第2話 純潔の花
高校三年、三月のある夜。
街灯のない浜辺で、海風がさざめいていた。
時計の針が二十四時を越えた瞬間、
世界は静止した。一切の音を失った。
波も風も、雲も月も、人間の呼吸すら、
その動きを止めた。
それから六十分。
俺と凛だけが、止まった世界に残された。
それが「二十五時」の始まりだった。
何もかもが沈黙する中で、凛がぽつりと呟く。
「ねぇ、この一時間、怜は何をしたい?」
問いかけに、俺はすぐに答えられなかった。
何がしたいかなんて、今まで考えたこともなかった。
ただ耐えるように毎日を過ごしてきた俺にとって、
「選べる時間」なんてものは、非現実だった。
「……凛は?」
問い返すと、彼女は少しだけ口元を歪めて、笑った。
その眼差しはひどく冷たくて、
何か——底知れないものを秘めていた。
得体の知れない、美しさだった。
一瞬、凛の肩が震えた気がした。
「大丈夫。ちょっと寒いだけ。」
夜はまだ冷えるね、そう言って笑う彼女の瞳が、
ほんの少し、濁って見えた。
沈黙の帰り道。
ふと足元に、光るものが見えた。
道端に、クロッカスの花が咲いていた。
紫と白の、小さな花。
誰が植えたのかもわからない。
人の目が届かない、夜の道端にひっそりと。
光のない夜に、凛として立つ色彩。
「この花、怜に似てる。真っ白で綺麗。」
「白いだけなら、凛だって」
「違うの。それだけじゃないの。
怜、知ってる?これも、時には呪いになるんだよ。」
「…花が、呪いになるの?」
凛は答えなかった。
代わりに、その中の一本を摘み取った。
その手の中で、まるで応えるように、花がゆっくりと開いた
「可哀想。こんなに綺麗な花なのに、こんな村じゃ腐るだけだよ。」
白い指に挟まれた白が、どこか痛々しい。
長い白髪が微かに揺れる。
その姿が、一瞬だけ、ひどく神聖に見えた。
「さっき、私は何をしたいのって聞いたでしょ?」
彼女の声は、かすかに震えていた。
けれど、その目は揺れていなかった。
「私ね、この村が大嫌い。最初からずっと。
人も空気も、全部、嘘くさい。
綺麗なふりして、全部濁ってる。
笑うときも、怒るときも、
みんな同じ顔をして、
私の髪を見て気持ち悪がってるくせに、誰も何も言わないの。
何も言わないくせに、ずっと見てる。
私が何かやらかすのを待ってるみたいに。
そういうのが、一番、気味悪いよ。」
微笑んだままの凛の顔が、月明かりに歪んで見えた。
得体の知れない不穏な空気が、漂い始めていた。
「全部壊せたら、どんな気分なんだろうね?」
俺は何も言えなかった。
言葉が喉に張り付いて、目を逸らすこともできないまま、凛を見ていた。
「私、全部殺しちゃいたい。
あの怪物たちも、この腐った村も、全部。」
笑っているのに、震えている。
震えているのに、その声には凛とした強さがあった。
俺の中にも、小さなざわめきが生まれていた。
それが恐怖なのか、共鳴なのか。
まだわからなかった。けれど、確かに、何かが動き出していた。
——俺も、この村が嫌いだった。
下らない反抗ばかりしていたが、壊したいと思ったことはなかった。
でも、壊れてほしいと願ったことなら、何度もあった。
凛の手の中で、クロッカスが砕けた。
潰れた花びらが、地面に落ちる。
その色は、なんだか泣いているように見えた。
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