百目鬼は嘘吐き
一途貫
第1話 嘘つきは泥棒の始まり
「
下の階から母さんの声が聞こえてくる。その口から出た名前は今日も聞きたくない人の名前だった。肩まで伸びた茶色い髪を掻いて、私は小さくあくびをする。
「ごめん、怪我が治っていないから今日も行けないって言っておいて」
部屋から一歩も出ずに、私はぶっきらぼうに母さんに返事をした。母さんが納得していないような顔をしているのが、二階にいても目に浮かぶ。それと同時に、腕が軋むように痛む。きっと怪我のせいだ。この怪我のせいで、私はこの頃部屋から一歩も出ていない。無造作に床に散らかった鞄に、開きっぱなしのノート。私の世界はそれだけだった。それだけでいいの。
(ククク、“怪我のせい”……か。やっぱりお前さんは嘘つきだよ)
ひねくれた声と共に、腕の痛みが激しくなった。そうだ、こいつのせいだ。こいつのせいで私の世界は閉ざされた。姿は見えないけど、その声は反響するように頭に響いてくる。腕が中から食い破られるような痛みに耐えかねて、私は小さく呻き声を上げた。
「どうしたんだ百代。また、怪我が痛むのか?」
父さんが、私の部屋のドアをノックする。心配そうな優しい手つきで、だけど、私は痛みでそのノックに答えることができなかった。
「今、包帯を取ってくるからね。じっとしていなさい」
ノックに反応しないのを確認するなり、父さんは勢いよく階段を駆け下りようとした。
「大丈夫……だよ。ちょっと傷口が開いちゃっただけだから」
私は苦し紛れに父さんを呼び止める。言葉とは裏腹に、怪我の痛みはどんどん広がっていった。今度は肩だ。服に覆われた肩に、何かが這い回るのを感じた。這い回った後に沿って、皮膚が、骨が、肉が、全部解体されるような感覚にさいなまれる。私は痛みをこらえて口を結んだ。言葉の代わりに、涙が溢れる。
「そ……そうか。無理はするなよ」
父さんは腑に落ちない声色のまま、私の部屋の前を去って行った。痛みで歪んだ私の顔に、少し安堵の色が浮かぶ。
(いい加減嘘をつくの止めなよ。“怪我人さん”)
あの声が嘲るように嗤う。こいつはいつだってそうだ。私の怪我が痛む度に嗤う。私はその声から目をそらすように、布団を目深に被った。
(俺を無視しようたって無駄だよ。俺はお前さんをずっと見ているんだからな)
耳鳴りのように声は囁く。痛みのあまり、私はシャツの袖をめくりあげた。そう、あいつはずと私を見ている。声しか聞こえないけど確かに見ている。目となって、私の一部として。私の肩には大きな目玉ができものの様に浮かんでいた。肩だけじゃない。二の腕にも、手の甲にも目玉がある。私の目とは明らかに違うその赤い目玉は、常に私の怯えた顔を映していた。私の一部じゃないのに、腕の上ではい回る感覚がする。その感覚に支配されればされるほど、私の腕は私のものじゃなくなったような気がした。これが私の“怪我”だ。治ることのない、永遠に私を蝕み続ける呪いだ。
(お前さんが嘘をつけばつくほど、その目玉は増えていく。百個になったらお前さんは、俺のものになるのさ)
愉快げに嗤う声。嘲るように私を見る目玉。この目玉が百個になったら、私はどうなるのだろう。この声に攫われて、二度と友達や家族と会えなくなるのかな。それとも、人間とは呼べない姿になって、町をうろつくのかな。どちらにせよ、到底みんなとは一緒に暮らせなくなるだろう。嘘をつかない。小学校の道徳の授業でも教わるような、ごく単純なきまりだ。でも、そんな簡単に守れるはずがない。なぜなら、この意地の悪い声は、私の行動まで制限しているからだ。
(そんなつれないこと言うなよ。俺はお前さんが傷つかないようにしているだけさ。お前さんの大切な家族や、大好きなお友達には心配をかけたくないだろ? だから、嘘で奴らを安心させてやっているのさ)
よく言うよ。その嘘のせいで体はどんどん蝕まれているのに。この声は私の本音まで奪った。油断したすきに、私の口を借りて嘘を述べる。その度に体に嘘でできた目玉が増えていく。自分のものじゃない、目玉が。
(お前さんには感謝しているよ。ようやく依り代になる女の体が手に入ったんだからさ)
そう、この声は元々私の中にいたものじゃない。一週間前、あの時から全てが変わった。あの日から、こいつとの嫌になる同居生活が始まったんだ。
「へぇ~。百っち、あの神社に行くんだ~」
「そうよ、急に鎮に呼び出されちゃって。鎮ったら掃除サボって、待ち合わせのために学校飛び出したのよ」
私はその日、いつも通り教室で親友の
「あの無愛想なマモがこんなメール送って来るなんて。百っち、これって絶対デートだよ!」
人目もはばからず、大声でまくし立てる摩子。摩子の悪いクセだよ。放課後で誰もいなかったからよかったけど。中学校の厳しい校則なんかものともしない金髪のショートヘアーを振り乱して、摩子は子供のようにはしゃぐ。まあ、摩子が騒がしいのはいつものことだ。小学校の頃から摩子とは親友だから、もう慣れている。デート……。私の頭には放課後の呼び出しと言ったら不良達のリンチしか思い浮かばなかった。鎮……神谷鎮(かみやまもる)は私の幼馴染みだ。幼馴染みと言っても、隣人だから会ったら挨拶するだけの間柄だ。部活に打ち込んでいるから、顔を合わせることは滅多にない。摩子の言う通り、普段は無口で無愛想な雰囲気が漂っている。リンチをするような人ではないと思うけど、神社なんかに呼び出すなんて一体何の用なんだろう。
「でも、
キーホルダーが主成分の学校鞄を肩にかけて、摩子は私の携帯を覗き見た。百々目木神社。名前だけなら聞いたことがある。町外れの廃神社だ。社が崩れかけていて、お参りする人なんて誰もいない。鎮が廃墟好きだなんて聞いたことがないけど。ただの冷やかしなのかな。鎮がそんなことをする人のようにも見えないけど。
「だよね。ただの悪戯なのかな」
「あのクソ真面目なマモがそんなことするわけないっしょ。百っち、これはチャンスだよ。今まで彼氏とかいなかったんだから。これでゲットしちゃえば良いじゃん!」
摩子が私の肩を激しく揺らす。彼氏いないって言うけど、すぐに他の男子が好きになっちゃう摩子みたいにもなりたくないよ。そもそもデートじゃないかも知れないし。隣人だけど、鎮にデートに誘われた事なんて一度も無いんだから。心の中で、私は必死に自分に言い聞かせる。
「百っち、顔赤いよ。ウチのファンデ貸そっか?」
「え? あ……いや、いいよ。……ってアンタ、化粧は校則違反でしょ?」
私の言葉に無邪気な子供のように首を傾げる摩子。ああ、アンタにはそもそも校則は関係なかったね。いつの間に顔が赤くなっていたなんて。鎮のことを考え過ぎたな。気を取り直して、私は顔を拭う。
「じゃ、ウチそろばん塾あるから。お先~。彼氏ゲットしてこいよ~」
言うなり、摩子は棚に置いてあるそろばんを取って、そそくさと教室を出て行く。バレバレの嘘だよ。塾嫌いの摩子がそろばん教室に行くわけ無いでしょ。ため息をついて私も教室を出て行く。
その時までは、まさかもう二度とこの教室に来ることはないとは思わなかったよ。私も正直浮かれていたし。何よりその日もいつもと同じように過ぎていくと思ったからね。でも、その日以来、私は摩子との雑談も、些細な嘘も、言い合うことはできなくなった。
百々目木神社……。噂通りの古い神社だ。朱塗りの壁の塗装は所々剥がれて、社の扉は片方外れている。夕暮れ時の蜩の鳴き声も相まって、本当に不気味だ。私は道路脇に自転車を駐めて、石段を登る。苔がびっしり生えていて、緑色の絨毯みたいだ。石段を登り終えると、社の側の木から一人の男の子が出てきた。鎮だ。半袖のワイシャツに黒いズボンと、いかにも学校から抜け出したような格好だ。縮れた黒髪を掻き、気難しそうな顔をしている。よく登校するときに見る姿だ。バットを持っていないのを見ると、どうやら呼び出した目的はリンチじゃなさそうで安心した。
「よう。来てくれて……ありがとな」
固く結んだ口を開く鎮。あのメールの文面通りの、ぎこちない言葉遣いだ。動作も指を仕切りに動かして、挙動不審に見える。
「こんな所に呼び出して、一体何の用?」
「ここなら、誰にも見つからないと思って。その……」
無愛想な顔のまま、鎮は言葉を続ける。鎮がこんなに口下手だったなんて。緊張して損したよ。でも、廃墟マニアの趣味でここを選んだ訳じゃなくて良かった。
「目良……。ずっとお前の事が……好きだったんだ」
鎮は精一杯喉から言葉を絞り出す。片手でくしゃくしゃの髪を掻きながら、視線を一向に私に合わせようとしない。でも、私はそんな鎮以上に取り乱していた。耳の裏まで赤くなって、額から汗が噴き出ている。どうしよう。これじゃあ摩子のことを悪く言えないよ。まさか本当に告白されるなんて。心臓の鼓動が速くなる。言葉が喉につっかえて息が詰まりそうだ。摩子だったら、返しの言葉がすぐに思いつくと思うけど、私はそんなものは思いつかない。
「え……す……すき?」
「そうだ。だから俺と……付き合ってくれ」
鎮はそう言うと、懐から花を取り出す。いかにもさっき摘んできたような花束だ。所々しおれている。私は恐る恐る花を手に取る。
「あ……あの……鎮……。その……」
あふれ出る言葉で私は溺れかける。鎮はなかなか私の返答がないせいか、不思議そうな顔をしている。ああ、何でも良いから言わなくちゃ。思考回路が頭の中でぐるぐる回っていた。だけど、私の口からは次の言葉は出てこなかった。突然、社の奥から黒い影が現れる。影は瞬く間に黒雲を作り出して、社全体を覆った。冷たい風が体中を吹き抜ける。恐怖のあまり、私は手に持っていた花束を落としてしまった。
「な……なんだ!?」
鎮は私の前に立って、辺りを見渡す。影から無数の目が浮き出て、私達を見る。赤い目玉が、獲物を見つけて嬉しそうに歪む。いつの間にか私達は、無数の目に取り囲まれていた。
(クククク、何百年ぶりだろうな。ここを訪れる人間がいるとは)
不気味な男の声が、四方八方から聞こえる。明らかに鎮の声じゃない。悪意に満ちた、地の底から響くような声だ。私の頭の中には自然と、逃げるという一つの考えが浮かんでいた。
(逃げることはできないよ。やっと来てくれた客人だ。手厚くもてなさないといけないからね)
冷や汗が走る鎮の横顔。声の主は私達の浅はかな考えを読み取ったのか、愉快そうに嗤っていた。鎮は震える拳を握り締める。鎮は私を庇うように前に立っていた。でも、私は恐怖のあまり、何もできない。そんな自分が悔しかった。
「目良、逃げろ! 俺のことは良いから、早く!」
「え……でも……鎮のことを置いていけないよ」
逃げるように促す鎮。だけど、私はその場から動けなかった。恐ろしさが足の動きを止めていたんだ。それでも、鎮は強い視線で私に訴えかける。
(勇ましいねぇ。昔、俺を封印した奴を思い出すよ。お前さんを食うのも悪かない)
悪意に満ちた声が乾いた笑い声をあげる。その時、私の体に黒い影がまとわりついた。影は首に、腕に、足にどんどん広がっていく。冷たい手に掴まれた感触が私を覆う。私の耳元で、影が風のように唸る。
(でも、俺は生憎ひねくれ者でね。お前さんみたいに勇敢に立ち向かってくる奴より、この女みたいな口では心配しているが、内心逃げたがっている嘘つきの方が好物なのさ)
影が大きな口を開くように、私に覆い被さる。暗闇にかき消えていく視界の中には、鎮の絶望に満ちた顔が浮かんでいた。その顔を見ていると、少しでも逃げようとした自分が嫌になってくる。眼前に浮かぶ暗闇は、私の後悔までは消してくれなかった。
(安心しな。俺は一気食いなんて真似はしない。時間をかけて、お前さんが俺のものになるまで、じっくり味わってやるさ)
声と共に、無数の目玉が私にまとわりついた。目玉は体中に広がって、私を覆い尽くしていく。それと同時に、奇妙な感触が私を襲った。この醜悪な目玉も、辺りの暗闇も、全て自分の一部のように感じられた。まるで自分の皮膚と溶け合って、結合していくように。体だけじゃない。意識も増殖していく目玉と共に溶けていく。自分が自分ではなくなっていくように。
こうして私はその化け物を……呪いを甘受してしまった。
気がつくと、私と鎮は、神社の石段で倒れていた。いつの間にか私達は石段から落ちていたのか、足を怪我していたの。救急車に運ばれ、私達は治療を受けた。幸い、私も鎮も軽傷で済んで、その日のうちに退院できた。私の体は目玉に覆い尽くされたはずなのに、なんともなかった。神社で会った怪物のことは、誰も知らない。……鎮さえも。その時私は、神社で起こった出来事は、全て夢だと思った。いや、そう思い込んだ。あの目玉の化け物も、呪いも。でも、その時までだった。私がそんな夢に酔いしれられていたのも。呪いの本当の恐ろしさを知らないで過ごせたのも。
窓から覗く陽も傾いてきた。私は、肩から覗く目玉を憎々しげに見る。この目玉が初めてできたのはちょうど一週間前だ。怪我の治りが遅い私を、両親が病院に連れて行こうとしたとき、私は大丈夫だと拒否した。そうしたら手の甲に激痛が走って、あの目玉が出てきたんだ。化け物とそっくりな目が。あの時から、私はふとした時に嘘を付くようになった。ご飯が食べたいのに拒絶して、親友の遊びの誘いも忙しくないのに断って。その度に目玉が増えた。そして、あの化け物の声も聞こえるようになった。
(ずいぶんと酷い言われ様だね。俺は単純にあの神社から離れたかっただけだよ。そこにお前さんらが来ただけ)
そう、たったそれだけ。それだけで私はこの呪いを受けたんだ。この化け物が自由になるための依り代のためだけに。私は布団を握り締める。あれから毎日、鎮は怪我のお見舞いに私の家に来てくれている。でも、それに私が応じる事は無かった。だって……こんな姿、鎮には見せられないもの。
(でも、お友達や家族を悲しませないためにも、お前さんは嘘をつき続けるしかないよ。そんな姿を見た日なんかには、誰もお前さんには近づかなくなるだろうね)
頭の中で百々目鬼が囁く。姿こそは見えないけど、あいつの姿は容易に想像できる。濁った無数の赤い目玉に覆われた、黒い粘着質の体をした化け物だ。
ふいに、私の携帯の着信音がけたたましく鳴り響いた。私はブラウスの袖を直して、目玉の浮かんだ肩を隠す。そして、携帯の画面を見た。
「……もしもし?」
「ああっ! 百っち! よかったぁ~。全然つながらないから心配したんだよ!」
妙に懐かしげに聞こえる声。聞いていると、肩の痛みが少し引いたような気がした。摩子の声は相変わらず大きく、甲高い。自然と私の目には、涙が浮かんでいた。
「ごめん、心配かけて」
「一体どしたの? 一週間も学校に来ていないなんて。センセもマモも心配してたよ」
「ちょっと転んで怪我しちゃったんだ。それがだいぶ長引いちゃって……」
言い終わらないうちに、背中に激痛が走った。まただ……。悲鳴を出すまいと、私は歯を食いしばる。何かが背中を突き破ろうと蠢いていた。携帯を持つ手が震える。激痛に耐えかねて、私は床に崩れ落ちた。
「だ、大丈夫? だいぶしんどそうだけど」
「へ、平気よ。ちょっと休んでいれば治るって……」
額に玉のような汗を浮かべながら、私は会話を続ける。今度は脇腹が痛んだ。私は空いている方の手で脇腹を押さえる。その手に生暖かい感触が伝わった。ブラウスの脇腹の辺りが赤黒くにじむ。手には薄い皮の様なものと、鮮血が付いていた。また一つ……また一つと体の一部があいつのものになっていく。でも、摩子に本当のことは話せなかった。もし、摩子が今の私の姿を見たら、きっともう友達ではいられなくなるだろう。
「ぶっ倒れそうだったら、ウチに言ってね。学校ブッチしてでも百っちのトコに行くから」
「……ありがとう。……それじゃあね」
言い終わるやいなや、私は耐えきれず、電話を切った。背中から血と共に目玉が飛び出して、私はもだえ苦しむ。それを見て、百々目鬼は面白おかしく嗤っていた。その姿が見えた訳じゃない。だけど、私の苦しむ声と一緒に、枯れ木がざわつくようにせせら笑う声が聞こえた。
(ハハハハ、頑張るね。お前さんは本当に優しい嘘をつくよ)
百々目鬼の煽り立てる声。それが耳に入らないほど、私は痛みに支配されていた。青どれぐらい嘘をつけば、この痛みが収まるのだろう。いや、そもそもこの痛みがなくなる頃に、私の意識は残っているのかな?
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