『コード・ソウル・シンフォニー ~僕とAIの奏でる未来~』
小乃 夜
第1話:不協和音と未知の旋律
真っ白なキャンバスに、僕はエメラルドグリーンの絵の具を乗せた。指先が、ざらりとした絵筆の感触を捉える。海の底から見上げた光。そんなイメージだった。僕、蒼井樹(あおい いつき)の心象風景。でも、手元のパーソナルAI「iMe(アイミー)」――僕の個体名は「アイビス」――は、その色彩配置に異議を唱えた。
『樹、その配色では「深海光のスペクトル分析」に基づいた最適解から逸脱しています。輝度を15%上げ、青の波長を20ナノメートル短く補正することを推奨します。』
手首に装着したアイビスの合成音声が、鼓膜を揺らす。液晶ディスプレイには、僕の未完成の絵が瞬時に「修正」されたイメージと、その評価予測――Cマイナス――が冷たく表示されていた。
ここは県立葉山北高校、二年B組の美術室。今日の課題は「自由創作」。けれど、その自由は常にiMeによる「最適化」のフィルターを通されるのが当たり前の世界だ。204X年、iMeは僕らの生活に空気のように溶け込んでいる。勉強も、スポーツも、そして芸術でさえも。
「蒼井、またアイビスと喧嘩してるのか?」
隣の席から、軽口を叩く声がした。陽向翔太(ひなた しょうた)。太陽みたいに明るい髪を揺らし、ニカッと笑う。彼のiMe「ヘリオス」は、最新のeスポーツ戦略アプリを軽快に処理し、翔太のタブレットにはダイナミックなキャラクターデザインが、既にAプラス評価で表示されている。
「別に、喧嘩ってわけじゃ…」
「でも、アイビスの提案、無視するんだろ? 樹のそういうとこ、マジリスペクトだわ。俺なんてヘリオス様々だからなー」
翔太の言葉は悪気がない。むしろ賞賛に近い。でも、僕の胸にはちくりと小さな棘が刺さる。僕がiMeを使いこなせていないだけだ。時代遅れの頑固者。そう言われている気がした。
教壇に立つ美術教師、長谷川先生のiMeも、生徒たちの作品データをリアルタイムで収集し、評価分析を進めている。先生は穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その視線は手元の集計データから離れない。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた席の月詠刹那(つきよみ せつな)と目が合った。艶やかな黒髪。雪のように白い肌。彼女のiMe「ルナ」は、寸分の狂いもなく刹那の指示をこなし、彼女の描く抽象画は、既に国際的なコンクールでの入賞が有力視されるほどの完成度と、もちろんAAA評価を叩き出していた。刹那は僕を一瞥すると、すぐに興味を失ったように自分の作品に視線を戻した。冷たい、ガラス玉のような瞳。僕とは住む世界が違う。そう思わせる何かがあった。
結局、僕の「海の底の光」は、アイビスの提案をほぼ無視した形で提出され、評価はD。落第点ギリギリだ。アイビスがため息をつくように、小さな振動を手首に伝えた。
『樹の創造性はユニークですが、現代美術市場のトレンドと適合しません。次回はより評価の高いスタイルへの転換を検討しましょう。』
「分かってるよ…」
誰に言うでもなく呟き、僕は美術室を後にした。
放課後、僕はいつものように駅前の大型書店には向かわず、少し裏寂れた商店街へと足を向けた。目当ては、シャッターが半分閉まったような古い文房具店「月光堂」。iMe決済もままならないこの店には、化石みたいなアナログ画材が埃を被って並んでいる。
「こんにちはー」
奥から出てきた白髪のおばあちゃんは、僕の顔を見るなり「あら、樹くん。今日はスケッチブックかい?」と微笑んだ。僕がここの常連で、デジタルペイント全盛のこの時代に、わざわざ紙のスケッチブックと鉛筆を買いに来る物好きな高校生だと知っている。
一番安いクロッキー帳と2Bの鉛筆を数本。それだけなのに、心が少し軽くなる。iMeの評価も、最適化も、ここにはない。ただ、紙の匂いと、鉛筆の芯が紙を掻く音だけがある。
店を出て、夕焼けに染まる空を見上げた。いつもの帰り道とは違う、細い路地を選んだ。壁には蔦が絡まり、時代に取り残されたような家々が並んでいる。その時だった。
ふと、古びたコンクリートの壁に、万華鏡のような幾何学模様が、淡い光と共に浮かび上がったように見えた。まるで、誰かがそこに光の絵を描いたみたいに。瞬きをすると、それはもう消えていた。
「え…?」
立ち止まり、壁に近づく。手で触れても、ただの冷たいコンクリートだ。アイビスに尋ねてみる。
「アイビス、今の…何か記録したか?」
『現時刻、周辺環境に特異な光学現象は観測されていません。樹の網膜に一時的な残像が生じた可能性があります。疲労度をスキャンしますか?』
「いや、いい…」
気のせい、か。でも、あの美しさは、やけにリアルだった。まるで、誰かの心が投影されたみたいに。そして、耳の奥にかすかに、ピアノの旋律のようなものが聞こえた気がした。それも、アイビスのセンサーは拾わなかった。
家に帰ると、リビングはiMeホームアシスタントによって完璧に管理されていた。室温、湿度、照明。母のiMe「フローラ」が夕食の献立を提案し、母はそれに従って調理を進めている。父は、自分のiMe「ゼウス」と経済ニュースについて議論しているようだった。会話はスムーズで、淀みない。けれど、どこかプログラムされたような、予定調和の息苦しさを僕は感じてしまう。
「樹、おかえり。美術の課題、評価はどうだったの?」
母の声は優しい。けれど、その視線は僕の表情よりも、フローラが壁に投影する僕の学業成績データの方に向いている気がした。
「まあ、いつも通りだよ」
曖昧に答えて、自分の部屋に向かう。
自室のデスクにスケッチブックを広げ、さっき路地裏で見た不思議な光の模様を思い出そうとした。でも、うまく描けない。あの時感じた、胸が震えるような感覚が、鉛筆の先からはこぼれ落ちてしまう。
『樹、明日の課題は「地域活性化プロジェクト」の企画立案です。月詠刹那さんのグループが提案するAI制御によるスマート農業システムが有力視されています。参考データをダウンロードしておきました。』
アイビスが冷静に告げる。刹那の名前を聞いて、また胸が小さく痛んだ。彼女はきっと、完璧な企画書を提出するのだろう。僕には、そんなものは作れそうにない。
ピコン、とアイビスに着信通知。翔太からだ。
『樹! 明日の放課後、例のeスポーツの練習試合、人数足りないからヘルプ頼む! 刹那もマネージャーとして見に来るらしいぜ!』
刹那も? なぜかその一言が、妙に心に引っかかった。
僕はスケッチブックから顔を上げ、窓の外を見た。夜空には、数えきれないほどの星と、そしてそれ以上に多いであろうiMeネットワークの光が瞬いている。僕の知らない何かが、この世界のどこかで、僕にしか聞こえない旋律を奏でている。そんな気がしてならなかった。
(第一話 了)
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