アートの名のもとに
広川朔二
アートの名のもとに
駅から伸びるアーケード商店街を抜けた先に、その雑貨店はあった。名前は「月の輪雑貨」。手描きの看板には、可愛らしくデフォルメされた熊と月が並んで笑っているイラストが添えられている。看板は父の手によるものだ。絵心のある人ではあった。昔は美術教師を目指していたと聞いたことがある。
大学生の悠人は、週に数回、この店に顔を出していた。家は店の裏手にあり、通学の行き帰りに立ち寄るにはちょうどいい距離だった。
「いらっしゃいませー……あ、悠人か」
「客じゃないってば。牛乳とパン、冷蔵庫に入れとくね」
母がレジ越しに笑い、悠人は差し入れの袋を棚の下に置いた。商品棚には、陶器の器や手作り風のキャンドル、ドライフラワー、ちょっと変わった文房具などが並んでいる。仕入れは父と母が手分けして担当しており、品揃えにはまだ若干のばらつきがあるが、そこがむしろ味になっていた。
「今日ね、若い女の子が『これ、インスタで見たやつです!』って言ってくれてさ」
「へぇ。地味にバズってるんじゃない?」
「父さんが書いたPOPが、いい味出してるって」
奥の作業スペースでは、父が筆ペンを握っていた。紙の上には「母の日ギフト特集!」と走り書きされた文字が並ぶ。小学生のころ、よく父に年賀状のイラストを描いてもらったことを思い出す。
夢だったんだ――父は、何気ない会話の中でそう言った。
「定年まで勤めて、そのあとも何かの補助とかやって。そういう老後も悪くないと思ってたけどな。でも、どうせならやりたかったこと、今やっておきたいって。なあ、無茶かな?」
「いや。……かっこいいと思うよ」
悠人は本音を返した。実際、胸の奥に少しだけ誇らしさがあった。子どものころ、自分のやりたいことを諦めて働き続けた父が、今になってもう一度夢に向かって動き出したこと。その姿を、素直にすごいと思っていた。
だが、その空気は、ある日の夕方に唐突に壊された。帰宅途中、商店街の角を曲がった瞬間、悠人は思わず足を止めた。閉店時間を過ぎた店に下ろされたシャッターだ。
店の正面、白いスチールシャッターに――何かが描かれていた。
赤、黒、銀。スプレー塗料の臭いがまだかすかに残っている。意図の見えない曲線、だらしなく歪んだ文字のような模様。どこかで見たような気がする。ニューヨークのダウンタウンの壁か、ヒップホップのMVに映っていた背景か。しかし、これは――ただの汚れにしか見えなかった。
店の中から出てきた母が、気まずそうに言った。
「……今日の朝、開けたらこうなってて。近所のお肉屋さんも、何回かやられたことがあるんですって」
「これ……器物損壊だよ」
「まぁ、でも一応、消せばいいし……ほら、お父さん、朝からせっせと用意してるのよ」
そう言って母が示したのは、シャッター清掃用の高圧洗浄機とブラシ、溶剤の類だった。
「明日の朝、ちょっと手伝ってくれると助かるわ。学校ある日でごめんね」
「……うん、いいよ」
悠人はうなずきながら、もう一度シャッターを見た。それは“作品”ではなかった。ただの破壊だった。
明け方、少しだけひんやりとした空気の中で父と共にシャッターを磨きながら、悠人は思った。
これを「アート」と呼ぶのなら、それはただの免罪符だ。誰かの夢を踏みにじる権利なんて、誰にもないはずだ。
だが二度目はやってきた。そしてそれは一度目よりも悪質だった。
それはある月曜の朝だった。シャッターを開けようとした母が悲鳴を上げた。悠人が駆け寄ると、そこにはもはや「落書き」と呼ぶには度が過ぎた、荒々しい塗料の暴力が広がっていた。
黒いペンキで雑貨店のロゴが塗り潰され、その上から下品なピンクのスプレーでなにか文字のようなものが書かれていた。「Useless」――使えない。くだらない。そんな意味にも読める。
「悪質すぎる……」
母は顔を手で覆い、小さく首を振っていた。父は何も言わなかった。淡々とシャッターを閉じ、その足でホームセンターに洗剤を買いに行った。
翌日、シャッターは元通りに近いところまで綺麗になっていたが、消しきれない染みが残っていた。まるで、傷跡のように。
「今度、店に泊まろうと思う」
晩飯の席で、父がぽつりとそう言った。
「万が一またやられたら、そいつの顔を見ておきたい。何もするわけじゃない。ただ、話くらいはさせてほしいんだ」
母は止めなかった。ただ、不安げに湯呑みを握りしめていた。悠人もまた、賛成も反対もしなかった。ただ、胸の奥に燃え残るような違和感を抱えたまま、食事を終えた。
その夜、事件が起きた。
明け方、電話が鳴った。まだ薄暗い時間帯に、母が慌てて電話に出て、短くうなずいたあと、顔面蒼白で振り返った。
「お父さんが……救急車で運ばれたって……!」
病院のベッドの上で、父は左目に包帯を巻いていた。右目には防護メガネのようなものがはめられ、やや斜めに視線を彷徨わせている。
「やられた、ってわけじゃないんだよ」
そう言って、父は自嘲気味に笑った。
「ちょっと驚かせてしまっただけ。そしたら、手に持ってたスプレーがこっちに――ね。……まぁ、自衛ってやつだ」
目の中に直接スプレー塗料が入ったらしい。角膜の損傷と視力低下。今後の視力回復は不明だという。父はああは言ったがこんなものは傷害事件だろう。悠人の心の中には怒りとも、悲しみともつかない感情が、胸の奥で静かに膨れ上がっていた。
警察が来たのはその翌日だった。
制服姿の若い警官は、終始申し訳なさそうに話した。
「……申し訳ありませんが、防犯カメラには映っていませんでした。裏口の方に回られたようです」
「以前からこの商店街では落書きがあったんですよね?」
悠人が問いかけると、警官は小さくうなずいた。
「はい。ただ、捕まっていない犯人に対して、こちらで積極的な対策ができる状況ではなく……。今回は、向こうが“驚かされて思わず噴射してしまった”と主張する可能性もありますし……」
それを聞いた瞬間、悠人は思わず拳を握った。“自衛”だと?――ふざけるな。
病室を出ると、外は雨が降り始めていた。重たい雲の下、商店街のシャッターは、今も静かに閉ざされている。
父は、言い訳のように笑っていた。
母は、平気なふりをしていた。
悠人は、じっと唇を噛みしめていた。
それからしばらく経った。父は退院したものの、左目の視力はほとんど戻らなかった。右目だけでは細かい作業に支障が出て、店の手書きPOPも作れなくなった。
母は言った。「無理して書かなくていいのよ」。
父は言った。「もうちょっと慣れれば、どうにかなるさ」。
悠人は、何も言えなかった。
大学が再開して数日。昼休みの中庭で、ふと見かけた男がいた。額に白いガーゼ。黒いパーカーに、色の落ちたジーンズ。膝にはペンキの飛沫のような汚れ。その姿を見た瞬間、胸の奥の何かが警鐘のように鳴った。
男は構内で数回見かけたことがあった。名前は知らないが、噂は聞いたことがある。講義中の態度が悪い、勝手に壁にステッカーを貼った、学内で喫煙して注意された――そんな話ばかりが残る、素行の悪い学生だった。
まさか、と思った瞬間、男は友人らしき人物と立ち話を始めた。
「ったくさぁ、あの親父。ちっとくらいいいじゃねえか。表現の自由ってやつだろ? アートがわからねえんだよ、老害どもは」
背筋がぞわりと冷えた。
まさかこいつが犯人か。
それから数日、悠人は男の動向を密かに観察し続けた。
講義が終わるとどこへ向かうのか。誰と会うのか。どのルートで帰るのか。追いかけているうちに、男がよく立ち寄るスポットがわかってきた。繁華街の外れ、古びた公園、そして――川沿いの高架下。
人通りの少ないそこは、スケーターや自称アーティストが好んで使う、グレーゾーンの空間だった。
その夜も、男はそこにいた。橋脚のコンクリート壁に向かって、スプレー缶を片手に線を走らせる。振りかぶるような動きで一気に噴射し、色を重ね、文字にも見えない歪んだ模様を描いていく。その動きは確かに迷いがなかった。
――だが、美しくはなかった。
ただ、自分の痕跡を乱暴に刻みつけているだけだった。
悠人は、男の背後に立っていた。足元には、使いかけのスプレー缶が転がっている。それを拾い上げ、冷たい重みを掌で感じながら、低く声を発した。
「……おい」
振り返った男の顔には、驚きが走った。その一瞬の間隙を逃さず、悠人は構えもなく、勢いのままに塗料を顔面に噴射した。
「う、ぐッ――あ、あああああッ!」
悲鳴。
男は顔を押さえ、のたうち回る。だが悠人は、足を絡めて倒し、その上に覆いかぶさる。
俺の父親の目、お前が奪ったんだよ。心の中で叫びながら、もがく手を押さえつけ、男の顔を地面に向けて固定し、もう一度――今度は至近距離で、塗料をまぶたをこじ開けるように目に吹きかけた。
「やめッ……っつぁ、あああああああッ!」
悠人の手が震えていたのは、怒りのせいなのか、恐怖のせいなのか、自分でもわからなかった。けれど、その震えが止まったとき、男は動かなくなっていた。
顔面は真っ赤に腫れ、目は開こうとしても開けない。どす黒い液体が目の周りを伝い、アスファルトの上に点々と染みを作っていった。
数分後、悠人は静かにその場を離れた。
街灯に照らされる橋の下には、スプレー缶が転がり、男がうずくまっている。周囲に人影はなかった。防犯カメラもない。
翌日、大学ではざわざわとした噂が流れていた。
「あいつ、失明したらしいよ」
「スプレー缶でやられたって……マジで?」
悠人は、ただ静かにその会話を聞いていた。何食わぬ顔で、授業を受け、昼飯を食べ、いつも通りを演じていた。胸の奥で、何かが静かに沈殿していく。
『自分の“芸術”で人の目を奪った男には、自分の目で責任を取ってもらっただけだ』
悠人は心の中でそう呟いた。
父と落書きを消した時のような冷やりとした空気はいつの間にかなくなり、夏の気配が街に滲み始めていた。
事件は、正式に「傷害事件」として処理された。だが、犯人に関する証言は曖昧で、目撃者もなく、現場にあったスプレー缶にも指紋は残っていなかったという。
警察は調査を続けているが、手がかりがないまま時間は過ぎていく。学内でも「あの男、昔から誰かに恨まれてたんじゃないか」という声が広がり始め、やがて関心は少しずつ薄れていった。
悠人は、以前と変わらない日々を過ごしていた。
大学に通い、雑貨店の手伝いをし、父と母と三人で食卓を囲む。いつもと同じ食器、同じ味噌汁、同じ夜。ただ一つだけ違うのは、父の左目にかけられた眼帯。見えていないはずの視線が、ふと悠人の頬をなでるように感じるときがある。
「あのシャッター、描き直そうと思ってるんだ」
ある日、父が言った。
「せっかくだしさ、熊も隻眼にしようかなって。どうせなら、目立つようにしないとね」
悠人は、うなずいた。
「じゃあ、俺も手伝うよ」
父は笑った。
「センスなかったら却下な」
母の笑い声が店内に響き、春の風がガラス戸を揺らした。
夜。
悠人はノートパソコンの前で、ゆっくりと指を動かしていた。検索欄に打ち込んだのは「失明 スプレー塗料」「角膜 損傷 後遺症」。そこには数えきれない記事と論文が並んでいた。視力の回復は極めて難しい。特に両目をやられた場合、失明はほぼ不可逆。
ひとつ息を吐いて、検索履歴を削除し、画面を閉じた。
復讐は果たされた。誰にも気づかれていない。あの男は、二度と“芸術”を語ることはない。
それでも、完全に悠人の心が晴れることはなかった。もし父が真実を知ったら、笑ってくれるだろうか。母は、どう思うだろうか。
けれど、誰にも言うつもりはなかった。
あの夜、橋の下に残したスプレー缶の音と、相手の叫び声だけが、耳の奥にこびりついている。それはいつか消えるのだろうか。
あの日、あいつから奪ったのは目だけじゃない。「表現する自由」も、「見る自由」も。全部、自分の手で、奪ってやったのだ。あいつがしたことが“アート”なら俺があいつにしたことだって“アート”だろう。
あれは、正義だったのか。それとも、ただの報復だったのか。
悠人があの夜のことをどれだけ考えようが、今日も「月の輪雑貨」のシャッターは開く。そして、店にはまた、誰かが訪れる。まるで何事もなかったように。まるで、世界は元通りであるかのように。
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