第29話

 後ろからかけられる異様な威圧感に苛まれながらも俺は家へと到着した。鍵は持っていないので扉の横に立ちラファエルが開けてくれるのを待つ。


「さ、お先にどうぞ」


 言われた通り俺が先に家へと入る。そそくさと手を洗い荷物を置くと自室へ向かう。三日前に届けられた今大会の制服を脱ぎハンガーにかける。そして綺麗に棚の上に置かれたワンピースを着るも急いでリビングへと戻った。

 ラファエルはソファにポツンと一人で座り、肩を細かく揺らしていた。後ろ姿があまりにも異様な光景だったために、俺は彼女の元に駆け寄る。


「海斗くんはもう私のこと、嫌いになっちゃったんですか……?」


 その表情に俺は胸を打たれてどうすれば良いのか分からなくなってしまう。なんとラファエルは号泣していたのだ。


「そんなこと無いですよ! 出会った時からずっと好きだったんですから」

「嘘っ! だって……だって海斗くん、リアを見たときに私よりも感情が昂ってたじゃないですか」


 顔をぐしゃぐしゃにしてソファから立ち上がり、その華奢な体で俺に体当たりしてきた。いつものような冷静さを失っているからかラファエルには全く力がこもっていない。


「本当は私みたいな大人っぽい天使より、リアみたいにちっちゃくて可愛い天使の方が好きなんじゃないの!」


 全てを出し切りラファエルはその場に膝から泣きながら崩れ落ちる。顔を両手で隠しラファエルは地面に座って泣き続けた。

 このままでは俺たちの関係が終わってしまう。自分の女子に対するトラウマを取り除いてくれた。目の前が暗闇になっていた俺を救ってくれた。そんな彼女と積み上げてきた思い出が全て無かったことになってしまう。まずはどうにかして彼女の気持ちを落ち着かせなければならない。


「でもどうやればいいんだよ」


 下界で生きていた頃は恋愛など遠い世界と思っていた俺にとって、こんな状況に陥ったらどうすればいいかなど全く分からない。正しい解決策が分からないために俺は自分なりの方法を取ることにした。とりあえず床にペタンと崩れているラファエルと同じ姿勢になる。


「ラファ、確かに俺はリアみたいな天使には変な気を起こしていたかもしれない。けどあれは妹みたいだなって思ったからなんだよ」

「……えっ? そんなわけないです。確かにあの時、リアに対して海斗くんは発情してました!」


 顔を上げてラファエルは俺に言い返してきた。今度は先ほどのように号泣してはいなかったが、目には涙が溜まっている。今にも泣き出しそうな表情を浮かべているラファエルを見て俺は正直に言う。


「そ、それはいきなりラファに抱きつかれたからであって。リアに発情したわけではなくて……だから信じてください」


 包み隠すことなく俺が思ったことをすべてラファエルに伝える。こんなもので彼女を説得できるなんて到底思ってもいなかったのだが、それは予想に反していた。


「ってことは、海斗くんは私で興奮を?」


 泣きそうになっていたラファエルの顔は、恥ずかしそうに赤らめていた。分かりやすく顔を赤めていたラファエルは床から立ち上がり目の前に立つ。機嫌も完全に治ったのかと思った俺は少しだけ安心、心に余裕ができる。


「でもそんなの、口で言ったらどうにでもなりますよ」


 ラファエルの口から発せられた一言で俺の心に持っていた余裕は虚空へと消え去ってしまう。一難去ってまた一難とはこのことかと俺は実感したのはこの瞬間だった。心を読めばいいだろうと思ったが、今はそれどころではないのだ。


「ちゃんと行動で示してください」

「……行動?」


 今回に関しては本当に何をすればいいのか分からず、そっくりそのまま聞き返してしまう。しかしどうやらラファエルもまさか聞き返されるとは思っていなかったのか、彼女も黙ってしまった。

 既視感のある状況だなと思いつつ二人とも口を紡ぎ、数秒の沈黙が流れる。二人の間に緊張感が走り言葉を発することすら苛まれる中、ラファエルが先人を切って口を尖らせて言った。


「分かって……」


 あまりに小さい声で言われたため、ほとんど聞き取れなかった。だが俺はラファエルの言いたいことが鮮明に伝わっていた。いつかはする事になるんだろうなと思っていた事なんだ。

 こういう時そこ男として、彼女を引っ張っていくべきなんだろう。自分にそうやって圧をかけてラファエルの肩を持つ。ラファエルは自分の言いたいことが伝わって安心したのだろう。

 今からする事を理解しており全身から力を抜いたのをひしひしと感じる。両目を閉じていつ来てもいいように彼女は準備を万端にしていた。

 おそらく二人にとって生まれて初めてで生まれて最後の体験。それを今からするのだ。自分の心臓の音以外は何も聞こえなくなる。今まででこれとないほどの緊張感が全身を走り回った。このままではまずいと思った俺は、上を向いて深く呼吸をする。


「ふーっ……」


 ついに覚悟を決めると目を閉じながら、ラファエルの顔に近づいていく。すぐに互いの唇が接する。好き同士のキスってこんなにも幸せなものだったのか。何だか頭がふわふわしてくる。

 その体勢のまま一〇秒ほどが経過し、俺はラファエルとの初キスを終えた。唇を話すと同時に目を開けたがラファエルと考えることは一緒のようで、彼女とつい目が合ってしまう。ラファエルの目元はもう泣きそうにはなっておらず、トロンとした感じだった。


「初めてのキスが海斗くんで本当に良かった」


 見たことないくらいに幸せそうな表情を浮かべながら、ラファエルは俺に抱きついてきた。普段から抱きつかれることはありその際は自分の欲をなんとか抑えている。

 しかし今日はいつもと違って自分の欲を抑えることが出来なかった。ラファエルは自分の腰に手を回して抱きついているのに対して俺は彼女の腰、より下に手を動かしてしまう。一瞬、彼女は驚いたのかビクッと体を震わせた。


「海斗くんだったら、もっと触っていいですよ」


 手を俺の腰から離し彼女のお腹あたりで組み、もじもじしながら言った。そんな姿を見せられついに俺の歯止めが効かなくなる。


「…………」

「あの、海斗くん? 目が……ちょっと怖いですよ?」


 ラファエルの体を舐め回すように見ていたからだろう。彼女の全てが魅力的に感じてくる。


「なにか言ってくふえっ……」


 顔を眺めているうちに我慢ができなくなりもう一度、ラファエルにキスをした。だが二回目のキスは唇を重ね合わせるというようなキスはしなかったせいか、彼女は目を大きく開き手をパタパタさせていた。


「寝室にひきまひょうよ」


 ラファエルは俺とキスをしながら隙を見て言った。自分の興奮がこの日で最高潮に達し、ラファエル以外の人が見えなくなってしまう。彼女の腰と膝の裏に手を回しお姫様抱っこをした俺は軽々と抱き上げる。小さく声を上げたラファエルを抱きかかえながら俺は寝室へと急いだ。



「海斗くん、おはようございます」


 パジャマを着て横で寝ているラファエルが俺の顔を覗き込みながら言う。目を擦りながら呂律が回らない中、彼女に軽く反応をする。


「はい、おはようございます」

「えっと。朝ごはんを用意してるからゆっくり着替えててね」


 昨日のことがあったからかラファエルの口調が一変していた。そそくさと足を床から離すことなく彼女は寝室を出ていく。

 結局のところ俺たちは昨日、肉体的な関係は持たなかった。二人とも着ている服を完全に脱ぎ、あと一歩で体を重ね合わせようという場所で踏み止まったのだ。こういう人のことを俗にヘタレというようなのだが、自分の取った行動は正しかったと思っている。昨日の夜はお互いの気持ちを深め合う、というよりも独りよがりなものになっていた。

 そう気付いたのは本当にギリギリの場所であった。ふとラファエルの怯えた表情を見た瞬間に俺の理性が戻ってきたのだ。彼女の心に一生消えることのない傷を植え付けるところだった。互いに裸の状態で何が何だか分からなかった俺は、ただただ自分のした行動を恥じたのだ。

 おかげで俺は冷静さを取り戻し、怯えきったラファエルに抱きつき安心させてから二人で眠りについた。俺は満足とまではいかなかったけど、幸せな時間を過ごした。彼女がどうだったのかは全く分からなかったが、今日の様子を見るに問題なさそうである。唯一、口調が昨日までとは打って変わって砕けていたことには驚かされた。


「二人でやらないといけないよな」


 二度とあんな自分の欲のままに動かないようにと深く誓う。俺は普段着であるワンピースに着替えてから朝の清らかな光差し込むリビングへ向かった。

 相変わらずラファエルは気分が良いようで鼻歌を歌いながら朝食の準備をしていた。俺も手伝おうとキッチンに向かおうとするのだが既に全てが終わっているようで、箸を持ったラファエルが出てくる。


「タイミングよく来てくれましたね。さ、一緒に朝ごはん、食べましょう」


 そう言うと俺の先を歩きながら食卓へと向かっていく。一緒に手を合わせてから朝食に手をつける。今日は左側に白米、右側に味噌汁、真ん中には卵焼きに鮭の塩焼きと理想的な朝食であった。


「そういえば今日は何します?」

「朝から昼までは明日の練習をしましょう。けど、昼からは予定は決まってないから……海斗くんは何したいかな?」

「えーっと、せっかくの休みだから一緒に買い物でもどうですか」

「それは良いですね! ちょうど私も夏物の服を買いたかったので」


 朝から夫婦のような会話をしていると不思議なものです時間はどんどんと過ぎていった。

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