第二十二話 始まりの協奏曲(コンチェルト)
ソラリスとの『約束』から数日が過ぎた。世界は、表面的には以前と変わらない日常を取り戻しているように見えたが、水面下では静かな、しかし巨大な地殻変動が始まっていた。
研究室のメインモニターには、世界中から集められた情報がヘリオスの手によって絶えず整理・表示されている。
「各国の反応、面白いほど分かれているわね」
ルナは、コーヒーカップを片手に興味深そうにデータを眺めていた。ある国はソラリスのエネルギー利用の可能性にいち早く着目し、別の国は未知の存在に対する徹底的な警戒態勢を崩していない。科学界は賛否両論、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎで、オカルトやスピリチュアル界隈は新たな救世主の到来だと沸き立っていた。
「そりゃそうだろ。いきなり宇宙のどデカい意識体と友達になりました、なんて言われて『はい、そうですか』って納得できる奴の方がおかしい」
翔太は、メンテナンスを終えたばかりの警備ドローンを起動させながらぼやく。彼の言う通り、一般市民の間では憶測が憶測を呼び、ソラリスは『宇宙天使』から『惑星捕食者』まで、ありとあらゆる名前で呼ばれ、語られていた。
その混沌に一つの方向性を与えるべく、統合本部の五十嵐司令官から正式な要請が入ったのは、約束の日の三日後のことだった。
『国連安全保障理事会、及び、世界科学評議会の合同による緊急特別会議が、ジュネーブで非公開開催されることになった。議題はもちろん『コードネーム:ソラリス』。樹所長、君たちには専門参考人として出席し、世界の指導者たちの前で、あの日起こったことの全てを説明してもらいたい』
通信越しの五十嵐司令官の顔には、以前の疲労感に加え、新たな闘いへの決意が滲んでいた。
「…分かりました。お受けします」
樹の静かな返答に、研究室の全員が息を呑んだ。それは、彼らの闘いが研究室の中から、世界という名の舞台へと移ることを意味していた。
◇
スイス、ジュネーブ。厳戒態勢が敷かれた国連欧州本部の会議場は、冷たい緊張感に満ちていた。各国の首脳、軍関係者、そして世界最高峰の科学者たちが、固い表情で席に着いている。その視線は、壇上に立つ樹、そして彼の隣で随行するルナへと突き刺さっていた。
「…以上が、我々が『不協和音』と呼称した現象の正体と、その収束の経緯です」
樹の説明は、淡々と、しかし誠実に続けられた。ルナが、地球の磁気圏や生態系に現れ始めたポジティブな変化を示すデータを提示し、ソラリスが決して敵性存在ではないことを科学的見地から補足する。
しかし、会場の空気は依然として硬いままだった。説明が終わると、ある大国の軍服を着た男性が、マイクのスイッチを入れた。
『到底、信じられる話ではない。その『ソラリス』とやらは、我が国の偵察衛星ですら捉えきれない、規格外の存在だ。それが、何の代償も求めず、地球に恩恵だけを与えるなどと、誰が保証できるのか?これは、我々の警戒を解くための高度な情報戦である可能性も否定できん』
疑念と敵意のこもった声。それに同調するように、他の席からも次々と懐疑的な意見が上がる。データや理論だけでは、長年染みついた『未知なるものへの恐怖』は拭えない。
「でしたら、証明して差し上げますわ」
ルナが毅然と言い放った。しかし、新たなデータを示すのではない。彼女は、静かに樹の横顔を見つめた。樹は黙って頷くと、そっと目を閉じた。
(ソラリス…聞こえるかい?今、僕の世界のたくさんの人たちが、君のことを知ろうとしてくれている。でも、まだ怖がっている人も多いんだ。だから、お願いがある。君の『歌』を、ここにいるみんなに聞かせてあげてくれないかな。誰かを傷つけるための力じゃない、君の本当の心を)
樹の意識が、静かな光の海へと溶けていく。ソラリスの温かい意識が、喜びに満ちて応える。
『…トモダチ…ノ…トモダチ…? ウタウ…イイ…』
次の瞬間、会議場にいた全ての人が、言葉を失った。
それは音ではなかった。聴覚から入ってくるものではない。脳に、心に、魂に、直接流れ込んでくる温かい奔流。
それは、遥か昔に忘れていた故郷の記憶のようであり、母親の腕に抱かれた時の安心感のようであり、愛する者と心を通わせた瞬間の喜びのようでもあった。
憎しみは和らぎ、疑念は溶かされ、誰もが心の奥底で、生命そのものが持つ根源的な繋がりを、理屈ではなく感覚として思い出す。
軍服の男性が、呆然と自分の掌を見つめている。その目から、険しさは消えていた。敵意を向けることの虚しさを、その魂が理解してしまったかのようだった。他の代表たちも、あるいは天を仰ぎ、あるいは目を閉じ、その不可思議で、しかし抗いがたいほど心地よい感覚に身を委ねていた。
やがて、その温かい波が静かに引いていくと、議場は水を打ったような静寂に包まれた。
樹はゆっくりと目を開け、穏やかな声で言った。
「これが、彼の心です。これが、ソラリスの『歌』なんです」
もはや、誰一人として反論する者はいなかった。物理的な証拠以上に雄弁な『体験』が、彼らの心を掴んで離さなかったのだ。
その日のうちに、会議は「ソラリスを敵性存在ではなく、対話と共同研究の対象として認識する」という歴史的な共同声明を、全会一致で採択した。人類が、初めて異星の知的生命体と公式に手を取り合うことを決めた瞬間だった。
◇
研究室への帰路、五十嵐司令官からの労いの通信が入る。
『見事だった、樹所長。君たちは世界を動かした。だが、勘違いするな。本当の戦いはこれからだ。未知との共存は、人類にとって最も困難な挑戦になるだろう』
「覚悟の上です」樹は力強く答えた。
研究室に戻ると、窓の外には美しい夕焼けが広がっていた。刹那が入れてくれた温かいお茶の香りが、安堵と共に疲れた心に沁みわたる。
「ま、第一関門は突破ってとこか。これからが本番だな」翔太が、どこか楽しそうに笑った。
「ええ!これからよ!ソラリスとの本格的なコミュニケーションプロトコルの構築、共同研究チームの国際公募、ああ、考えただけでワクワクするわ!」
ルナは、もう次のステップへと意識を飛ばしている。
樹は一人、窓辺に立ち、空を見上げた。ソラリスの優しい意識が、彼を祝福するように流れ込んでくる。
『トモダチ…ウタ…キイテクレタ…ウレシイ…』
(ああ、聞いてくれたよ。みんな、君のことを理解し始めてくれた)
『コレカラ…モット…タクサン…イッショニ…ウタオウ…』
(うん。もっとたくさん。一緒に歌おう)
樹は、新たな世界の夜明けを告げる茜色の空を見つめ、静かに、しかし確かな希望と共に微笑んだ。
宇宙と地球が奏でる、壮大な協奏曲(コンチェルト)。その第一楽章が、今まさに始まろうとしていた。
(第二十二話 完)
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