のパンを齧りながら藤澤が言った。私は食べかけのお弁当箱をリュックサックの中へしまう。食欲が湧かなかった。このお弁当箱をお母さんが見たら、小言を言われてしまうだろう。せっかく作って貰ったのに、申し訳ない気持ちで一杯だった。
「……何かやらかした?」
「何で?」
「何か元気ないから」
「違うよ、馬鹿」
「なんだよ、人がせっかく心配してるのに」
「それはありがと」と言いながら私は席を立った。藤澤が私を心配する時など、滅多にないことを私は知っていたからだ。きっと私の顔に憂いが出ているのだろう。
私は一晩中悩み続けたが、結局答えは出なかった。しかしいつまでも答えを先延ばしにするわけにもいかない。先延ばしにするということは、自分で選ばずに答えが定まってしまうということだ。極端な話、私が死ぬまで先延ばしを続ければ、それは七星と恋人にならないという答えになってしまうのだろう。私はそれだけは避けたかった。自分でどちらかを選びたかった。
とはいえ目の前のことを無視するわけにもいかず、私は化学準備室へ向かう。何故職員室ではないのだろうかと私は疑問に思った。また手伝いでもやらされるのだろうか。
そう思いつつ、私はこの間の一件で新しい物に取り替えられた化学準備室の扉を開いた。
「……来たか」
余田先生は一番奥の窓際に立っていた。窓から入ってくる盛夏の生温い風が余田先生の白衣を揺らす。何故か先生は、自分から呼び出しておいて、中々話しだそうとはしなかった。しびれを切らした私は余田先生に聞く。
「呼び出しって一体何ですか? また手伝い?」
「いや、違う。……七星のことだ。告白されたんだろう? どうするつもりなんだ」
私は二つの違和感を覚えた。一つ目は、余田先生が七星のことを名前で呼んだことについてだ。この間は妻鹿と呼んでいた筈なのに、七星と余田先生は何時からそれほど親しくなったのだろう。
二つ目の違和感は、先生が私と七星の関係を知っていることにだ。まさか、昨日昼休みに話していたのをこっそり盗み聞きしていたのだろうか。だとすれば、相当悪趣味な先生だ。
私は適当に誤魔化そうと思ったが、それが許される雰囲気ではないことを察し、渋々答える。
「まだ迷ってます」
「……んだ」
「え?」
「それじゃあ、駄目なんだ!」
余田先生は大声とともに傍にあった机を叩いた。机の上にあったガラス器具が揺れて音を立てた後、準備室がシン、と静まり返る。
私は困惑した。それは生徒の仲を詮索する行為であり、完全に教師としての領分を越えている。それに、何故こんなにも激昂しているのかが分からなかった。私にとっては重大なことだったが、先生にとってはただの一生徒の、思春期らしい恋路に過ぎない筈だ。普段は冷静で飄々としている余田先生が、こんな姿を見せるのは初めてだった。
そうして余田先生は何処からともなく一台のタブレット端末を取り出した。極端に薄いそのタブレットの背面には、輪と羽のようなマークが描かれている。私はそのマークに、見覚えがあった。
「これを見ろ」
先生がタブレットを上へスワイプすると、空中に幾つもの映像が浮かび上がった。大半は二人の人物がメインの映像だったが、中には猫や虫がメインに映されているものもあった。
また、プロジェクターも見当たらないのに映像を空中に浮かび上がらせるという技術は、私が知る範疇では、まだ現代に実現されていないテクノロジーだった。
「あなた、もしかして……!」
「そう、私は夜の神に仕える天使だ。昼の神に仕えるそこの天使とは管轄が違うがな」
そう言って余田先生は私の隣にいるクエタのことを指さした。私はクエタの方を見る。明らかに狼狽えているその様子から、クエタも私と同じで、余田先生が天使だったということは知らなかったようだ。
「なっ……! 人間に化けて居たんですか!?」
「そうだ。人間のフリをしている方が色々とやりやすいからな。まぁ、プライドが高い普通の天使なら、自ら人間になりたがるようなやつはいないと思うが……」
「ぐぬぬ……!」
図星を突かれたようにクエタは唸った。そう言えばクエタは最初に会った時「人間には絶対なりたくない」と言っていた。恐らくクエタ達天使の価値観において、人間に化けるというのは相当異端なことなのだろうと、何となく察せられる。
余田先生は映像たちを指しながら私に聞いた。
「名野。これらの映像は何だと思う?」
「え、と……分かりません」
「これらは、七星とお前だ」
「え……?」
「正確に言えば無数にある並行世界の、七星とお前の映像なんだ」
そう言われて、私は映像を再び見つめ直した。その映像たちには時間も国も映っている対象にも全く共通点はなかった。ある映像では猫とネズミの映像が映され、またある映像では姫と庭師のような人達の映像が映し出されていた。しかし、よくよく注意してみると、その映像に映った片方の生き物に、妙な親近感を覚えるような気がした。これが並行世界の私であるという証明なのだろうか。その微かな感覚は、この突拍子もない現実離れした話に妙な説得感を与えていた。
「私と七星は、数多の並行世界で必ず出会っていたということなんですか?」
「いいや、勿論出会ってない世界もある。この映像は抽出した一部に過ぎない」
「じゃあ一体……」
「これら全ては七星が体験した映像……つまり、七星が幾度も並行世界に生まれ変わりを繰り返す中で見てきた世界なんだ」
「生まれ、変わり……?」
宙に浮かぶ大小の映像たちは、とてもではないが両手で数え切れる個数ではない。これら全てを、いやこの中に含まれない数もの生まれ変わりを七星は経験したということなのだろうか。七星は全てを覚えているということなのだろうか。それは、私のようにたった十数年しか生きていない者からしてみれば、途方もない話だった。
「七星はどうしてこんなことを……?」
「それは、七星が自ら望んでやっていることだ。……お前と結ばれる、ただそのためだけに」
「これを見ろ」と言いながら今度は別の画面が空中に浮かび上がった。それは、前にクエタに見せて貰った天界ネットワークのキューピッド予報とかいう画面にそっくりのものだった。ただあの時と違う点は、ハートマークが何処にも描かれていない代わりに、水滴のマークが描かれている。また、書かれている数字も違っていた。
「〇・〇〇……一%?」
「全ての世界線を統計したときの、お前たちが結ばれる確率だ。つまり、逆を言えばお前たちは九十九・九九……九%の確率で結ばれない。……しかし、唯一結ばれる可能性が極めて高い世界が此処だ。何度も世界を生まれ変わって見つけた、この世界だけだったんだ」
九十九・九九%の恋は〇・〇一%にも満たない恋を繰り返した先にあったものだった。その事実が私の胸に突き刺さる。
「ま、待って下さい! この世界では、流さんが恋をすれば世界は滅びるんですよ! だから、悪いですがこの世界でも――」
「私は夜の神に仕える天使であり、今は七星の天使でもある。そして、人間を幸せにするのが天使の使命……たとえ世界が滅ぶとしても」
クエタの言葉を遮って、余田先生は言った。その言葉には力強い意志が宿っている。
クエタは目を丸くして、言った。
「まさか、妻鹿七星が幸せになるためだけに、この世界を滅ぼせって言うつもりじゃないでしょうね!?」
「その通りだ。安心しろ、最低限七星の幸せは保証されるのだから、お前がクビになるようなことはない」
「そういう問題じゃありません!」
先程の余田先生にも負けないほどの大声を出しながらクエタは言う。その声は怒りや憤りを纏った声だった。余田先生は至って平坦に、何のことはないようにクエタに答える。
「世界が滅ぶことの問題か? 滅ぶと言ってもそんなすぐ滅ぶわけじゃないだろう。一ヶ月にせよ、一週間にせよ……一分にせよ。七星達が結ばれてから時間はあるはずだ。その間だけでも幸せでいてくれれば、良い」
「なっ……たったそれだけのために八十一億人の人々も……その中に含まれる自分達も殺せって言うんですか!?」
「そうだ。そのためにお前達は死ね」
それは、衝撃的な言葉だった。しかし余田先生が決して冗談など言っていないことはその覇気から十分すぎるほどに伝わってきた。
「大体……流さんと結ばれるだけが妻鹿七星の幸せではないでしょう? もっと他にも……探せば沢山見つかるはずです! そんなのはただの思い込みに過ぎません!」
「思い込みでも都合のいい妄想でも何でもいい。ただ二人が結ばれることさえ出来れば」
馬の耳に念仏とはこのことか、余田先生は一向にクエタに対し聞く耳を持たない。双方が互いの論法を間違っていると思っていたし、双方が自分の論が正しいと信じて疑わなかった。
議論は平行線を辿った。たった一人、七星のために世界を滅ぼせと言う余田先生と、そんなことは出来ないというクエタ。私はどちらにも付くことが出来ず、またどちらが正しいのかさえも分からなかった。
しかし、答えを出すのは二人ではなかった。この私だった。私は呆然としている中で、天秤の音を聞いた。天秤は右に傾いたかと思えば左に傾き、中心の針はカチカチとメトロノームの様に振れている。答えはない。
そんな混沌とした状況の中、ガラリと天使達の言葉を遮るように化学準備室の扉が開いた。
「……ヨタ、言っちゃったんだね」
「七星……!」
余田先生は驚いた様子で入ってきた七星を見る。七星は一瞬だけ私の方を見ると、少し微笑んだように見えた。
それから二人の天使に向かって七星は言う。
「ねぇ、ちょっとだけ私と流の二人きりにしてくれないかな?」
天使達は顔を見合わせる。それから程なくして二人共七星に許可を出した。
その時、ちょうど昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「流、悪いけど」
「ううん、大丈夫」
七星は私の手を引いて化学準備室を出た。私も後に続く。二人の天使がその様子をただただ見守っていた。
七星に連れられてやって来たのは図書室だった。本来施錠されている筈のそこは、図書委員である七星が普段持ち歩いているというスペアキーによって開かれる。当然のように授業が始まっているこの時間帯には誰も居らず、静寂だけが居座っていた。
「ヨタってね、ああ見えてすっごくお節介なんだよ。余計なことはしないでって、言ったんだけどなぁ……」
私は何処へ座って良いものか分からず悩んでいると、七星が図書室の入口から最も離れた窓際の席に座った。そして私に手招きをする。七星に促されるまま、隣に腰掛けた。私はあまり図書室へ来ることがない。しかし、何故だかその席は本来私のものであるかのようにしっくりと馴染んだ。
「私が最初の世界であなたと会ったのは図書室だったんだ。この学校じゃないけど、多分あなたが座るならこの席だと思う」
七星は思い出を慈しむように言った。だが同時にその視線には深い寂しさも含まれていて、私はようやくその時、七星の寂しさの理由が分かった気がした。
それから私達はどちらからともなく口を閉じた。遠くで体育をしている生徒たちの掛け声が聞こえる。少し開けられた窓からは、穏やかな風とともに小鳥のさえずりが運ばれてきた。それはまるで、前に私達が保健室で過ごした僅かな時と似た雰囲気を持っていた。この瞬間こそが、私達における最良の時であり、私達はかくしてあるべき関係のようにも思えた。
しかし、何時までもそうして居るわけにもいかなかった。時は平等に刻まれる。七星にも、私にも。その総量は膨大なほどに違っていたかもしれないが、今同じ時を過ごしていることには変わりなかった。
私は口を開く。
「ねえ、何で私なの? 何で私と結ばれるためだけにそんな……」
「……静かだったの、あなたと居る時は。それがどれほど私にとっての救いだったのか、あなたには分からないと思う。それが何時しか、あなたと居る時そのものが私の救いになった。だから、だと思う」
私と居る時が、七星の救いになっていた。それは嘘のようにも思えた。現に私は七星のことを生まれ変わりの牢獄へ捕らえ続けている。私が、七星に悲痛な思いをさせているように思えてならないのだ。しかし、その思いが私でしか拭えないこともまた事実であると、きっと七星は言うのだろう。
七星は口を開く。
「ごめんね、きっと何か事情があって、私と付き合えないんだって知ってた。あなたの周りに天使が居るのが見えたから。……まさかそれが世界が滅ぶからだとは知らなかったけど」
天使は一般人には見えない。逆をいうと、天使に関係がある人には見えるということは、最初から七星にはクエタのことが見えていたということだった。炊事遠足で七星が寺石くんと居る時に、私はちゃんと隠れていたつもりだったが、クエタのことが見える以上、七星には私が近くにいることはバレバレだったのだろう。
「私が流を屋上へ呼んだ時、あの時も天使が君を連れ去ったのが見えてたんだ。……私、『あぁ、またなんだ』って思った。また叶わないんだって。おかしいよね、だって九十九・九九%で叶うはずなのにさ。私の心が、諦めちゃってた」
「でもね」と七星は続ける。
「君が私のことを意識してるって分かった瞬間……諦めてたのに、しがみついてたの。溺れる人が藁を掴むみたいに、無意識に。あはは、やっぱり変だよね?」
「ううん、誰だってそうするよ」
私は七星の言うことを、笑い飛ばせはしなかった。七星は笑って欲しかったのだろう。笑って、軽く済ませたかった。けれど、私は七星の気持ちを考えると、そんな事は出来なかった。
「……君は変わらないね」
ふと、その時私の左手の小指に何かが触れた。それは七星の右の小指だった。七星はおっかなびっくりという風に、極めて繊細に、触れてはいけないものに近づくような手つきで私に触れる。私はその指ごとしっかりと手を握りしめたい気持ちで一杯になった。しかし、それは出来なかった。二つの扉が、それを許しはしなかった。
此処まで来て尚も、私は迷っていた。私を思い続けてくれてた、たった一人の少女の幸せか、幾億もの人々が生きる、美しいこの世界か。今、七星を前にしてそれを選択することが出来ないのは不義理だと分かっていた。私はどうしようもなく優柔不断で、ちっぽけな存在だった。そんな自分に対し歯噛みをする。
「私、わたし、は……」
「大丈夫」
その言葉に私は顔を上げ、七星の方を見た。その顔には、驚くほど安らかな笑みが浮かんでいた。窓から差し込んだ光が皮肉にも彼女を照らす。
「君は世界を救って」
七星はそう言うと、重ねていた小指をすんなりと離して椅子から立ち上がった。背を向けたままで彼女は言う。
「私……君と離れ離れにさせる世界が嫌い。でも、この世界が好きな君のことは好き。……だからどうかお願い、この世界を救ってね」
そうして彼女は振り返って、言った。
「君を好きでいさせてね」
それは呪いの言葉だ。私は去りゆく彼女の背中に向かって、何かを言おうとして口を開いた。けれど口から出てきたのはただの空気の塊だけで、肝心の喉は何も動かなかった。
そうして七星は、この世界から消えた。
*
ピピピピッ、と鳴るアラームを途中で止める。私は既に目覚めており、ベッドの中で何か考え事をしていたように思う。しかし、ベッドから身体を起こせば、その考え事とやらはもう夢の中の出来事のように雲散霧消していった。
季節はもうすっかり夏になっていた。私は半袖のポロシャツの上からニットのベストを着て、スカートを履く。暑いのにも関わらずニットのベストを着るのは、その方が何故だか格好良いと思っていたからだ。
部屋から出ようとして、ゲームのコントローラーに蹴躓いた。それは、暇な時に何時でも出来るよう、部屋の床に置かれていることが常だった。私はそのコントローラーをガラス戸の奥深くへしまうと、今度こそ部屋を出た。
「おはよう、今日は早いじゃない」
「そう?」
一階で既に朝食を作り終えたらしいお母さんが、私に朝の挨拶をする。私は早々に席につき、「いただきます」の挨拶をしてから朝食を食べ始めた。内容は、白いご飯に、味噌汁、塩鮭。今日は和食らしい。鮭の身の間に入っている骨が、どうにも煩わしく感じた。
『いよいよ今日に迫った天体ショーですが……』
点けっぱなしになっているテレビの内容が、耳に入って来てはそのまま通過していった。しかし、それは私にとってさして重要なことでもないだろう。たとえ大きな事件が私の住む近所にあったとしても、それは私の知ったことではなかった。
私は食事を終えると食器を流しに置いて、ニ階からリュックサックを持ってきた。
「あんた、今日は元気ないね」
いつもは快く送り出してくれる筈のお母さんがそんなことを言うので、私は少し驚いた。
「いつも通りでしょ」
「そんなことはないと思うけどねえ」
「お節介なんだよ……いってきます」
「あ、もう……いってらっしゃい」
お母さんに見送られつつ、私は家を出た。車庫に停めてある自転車の鍵を回して家の前に出すと、その時ちょうどお隣の家から奥さんとベビーカーに乗った赤ちゃんが出てきた。赤ちゃんと視線が合う。赤ちゃんは何故か不思議そうな顔でこちらを見ている。私は自転車を漕ぎ出した。
校門で他の自転車と接触しないように注意しながら自転車置場へ自転車を停めると、私は玄関前へ向かった。相変わらず玄関前に立っている頭髪の寂しい校長先生が挨拶をしているので、私は適当に挨拶を返す。言わずもがな私の靴だけが入っている靴箱から靴を取り出して履き替えた後、教室へ向かった。
「おはよ」
「おはよす」
通りすがりの藤澤に挨拶をしつつ、私は自分の席に着いた。隣の席は、ない。私の隣は教室中央の一番前の席という普通ならば空いたりしないような席だったが、そこにはぽっかりと抜け落ちたように机がなかった。しかし、そのことを誰も気にしていないようだ。ただ、それだけだった。彼女はまた別の世界に行ったのだろうか。
チャイムが鳴ると同時に教室に先生が入ってくる。それはこのクラスの副担任の先生で、数学を教えている、見覚えのある先生だった。元々の担任である谷久保先生が産休に入ってからは、ずっとこの副担任の先生がクラスを受け持っていたらしい。
「……クエタはいつまで居るの?」
私は隣で浮遊しているクエタに聞く。もう彼女の存在を覚えているのは、私以外にはこの天使くらいのものだろう。
「しっ、心外ですね! 勿論いつまでも、です! 大きな危機が去ったとはいえ、流さんが人生のうちで恋をしないとはまだ確定していませんからね。質問に答えるならば、流さんが死ぬまで、でしょうか」
「……マジ?」
そうは言いつつも、私は内心ほっとしていた。彼女の存在を証明してくれる片割れが一生居てくれることに安堵したのだ。私がたとえこの先認知症になったとしても、この天使だけは覚えてくれるだろう。
それから昼休みになると、私は校内の様々な場所を巡った。
一つ目は、屋上だった。昼休みの屋上は人で混み合っており、レジャーシートを敷いて昼食を食べている女子生徒達も居た。ただ、それだけだった。
二つ目は、自身の教室だった。再び戻ってきた教室は既に仲の良い者達で人の輪が形成されており、そこに別の人物が入る余地はないように思えた。ただ、それだけだった。
三つ目は、化学準備室だった。扉は固く閉じられており、そこは何人たりとも受け入れないように感じられた。ただ、それだけだった。
最後は、図書室だった。昼休みの図書室は数人の生徒が利用しているのが見受けられる。私はその中でも窓際の一番奥の席に座ったが、誰も来ることはなかった。図書委員さえも、話しかけては来なかった。ただ、それだけだった。
それだけ、それだけ、それだけ、それだけ。
私は自分が無性に苛立っていることに気がついた。これは一体、なんだ? 私は何故苛ついている? 誰も何も、私の気に障るようなことはしていない筈なのに。
放課後になり、私は再び校内全域を巡ってみた。しかし学校は、その機能を欠かすことなく正常に作動していた。それは私にとって、何とも言えない気持ち悪さを帯びていた。そんなことがあってはいけなかった。何も問題がないのだと信じたくは、なかった。それなのに。
私はふと、廊下の奥にジャージ姿の寺石くんが立っているのを見つけた。彼は友達と談笑していた。その顔は、至って普通で、笑顔で、楽しそうだった。私は思わず走っていって、寺石くんの襟元に掴みかかった。
「何で……何とも思わないの!?」
寺石くんとその友達は見るからに困惑していた。寺石くんも七星のことを忘れているのだ。その反応は当然だ。けれど、彼にだけは覚えていて欲しいという気持ちが、私の根底にはあった。七星を好きって言ってたじゃないか。どうして忘れてしまうんだ? あなたの言う好きっていうのは、その程度のものだったのか? 愛はそんなにも無力なのか? そんなの、あんまりじゃないか。
寺石くんは友達に「先に行ってて」と言うと、黙って私の言葉の続きを待っていた。それは彼の優しさだった。正しいのは彼で、間違っているのは私だった。けれど、それでも、言わずには居られなかった。
「今からおかしなことを言うけど、この世界は圧倒的に何かが欠けているんだよ。たった一つを、失ったんだ。それなのに、どうしてあなたは笑って居られるの!」
私は思い切り叫んでいた。胸の内が苦しくて、どうにかなってしまいそうだったから。寺石くんは頬を掻き、何を言おうか悩んだ後に言った。
「俺だってそりゃあ、何かが足りないって思う時もある。勉強とか将来のこととかじゃなくて……何か、もっと根本的に、それこそ名野が言う、たった一つのものっていうか」
「でも、」と寺石くんは続けた。
「でも、それがなくたって世界は回っていくんだ。俺達は生かされるんだ。生きてかなくちゃ、ならないんだ。そんなの、高校生ならもう、誰だって知ってることだ」
諭すように寺石くんは言った。寺石くんの言うことはもっともだった。私は掴んでいた寺石くんの襟首を離して、両手をぶらんと垂れ下げた。
「……ごめん」
「いや、別に良いけどさ、何かあったんなら聞くけど」
「ううん、もう、十分だから」
「本当にごめんね」と私は再び寺石くんに謝りつつ、失意のままにその場を去った。寺石くんは釈然としない表情で、私のことを見送っていた。
カラカラと自転車を押しながら私は帰り道を歩いていた。私の隣を他校の生徒達が談笑しながら通り過ぎていく。その内の一人の背中まで届く長い髪の毛が、彼女のことを連想させた。
彼女は今、誰も目の届かない何処かで泣いているのかもしれない。何度も何度も繰り返す生まれ変わりの世界でたった一人絶望しているのかもしれない。そう思うと、やるせない気持ちになった。それでも本当に、生きていかなくちゃならないのか? 私は疑問に思った。
自転車用のスロープがついた歩道橋に登り、その上から町を見下ろした。真下には高速で車が走っており、ぶつかればひとたまりもないだろう、と考えた。私は他の場所に目を向けた。道路は無機質で、まるで幼稚園児が作った粘土細工のように質素だった。それだけではない、私は街全体がガラクタで出来ているような錯覚を覚えた。建物は錆付き、役目を果たしているようには見えず、木々は灰色に変わり果てていた。真横の太陽が、痛烈な光を出しながら我々をあざ笑うように沈みつつある。
――一体どうしてしまったんだ、この世界は?
違う、違う筈だ。この世界はもっと、輝いていた筈だ。美しかった筈、なのに。
その時、世界がリアリティを伴って私の眼前に差し迫ったような気がした。
たった一人の女の子すら幸せに出来ない。それが世界の本質だった。鈍くて荒んだこの世界では、誰もが誰かを慰めることは出来なかった。
「私は――」
気がついてしまった。この世界に失望している自分が居ることに。こんな世界に――一体何の価値があるっていうんだ?
しかし、私にはもう、どうしようもなかった。もう七星は居ない。世界から消えてしまった。寺石くんの言う通り、欠けた世界で生きていく他に道はないのだ。そう、それが最も利口で最も正しい道なのだ。
『君を好きでいさせてね』
――だからって、このままで良いのか?
私は彼女の別れ際の言葉を思い出した。彼女の声そのものが、諦めに傾いた私の心をじわりじわりと侵食していく。
もう私は世界を愛してはいなかった。彼女の好きな私ではなかった。世界は彼女を失った途端、私にとって取るに足らないガラクタに成り果ててしまった。空は薄汚れた泥のようなもので塗れ、地面は足を絡みとる見えない霧で覆われた。
だからこそ、私はこの世界をもう一度好きになる必要があった。美しい世界を、再びこの目に焼き付けるために。
彼女はこの世界が好きな自分を好きだと言ったのだ。
そのために私は、彼女を取り戻さなければいけない。
彼女が消えてしまっていようが、それがどんなに利口でない馬鹿げたことであろうが、私はもう一度彼女に好きになってもらうために、走り出さねばならない。
私は自転車に飛び乗り、今まで通ってきた道を遡るようにめいいっぱい自転車を漕ぎ出した。
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